かみさまはいない

戦の御旗に

旗が翻った。
恐ろしい龍が描かれた深紅の軍旗。
味方の間から吼えるような歓声が沸く。
戦に勝利した高揚と歓びの声。
その中に混じる悲しみを、ヴィクターの耳は確かにとらえていた。

「被害が大きかったな」

入り江は赤黒く染まり、多くのモノが緩やかな波間に浮き沈みを繰り返していた。
武器の残骸であったり、船から剥がれ落ちた木片や切れたロープ。
そして、既に息も鼓動も無い敵味方の身体。
目を眇めるようにしてヴィクターはその惨い光景を見やった。
こんな有様を見るのは何も今回が初めてではない。
歓びに混じる悲しみや痛みを訴える声もよく知っている。
だからこそ、何の感慨も無いかのように振舞う術も身に付けた。

「各隊長に伝達。日暮れまで待つ、出立と夜間航行の準備を整えるように。
 西方司令部に向かう、それまでは警戒を緩めないように」

物言うことなく立っていた若い通信員は、敬礼して伝達内容を復唱する。
それにヴィクターが頷くと、彼ははさっと走っていった。
戦場に到着後僅かの時間で、ヴィクターの部下たちは独自の連絡網を敷いていた。
多くの艦艇部隊が集められた戦だった。
援軍として戦場に赴いたヴィクターが、
味方の状況をすぐさま把握し指揮することができたのは優秀な隊員たちのおかげでもある。
ヴィクターが自ら集めた隊員たちは、ベテランから若い者まで粒揃いで、
皆が何かのエキスパートと言ってもいいくらいだ。
決して部下を甘やかしはしないヴィクターだが、部下たちを信頼し大切にしていた。

「エト!先触れに行け、西方司令部に補給と休養の準備をさせるんだ。
 お前の班は連れて行っていい、波は静かなようだが気をつけてな」
「承知しました!」

隊員たちは皆号令一つで動く。
連れてきた当初は頼りなかったエトセトラも、今では若い隊員たちをよくまとめている。

「ああそうだ、制服は持っていけよ」
「心得ています」

戦闘部隊を称しているヴィクター隊の隊員たちは全員が戦闘服を常時装着している。
無論、常にフル装備というわけではないが制服を着ることは稀だった。
それに、隊員たちは制服を着ることをあまり好まない。
ヴィクターはそれを非機能的だとか非効率的だからだと解釈しているようだが、
実際は変に目立つからというのがその理由だった。
特殊部隊である第七艦艇部隊の服装は、各部隊の隊長にデザインが委ねられている。
各部隊によって性質が大きく異なるからだ。
戦闘服さえ目的にかなっていれば、ヴィクターにとって制服はどうでも良かったのか、
出来上がった制服は形こそ普通だがライムの果汁のような色になっていた。
おかげでどの海軍施設に行っても制服を着ていれば一目でヴィクター隊と知れて、
わざわざ身分証明をする必要が無いどころか名乗りを上げる必要すら無かった。
労を少なくして相手に要求を飲んでもらうには便利な一着だ。

「今回ばかりは俺でも息が詰まりそうだった。
 ラッキーなことに、最終的には勝利の旗を掲げて終わったけどな」

甲板にどかりと腰を下ろして、ヴィクターは戦に使った武器の検分を始めた。
細かい刃毀れは致し方ないとは言え、眉を顰めずにはいられない。
そんなヴィクターの隣にはひとりの青年が佇んでいる。
特徴らしい特徴は無いが、立ち位置や軽く武器に添えられた手許、
そして視線の配り方の一つ一つが隙のない戦士であることを示している。
彼は普段、ヴィクターを影から護衛している。

「敵側にあの街からの援軍があれば負けていたかもしれん。
 シャムからの手回しが間に合ったから良かったが、際どい状況だったな。
 ぎりぎりの状況でどうすりゃあ負けねえかって考えるのは楽じゃない」

手近にあった木箱から乾いた布を引っ張り出しつつ喋るヴィクターに、
立ちっぱなしの青年はちらりと目を向けた。
一瞬のことだが、話を聞いているというのはわかる。

「敵の旗、見ただろう?死んだ奴等と一緒に浮かんでた。
 一歩間違えりゃ、ああなってのはこっちの旗かもしれなかった」

龍の旗は海軍そのものだ。
旗が海に沈む時、それは紛れもなく敗戦を意味する。

「それにしても、随分死なせた。敵も味方も。
 唯一の救いは俺の部隊で誰も欠けなかったことだ」

周りの部隊の被害は甚大だった。
部隊そのものが壊滅状態という隊もあるくらいだ。
ヴィクター軍の被害の少なさは驚異的と言える。
援軍で後から来たとは言え、戦闘中は最前線で闘っていたのだから。

「俺たちの部隊に求められるのは勝利という結果だけだし、
 それに応えてきたという自負も、他の部隊には負けねえって自信もある。
 けど、こんな戦しちまうと時々これでいいのか考えちまう」

戦闘時の相棒である戟を丁寧に拭きながら、ヴィクターは苦い笑みを浮かべる。
何も言わない部下を相手に話していれば独り言のようなものだ。

「死力を尽くして得た勝利だ、あの旗はその証だ。
 でも、多くを失った所為であれが弔旗にも見えるんだ」

ぱたりと音を立てて旗が風に煽られる。
立っている青年は首を巡らして赤い旗を一瞥した。
そしてまた、それまでと同じように辺りに目を配る。

「旗には違いありませんし、勝利は勝利です」

ぼそりと言われた言葉にヴィクターは弾かれたように顔を上げた。
まじまじと青年を見やれば、視線を下げた彼と僅かに目が合った。
「何か?」と言わんばかりに青年は目を細めたが、ヴィクターは小さく首を振った。

「・・・勝利は勝利だ、確かにな。色々考えるより良い割り切り方だ。
 それにしても驚いたな。お前が喋ったのって何年ぶりだろうな」

あまりに声を聞いていなかった所為で、青年が喋れることを忘れていた。
ヴィクターと出会う前に戦で負った心的ストレスの所為か、
ほとんど喋らなくなったのだという情報はエキゾチカから届けられていた。
喋ろうが黙ろうが、有能な兵ならばヴィクターは全くかまわない。

「少将!」

あんな声だったのかとひとり懐かしんでいるヴィクターの背後から声が掛かる。

「うん?エキゾチカか、どうだった?」
「一通り被害の確認と重傷者の手当をしてきました」

汚れた白衣を身に纏ったエキゾチカが近寄ってくる。

「航行に支障をきたす程度の破損が二艇、航行する船員が組織できないのが三部隊。
 現在、一時的に船員を配備しなおす手配をしています。
 損壊の激しい船舶は沈めてよいでしょうか?」
「そりゃ俺じゃなくてこの現場の総指揮官に聞く方が良いんじゃないか?」
「総指揮官は怪我と損害状況で心身共に的確な判断が下せる状況にないため、
 ヴィクター将軍の指示に従うようにと仰せでした」
「ふうん」

ヴィクターが間に合わなければ負け戦になっていただろうから、
身も心もすり減るような思いをしていたのは確かだろう。
それでも、後始末を終えるまで上に立つ者は毅然としているべきだ。

「仕方ない、俺も中途半端に指示を出しちまったしな。
 風が強くならなければ油を流して火を点けろ。
 火葬にする。水葬にしてやりたいがこの辺りは水深が無いから危険だ」
「承知しました、そのように周知致します」

エキゾチカは軽い足音をたてて走っていった。
ヴィクターの部下たちは皆よく働く。

「この戦ももう終いだな。さて、次か」

次の戦にも、赤い龍の旗を携えて向かう。
その旗が弔旗とはならぬように、そんな想いがヴィクターの胸に刹那浮かんで消えた。

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ヴィクターと名も無き部下と。

信じた果てに何があるのか

ハァイ、と背後から陽気な声が聞こえてきてエトセトラは反射的に振り向いた。
途端に、しかめっ面だった彼女の表情は和らいだ。

「エレクトラ!久しぶりね!驚いたわ、西に異動になったの?」

立ち寄った西方司令部にいたのは仲良しのエレクトラだ。
エトセトラの記憶ではエレクトラは海図局の所属、
すなわち海軍の総司令部があるところで働いていたはずだった。

「久しぶり。ただのお遣いよ、未だにこんなのばっかり」
「またまた、ご指名なんでしょ?エレクに来て欲しい輩がたくさんいるって噂よ。
 大人気じゃない。それに、出張は悪くないでしょう?」
「人気なんて嘘よ、彼氏だってできないのに」
「私だってそうよ。周りは男ばかりなのに色恋とは縁も無い」

エレクトラとエトセトラは揃って溜息を吐いた。
しかし、ふたりとも本当に悩んでなんていない。
たまには愚痴を吐くことも必要だというだけで。

「ねえ、エト。焼き菓子がおいしいお店を聞いたの。行かない?」
「いいわね。補給が必要だと思っていたところなの」

明るい太陽が照りつける道を、エトセトラはエレクトラに連れられるままに歩いた。
西方司令部所属の軍員や、海軍施設で働く職員たち、寄港中の部隊員、
そして戦いで傷ついた身体を癒している海軍兵。
軍の色が強い場所だが、戦場ではないからかどこか穏やかだった。
エレクトラもそうだが、皆の表情も声音も明るい。

「すっごく見られてるわね、やっぱりその制服は目立つのよ」
「ああ・・・それで」
「今回だってヴィクター少将がいなきゃ負けてたかもってもっぱらの噂だし、
 そのヴィクター部隊の制服着て歩いていたらそりゃ注目浴びるわね」
「まあ、どこで何してても目を引くんだけど」

とても華やかな色に加えて光沢のある糸で織られた布地でできた服は、
イブニングドレスにしても良いくらいには目を引く。
何故そんな布を選んだのかと聞かれたエトセトラの上官たるヴィクターは、
一瞥して目を引いたから何となくと呆れるような答えを返したものだ。

「でも、最初はこの服着て出歩くのがとても嫌だったの」
「派手だしね」
「それもあるけど、この制服着てたら“あのヴィクター部隊だ”って思われるでしょ?
 それだけで優秀な隊員なんだって勘違いされるし、変に歓迎されるし」

確かに、とエレクトラは頷いた。
どのようにして見つけるのか、ヴィクターが選んだ隊員たちは非凡だ。
戦場で活躍できる先頭力は勿論、いつでも闘って勝つだけの準備ができているのは、
その情報収集力や日々のマネジメント力、そしてなにがしかの工作能力、
そういうものが揃ってなおかつ噛み合っていなければならない。
個々の隊員の能力を挙げていけば、どれだけこの部隊が凄いかわかる筈だ。

「私って普通も普通だし、色々申し訳ないというか身の置き場がないというか。
 堂々とこの変な色の服着て歩く度胸は無かったわ」
「今さらっと変なって・・・。まあ、でも、今はそれなりってことでしょ?」
「どうかしら」

自分が普通だというエトセトラの見解は決して間違っていなかった。
彼女が学校を卒業したその当時ですらヴィクター部隊の精強さはよく知れていた。
平々凡々な学校生活を送り、良くも悪くも無い成績で卒業を迎えたエトセトラが
そんな部隊に入る理由はどこにも無かったし望んで入れるものでは勿論無い。
その状況をあっさりひっくり返したのはヴィクターの気まぐれ以外の何者でもない。

「名前がおもしろいからって部隊に引き込まれたのよ、それなりも何もねえ」
「でも、それってただの冗談でしょう?」
「本当よ、たちの悪いことにね。いい?うちの隊長は戦闘以外に関してはおバカなの。
 ユーモアも冗談も言えないしデリカシーは無いし空気も読めないし」
「言うわね」

あまりにもその活躍が華々しいせいで忘れられがちだが、
学問という点に置いてはヴィクターの能力は底辺レベルだし言動もとにかく軽い。
付き合いも長くなったエトセトラはもう慣れたが、
副官のエキゾチカなどは上官の言動が災いを招かないようフォローに頭を痛めている。

「普通、名前がおもしろいから選んだとか選ばれた当事者に言う?言わないわよ。
 もっともな理由を並べるものよ。でも、うちの隊長は本当のことを言っちゃうの」
「そう言うけど、あたしはヴィクター少将は凄いと思うわ。
 普通なエトを捨てなかったし先触れに出られるくらいまで育てたんだし。
 少なくともエトがちゃんと食らいついて来られることは見抜いたんでしょ?」
「どうかしら。でも、私を捨てなかったことは確かだし
 長い目で見て使えるようになるまで待ってくれたことは感謝しているわ」

喋りながらエレクトラとエトセトラは大きく育った椰子の木の下にある店に入った。
涼しげなすだれの間から明るい光が差し込む店内はそれなりに混んでいる。
半分くらいは海軍の関係者のようだ。
エトセトラの格好に好奇と憧憬の目が向けられている。

「喉渇いちゃった。エトもオレンジジュースでいい?えっと、大瓶で一つね。
 そっちの焼きバナナとカノムクロックもちょうだい」

初めて来た店とは思えないほど慣れたようにエレクトラはさっさと注文を済ませた。
ジュースの瓶はエトセトラが受け取り、支払いを済ませたエレクトラと共に
集まる視線を気にすることなく壁際の席に座った。
渡された二つのカップに絞りたてのオレンジジュースを注いで互いに手に取る。

「改めて、我が軍の勝利とエトの無事に乾杯」
「エレクも出張お疲れ様」

エレクトラは一気にカップの中身を飲み干した。
エトセトラも半分くらいを勢いよく飲んで、残り半分は味わうようにゆっくりと飲んだ。

「幸せ、これだけで生き返る心地だわ。船の上だとこういうのは飲めないし」
「そうかあ、じゃあこういう甘い焼き菓子も久々でしょ?」
「すごく久々。あ、このカノムクロック美味しい。カリッと焼けていて香ばしいわ」

エトセトラは無言で二つほど焼き菓子を平らげ、ふっと息を吐く。
焼きバナナを食べていたエレクトラも満足そうに一つ息を零した。

「隊長は隊員が病気になったりお腹を空かせたりしないように気を配ってはくれるけど、
 口にできれば何でも良いと思っているみたいなのよね。
 だから航海に出ている間はあんまり美味しい物は口にできないのよ」
「へえ。色んな所に出向くんだし、そこで美味しい物でも食べられたらいいのにね」
「隊員同士ではたまに食べに行くのよ。市場があったら寄ったりもするしね」

もう一つ焼き菓子を手にとってエトセトラはクスッと笑った。

「隊長は美味しい物食べても喜ばないし、マズイ物食べさせられても平然としてるの。
 私は美味しい焼き菓子食べるだけで幸せだと思うのに」
「いいじゃない。ささやかで安上がりな幸せなんて最高よ。
 それに、贅沢だったりグルメな上司を持つと大変よ。たまにいるんだから」

何か思い当たる節でもあるのか、エレクトラは大袈裟に溜め息を吐いてみせる。
数多の上級軍員が出入りする司令部勤めは色々なことに気を回さなければならない。

「エトは良い隊長についたわね。それがヴィクター少将の気まぐれだったとしてもね。
 少将の部隊って、波や天候すら味方に付けているとすら言われているじゃない。
 援軍に行ってすぐに味方の全体指揮を執れるとも聞くし」
「そうね、情報収集の対象は敵だけじゃなく味方とか海にも及ぶからね。
 味方の戦い方や性格、戦場の状況を集めておけば援軍に行ってすぐに活動できるわ。
 闘う準備はいつでもできているのよ」
「そういうの格好いいなあ。自分の部隊をそこまで徹底的に戦える部隊にするなんて
 生半な統率力じゃできたもんじゃないわね。
 エトもそうだけど、隊員たちはヴィクター少将に絶対の信頼置いているのでしょうね」
「確かにね」

ヴィクターは学問は無いし、ユーモアのセンスも無ければデリカシーも無い。
だが、才能と言うべき統率力と戦闘力を持ち合わせている。
有能な者を見出す目を持っているし、隊員たちへの絶対の信頼は揺らぎもしない。
何より、彼には強い信念がある。

「海軍というか、たぶんジョージ総司令官のためだと私は思うのよ」
「何が?」
「隊長が力を尽くして闘う理由よ。どんな想いがあるのかは知らないけどね。
 私には特別な才能なんてないし、通常業務だけで手一杯なんだけど、
 でも、この部隊と隊長の信頼に応えるためなら全力で責任は果たすわ」
「へえ・・・」

力強く言い切ったエトセトラが、グイとジュースを飲み干すのを見つめ、
エレクトラは感嘆の声を零した。

「冴えない女の子だったエトがここまで変わるなんて思わなかったわ。
 正直、いつ音を上げるのかって心配してたもの」
「今でも必死よ。後から入ってくる隊員の方が優秀なんだもの。
 でも、隊長が私に仕事を任せてくれる限りは自分から出て行ったりはしないわ」

素晴らしいと湛えられるヴィクターには数多の欠点がある。
エトセトラはそれをよく知っているが、彼の指揮を心から信じてる。
なぜなら、平凡以外の何者でもなかった彼女を導き
超一流と言われる隊員たちの間で遜色なく働き戦場に立ち向かえるようにしたのだから。
エトセトラが信じるのはヴィクターの強さと信念だ。
そのヴィクターの信念の先にあるのはきっと、総司令官ジョージの描く海軍の未来。

「私は海軍の未来のために闘っているのよ、多分ね」
「多分って、何それ」

エレクトラがおかしそうに笑う。
つられるようにしてエトセトラも笑った。
信じた果てにあるのは壮大なビジョン。
そこに何が描かれるかなど、想像はできないから。

「だってそれ以外言いようがないもの」

稀代の天才指揮官が目指すものを共に追うだけで良い。
誰か任せの未来でも、そこには充分にここにいる理由があるのだから。

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エトセトラとエレクトラ。
時系列敵には「戦の御旗に」と並列。
先触れに出されたエトのお話。

手にするは武器かペンか

執務室の扉をノックする音がする。
このところ、その音はジョージをはじめとした執務室の面々を苛立たせている。
誰かが溜息を吐くが、誰もそれを咎めたりはしない。
ジョージも小さく息を吐くと「入れ」命じた。

「失礼いたします。第七艦艇部隊ヴィクター隊長より言伝を預かって参りました」

入ってきたのは情報統括部の制服を纏った青年だった。
ビル・ベイリーだと決めてかかっていたジョージは僅かに目を瞠った。
その青年の顔をジョージは何度か見たことがある。
機転が利いて冷静な判断ができると評価されていて、ヴィクターも好んで彼を遣う。

「ヴィクター?」
「本日早朝、西部旧貴族領近海における海戦の援軍に向かう旨伝達がございました」
「ふうん・・・痺れを切らしたかな。他には?」

往々にして事後連絡の多いヴィクターが、早々に連絡を寄越すのは何かあると踏んで
ジョージは手にしていたペンを置いて背を伸ばした。
連絡員の青年は素早く執務官らの間を抜けて総司令官の机に歩み寄ると、
制服の内側から折りたたまれた紙を取り出してジョージに手渡した。

「ご覧下さい。元は暗号文でした。読解に時間がかかってしまい申し訳ありません」
「いや、ご苦労だった。追って返事をする、今は引き取ってもらってかまわない」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」

さっと敬礼をして連絡員の青年は部屋を出て行った。
扉が閉まる小さな音を聞きながら、ジョージは畳まれた紙を広げた。
紙は二枚あった。
少し厚みのある黄味がかった紙には意味不明の文字列の羅列。
もう一枚はその暗号を解読したらしい文章が書かれた紙。

「ヴィクターの字じゃないな、あの女性通信員だろう。
 この暗号化は知らないパターンだな、あまり使われないものは復号に時間もかかる」
「それで、ヴィクター少将は何と?」

一心に書類を捌いていたメグが顔を上げて訊ねる。
ジョージの関心が珍しい暗号文に向かないようにするには良いタイミングだ。

「・・・裏工作の要請だな。旧貴族の一部が敵に呼応しそうな気配があるそうだ」

紙に目を走らせながらジョージは呟くように言った。

「参謀本部に会議を招集しますか?」

上官の声が聞こえたらしい執務官が仕事の手を止めて言う。
それに首を振ったのはメグだ。

「いいえ、ヴィクター部隊は移動が速いし、風に悩まされる時期でもないわ。
 彼が到着するまでに工作が間に合わなければ無意味かもしれないしね。
 連絡員が直接ここに持ってきたのは、総司令官に判断を委ねたいからよ」
「自分もそう思います。先ほどからビル少尉の持ってくる報告はまるでかんばしくない。
 手を打つのなら、会議に諮る時間も惜しいですよ」

若手の執務官も机上の書類から目を離して口を挟んだ。

「まあ、皆の言う通りだ。だが、相手が微妙だな。旧貴族か・・・ふむ。
 メグ司令官、羊皮紙はどこだった?インクも良いのがどこかにあったな」

既に天才と言われる海軍の長の脳内には、今回の工作の筋書きができ始めたようだ。
毎度のことながら、執務官たちは舌を巻くしかない。

「メグ司令官、すぐにビルを呼んでくれ」
「かしこまりました」

メグが伝声管に向かっている間に、ジョージはその辺りの紙を手に取って
猛烈な勢いで何かを書き始めた。
ほとんど手を止めずに文字を書き連ねる総司令官の姿を横目で見ながら、
執務官らはそれぞれの仕事を再開した。
時間にすれば四半時も経たない頃、執務室の扉は再びノックされた。

「どうぞ」

真剣にペンを取っているジョージの代わりにメグが声を掛ける。
「失礼いたします」と入ってきたのは今度こそビル・ベイリーだ。
その声に反応したのかジョージは手を止めた。

「ああ、ご苦労だったなビル。来てもらってすぐで悪いが、これを届けてきてくれ。
 届け先はギルバート隊のヴィクトリア、すぐに返事をもらって欲しい」
「承知しました。お預かりします」
「うん。彼女の返事をもらったら次はギルバート隊長をここに呼んでくれ」
「畏まりました。ギルバート隊のヴィクトリア隊員に確かにお届けします。
 その後、ギルバート隊長にお越しいただくよう申し伝えます」

受け取った書簡を制服にしまったビル・ベイリーは、
きれいな敬礼をするとさっと部屋を出て行った。

「・・・ギルバート隊長に何をさせるおつもりです?」
「まあそう目くじらを立てるな、メグ司令官」
「そういうつもりは・・・」

珍しく口ごもるメグにジョージは僅かな笑みを向けた。

「難しい仕事になる、彼が適任だ。船足の速い小型船が必要だな」
「・・・用意させます」

ギルバートの名を聞くと、メグの表情が複雑そうに曇るのをジョージは知っている。
それでも、ジョージはギルバートとその仲間たちの能力を高く買っている。
これまでにも幾つか簡単ではない仕事を与えたが、期待通りの働きだった。

「旧貴族連中に言うことをきかせる、これは簡単なことじゃない。
 必要なのは権力と胆力だ。ギルバート隊にはそれがある。そう思わないか、メグ」

伝声管の蓋を閉じてメグが振り返った。

「旧貴族など目じゃないほどの上級貴族の書簡一枚と、
 戦闘ムードの貴族領に乗り込むだけの度胸があればいい、ということですね」

ギルバート部隊にはヴィクトリアがいる。
超が付く上流貴族の娘だ。
彼女から家長に頼んで圧力をかけてもらえれば、権力に弱い貴族連中は動けなくなる。
穏健派の貴族だ、強力を取り付けるのは難しくない。
戦はしないようにと諭す一枚の手紙があればそれでいい。

「あの領地へは途中までは水路でいいが、海も川も途中から敵軍に阻まれている。
 旧貴族たちは軍を嫌っているから簡単に領地には入れないし」
「確かに、補給するのを拒まれることもしばしばと聞いています」
「そうだ、だから山道を通って中心街の後ろ側に迂回するのがいい。
 陸上に強い部隊は中央に置いていないし、自ずと適任は限られてくる。
 それに、ギルバート隊長の度胸は見上げたものだ。そうだろう?」

ジョージに刃を向けるくらいには。
メグはぐっと押し黙ったが、近くに座っている執務官は愉快そうに笑った。

「ギルバート隊長はここに来ても全く緊張しているように見えませんしね。
 顔に出ないだけなのかもしれませんが」
「交渉ごとでは感情を読ませないというのは一つの強みになるし、
 相手に威圧感を与えない風貌というのも大事だ。
 あとはどう言いくるめるかだが、そこは私の出番だろう?」

持っていたペンを小さなインク壷に浸してジョージは笑みを浮かべた。
今も昔も彼の武器は言葉だった。
共闘したい相手を取り込み、敵対する相手までをも篭絡し、
血を流さずとも勝利への道筋をつける。
今は直接出向くことは少ないが、ペンを執ってはその言葉を味方に託している。

「何より強い武器になりますね」

メグは表情を和らげて言った。

「というわけで、メグ。ちょっと相談なんだが、これを見てくれ」
「何です?」

貴族領周辺の地図を広げるジョージの手元をメグが覗き込む。
そのまま、ああでもないこうでもないと議論が始まった。
他の執務官たちは「また始まった」と言わんばかりに顔を見合わせると、
手を止めていた己の仕事を再開する。
執務官たちは、今日こそメグが上司を「ジョージ」と呼び捨てにしないかと期待する。
ふたりきりなら互いを呼び捨てにする仲と言われるが、執務官たちはその現場を知らない。
これまでメグが執務官らの前で総司令官を呼び捨てにしたことはないし、
不敬な言葉遣いをしたこともなかった。
プライベートではいざ知らず、メグはジョージの部下であることに徹している。

「よし、これなら間に合う。だが、もう一つくらい手を打っておきたいな」
「以前に目を通した資料を総合的に判断しますと、ここは日和見の傾向があります」
「なるほど、それならば・・・」

ともかくも、様々な仕事に忙殺されて疲れの見えるジョージが
楽しげに策略を巡らしているのは悪いことではない。
は熱を帯びる議論にせき立てられるように、執務室に集う面々は仕事を続ける。
彼らは知っている。
手に取るのが剣でなくても、誰をも突き刺すことのできないペンであっても、
それが全てを覆す武器になり得ることを。
その武器を自在に操れる男が、彼らの目の前にいることを。

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ジョージとメグ。
前々回のヴィクターと前回のエトセトラの話より時系列的には前の話。

ジョージとメグが所属する総司令部総司令室は有能な執務官の集まり。
ジョージが呼び捨てにする分にはいいんじゃないか、上官だもの。

頼れるのは己の力

今日の宿は、毛皮に蝋を塗りこめて継ぎはぎしただけの覆いと、
やはり毛皮でできた(こちらは少しだけ柔らかい)敷物という簡易なものだ。
木立の間の目立たないところに何箇所か紐で縛って覆いを吊り下げ、
できた空間に敷物を広げただけの快適さとはほど遠い狭いただの寝床。
それでも多少の雨風は防げるし、青天井の地面に寝転がることを思えば何倍も良い。
ディミータはこの簡易宿所について文句などなかったし、
むしろこの空間をさっさと作り上げた上司たちに感心すらしていた。
ここは揺れる船上でも無ければ、波音の絶えない海上でもない。
街中で生まれて海軍に所属するディミータには縁の無い山中だ。
そしてこの旅は極秘のもので、普通の民が通るような道を行くことはできない。
行動するのは原則として日の出てない間。
生い茂る木々の間で月明かりも当てにはできないし、足元を照らすためでも火は使えない。
自分たちの居場所を教えるようなものだ。
とはいえ、鋭い牙と爪を持つ森のハンターから身を守るために炎は有効だ。
身の安全のためにどちらを取るかの判断は旅のリーダーに委ねられた。
彼はほとんど迷うことなく火を使わない選択をした。
幸いにしてこの山中に森のハンターはほとんどおらず、
そもそも温暖なこの国で腹を減らすほど飢えることなどないのだという。
ディミータはそんな知識など持ち合わせていない。
黙って頷いて従うのみだ。





重なった毛皮の扉が少し開いて、白い光が差し込んでくる。
反射的に目を細めてディミータは寝転んだ体勢のまま顔を向けた。

「寒くはないか?」

低い声とともに、その声の主がするりと入り込んでくる。
夜は明けたばかり、これからが休息の時間だ。

「平気よ。でも、思ったより冷えるのね」

簡易宿の入り口がはらりと落ちた毛皮で塞がり、元の仄暗さが戻ってくる。

「そうだな。随分上ったから」

服を縛る帯を緩めながら、ディミータの隣に腰を下ろしたのはランパスキャット。
彼と、今は外で見張りをしているであろうギルバートがこの旅の仲間だ。
目的地の西の旧貴族領地は叛乱の気配を濃く漂わせた危うい場所で、
武装した集団が道を塞いで領地に入ったり出たりする者たちの荷物を調べている。
そんな勝手な真似が許されるはずは無いが、この地域は元々国の権力が弱く、
元貴族を騙る者たちが幅を利かせているのが実態だった。
ここ最近は、敵対国と通じているという噂が絶えない。

「山越えなど久々だ。それにしても聞けば聞くほど厄介な奴等だな」
「ええ。自分たちが力を持っていると思い込んでいるのね、きっと。
 でも、叛乱なんて望んでいない領主も民も多いでしょうに」
「そうでなけりゃ今回の任務は難しくなる」

争いは望まなくとも、叛乱に加担することで利益が得られると思い込まされているのか、
貴族崩れの土地持ちたちは金や労働力を差し出しているという。
その流れを止めるのが今度の任務。
何のことは無い、有力者に会って手紙を二通ほど差し出すだけだ。
その手紙の内一通は貴族の中でも特に地位が高いと言われる名門一家の当主が書いた。
庶民には分からない権威という力が、貴族たちの間で有効に働くという。
もう一通は海軍トップのジョージが書いたものだ。
彼が綴る言葉には抗いがたい説得力がある。
これらの重要な手紙を有力者に辿り着くまでに取り上げられてはたまらない。
その上、もう時間が無いのだ。
敵対国が進撃の構えを見せているという報告が入っている。
それに呼応されると、対外的な争いと同時に内乱が起こることになる。

「手紙を渡すだけよね?そんなに簡単に止めさせられるの?」
「大丈夫だとカーバが言っていたし、俺に貴族様や金持ちの考えることはわからん。
 だが、より大きな権力と利益に靡くのは想像に難くない」

小ばかにしたように鼻で嗤って、ランパスキャットはごろりとそこに寝転がった。
ここにはくっつくようにして漸くふたり並べるくらいのスペースしかない。
ただでさえ狭い仮宿は、身体の大きな男にとっては相当窮屈らしく、
眉間に皺を寄せながら懐から抜いた短剣を枕元に置いている。

「冷たいな」
「地面が?それはどうしようも」
「手だ、ディミータ。随分冷えている、やっぱり寒いんじゃないか?」

囁くように言われて、ディミータはきょとんとした。

「そうなのかしら。でも、心配ないわ。さっきより暖かいもの。
 そう思わない?あなたは筋肉の塊だもの、日向ぼっこをしているみたいに暖かいわ」
「泥まみれだが・・・まあ、気にならないならこうしよう。
 ディミは暖かいし俺はこれでちょっと広く感じられる。悪くないだろう?」

逞しい腕に抱きこまれ、ディミータはくすくすと笑った。

「おかしいくらいに色気が無いわね」
「色事はまた今度だ。柔らかいベッドの上がいい」
「ええ、素敵ね」

温もりを得たディミータは、夜通し歩いた疲れもあってすぐに眠りに落ちた。
幾らか経って目が覚めたのは、隣にいた相手が身動ぎしたのを感じ取ったから。

「ああ、悪い。起こしたな」
「いいのよ。それよりランパス、寝ていなかったの?」
「休んではいたさ。あまり地面の上で寝るのは好きじゃなくてね」

ランパスキャットが苦笑する気配に、ディミータは小さく溜息を吐いた。

「そう。でも、向こうに着いて寝不足だと大変よ。隊長の護衛でしょう?」
「いや、俺が貴族様に会いに行く。ギルバートでは相手に舐められてしまう。
 残念ながら、少数部族ってだけで毛嫌いするような連中らしいからな。
 今回は隊長が俺の従者ってことだ、衣装を用意すれば顔も見せずに済む」
「くだらないのね、聚落するような貴族様が考えることなんて。
 それで、そんなプライドばかり高そうな方々があなたに会ってくれるの?
 それにあなたは喧嘩っ早いし、相手を殴りそうで心配よ」

僅かに眉根を寄せるディミータを更に抱き寄せて、ランパスキャットは喉の奥で笑う。

「これが驚いたことに、それなりの衣装を着るとそれなりに見えるものでね。
 借り物だが、まあ悪くない。所詮は見た目で相手を推し量るような輩だ。
 あとは貴族らしいお上品な物言いさえできればどうとでもなる」
「そういえばあなたの弟さんは貴族だったわね、よいお手本ね」

ふふっと笑いを零したディミータに少しばかり険しい目を向けたランパスキャットだが、
仕方ないとばかりに息を吐いてその通りだと肯定した。

「でも、貴族のふりをするなら山越えなんてしなくていいでしょう?」
「準備期間が短すぎて通行証だとかよくわからない証書だとかが用意できなくてな。
 紹介状だけはヴィクトリアの家が書いてくれたから貴族様に会うことはできる。
 道は限られる、だからこそギルバートが指名された。海だけでなく山にも詳しい」
「それで貴族のふりをさせるのに貴方を連れてきたのね。
 女は舐められるし、マキャは別件で留守、カーバはやっぱり少数部族だし、
 タンブルと天秤にかけたら私でも貴方を選ぶわ」

それで、とディミータは抱きすくめられたまま相手にじっと視線を送った。

「何故私を連れてきたの?」
「ああ、それは」

ランパスキャットは目を細め、ディミータの額に唇を寄せた。

「貴族様の独り旅ってのもおかしいだろう?だから、ディミは俺の妻の役だ」
「そういう話は出発前にしてくれないかしら?何も準備していないじゃない」
「大丈夫、服装小道具一式は持ってきた。
 ディミが旅の準備をしてくれている間にヴィクトリアとボンバルが見立てたものだ」

真の貴族であるヴィクトリアの教養と舞姫ボンバルリーナのセンスを持ってすれば問題ない、
問題は無いがディミータはほんの少し厭な予感がしていた。
帰った時にボンバルリーナに根掘り葉掘り聞かれるのは間違いない。
それも、とびきり綺麗で可愛い笑顔に子供のようにキラキラの目で。

「もう一つ、理由があって。どうも向こうの主は美しい女性が大層好きなようでな。
 どうしてもこちらに靡かないようなら・・・何と言うか」
「女であることを利用しろって?」

珍しくも言い淀むランパスキャットの言葉をあっさりと引き取ったものの、
ディミータはさり気なく視線を逸らした。

「こんなこと言って良いのかわからないけど」

いつの間にか相手の服を掴んでいた手に無意識に力が入る。

「リーナが適任よ、元々が宮廷の踊り子でそういう手管にも心得があるみたいだし。
 私が色っぽいことに慣れていないのは隊長も知っているのに」
「ストップ」

低い声が言い募ろうとするディミータを制止する。
ぴくりと身体を震わせた彼女の背をランパスキャットの大きな手が宥めるようにさする。

「無論、隊長は真っ先にボンバルをあたった。俺もそのつもりだったしな。
 色仕掛けに頼るつもりは毛の先ほども無いとは言え、万が一を考えた。
 だが、断られた。ディミを連れて行けと言われたんだ。驚いたか?」
「驚いたわ。リーナが私の名を出すなんて。でも、何か理由があるのね?」
「女に頼らなくて良いように何とかしなさい、と言われた。
 ディミータを連れて行ったら死んでも何とかするでしょう、だとさ」

ランパスキャットが喉の奥で笑うのを聞いて、ディミータは目を上げた。

「心配する必要はまるで無い、俺がうまくやってみせる。
 そのためにアロンゾに頼んでまで貴族様の作法とやらを学んできたんだからな。
 あいつ、ニヤニヤしてて何度か殴ろうかと」
「それはお兄さんが頼ってくれることを喜んでいたのだと思うわ。
 殴っちゃダメよ、この任務が終わったらきちんとお礼をしなさいね」
「まあそれは追々考えるとして。ディミータ、やっぱり万が一の事は考えてくれ。
 俺は三文芝居なんて得意じゃ無いし、隊長も心境は複雑だろうさ。
 ろくな武器も持っては行けないしな。全てが際どい状況で動いていく」

急ぎの旅だ、山越えの装備は最低限。天候が荒れれば計画が崩れることもある。
貴族を改心させる武器は二通の手紙のみ。上手くゆく保証はどこにも無い。
ギルバートもランパスキャットも、得手ではないフィールドに立たされる。

「不都合なことはいくらでも起こりうるわ、よくわかっているつもりよ。
 小型のナイフくらい仕込める衣装でしょう?」
「当然だ。だが、かなり短いナイフになるだろうな」
「切開用のナイフに痺れ薬をたっぷり塗っておくつもりよ、本当は麻酔薬だけど。
 女を売り物にはできないけど、医師で兵士である私ならいくらでも戦えるわ。
 度胸なら負けない、体術だってね。貴男には勝てないけど」
「頼もしいな。隊長の命令があればヴィクやボンバルを連れてくることもできた。
 でも、俺はディミータで良かったと思っている」

緊張が滲むランパスキャットの吐息がディミータの耳を掠める。

「不確定要素と虚飾に塗れた任務だ、信じられるのは自分だけと思ってもいい。
 ディミはそれができる、任務を果たし身を護るために俺たちを頼ろうとしていない」
「自分くらいは護りたいもの。でも、頼りにはしているわ」
「それは嬉しいな、そうでないと少しばかり男としてのプライドが傷つく」
「それを言うなら貴男はもう少し周りを頼るべきよ。
 己の強さを頼むのはいいけれど、いつもその構えだとみんなやりにくいわ、それに」

躊躇うように言い淀んで目を逸らすディミータに、
ランパスキャットは訝るようにして僅かに目を細めた。

「それに?」
「わ、私だって貴男と同じなんだから。少しくらい頼ってくれないかなと思うもの。
 貴男が頼ってくれるのって死にかけてる時くらいだし」
「そうか?ディミには随分世話になっているけどな。
 まあ周りを頼れというのは隊長にも言われたし、皆の力を信じていないわけじゃない。
 ただ、護る側でいたいってだけだ。これについては譲れなくてね」
「我が儘ね」

微苦笑を浮かべて、ディミータはランパスキャットの胸に耳を寄せた。
彼女の耳に届くのは規則正しい鼓動。
その力強い音に満足して無意識の内に安堵の息を吐く。
今までに何度、その音が途切れるかと恐れた事があったか知れない。

「貴男は全力で任務を成功させて。
 腕っ節の強さだけじゃなくて、はったりを利かせた仕事もできるところを見せて。
 私は仕込みナイフを御守りにして貴男の妻を演じきってみせるわ」
「そうだな。これが成功すれば俺をただの筋肉の塊と思っている奴も見直すだろう。
 さあ、もう少し寝るだろう?休めるときに休んでおけ」
「貴男こそ。外に隊長もいるし、何も心配せずに休めばいいわ」

なぜランパスキャットが寝ようとしないのか、ディミータは何となく分かっていた。
硬く冷たい地面は、彼にかつての悲惨な記憶を引き出させるのだろう。
直接聞いたことは無い、ぽつぽつと語られる過去を継ぎ接ぎして導いた憶測だ。

「寝る努力はする」
「山を越えれば柔らかな寝台で眠れるけれど。
 大丈夫、貴男が眠っている間に私も隊長もいなくなったりしないし、
 目を醒ました貴男をいたぶったりもしないわ」
「そうだろうな」

孤独に耐えて生きてきた者たちがディミータの周りにはたくさんいる。
ランパスキャットだけではない、ギルバートやカーバケッティもそうだ。
タンブルブルータスも、マキャヴィティも。
孤独の形は違えども、彼らは皆自分の力だけを頼りに生きていこうとしている。
ディミータは医師だが、記憶に深く刻まれた孤独の傷を治す術は知らない。
周りを信じて、頼っていいのだと折に触れて伝えることしたできていない。

「お休み、ランパス。あ、その前に。
 私のためにリーナたちが用意してくれた服、私に似合うと思う?」
「無論だ。少し見せてもらったが良い色合いだった。
 貴族の服など派手なだけで窮屈そうだとばかり思っていたけどな。
 厭味のない華やかさだったし、縫製をいじればナイフも仕込める」
「まあ、身を護るのは大切よね。貴男の服もきっと立派に違いないわ。
 衣装が良ければランパスはきっと誰にも負けない良い男だもの。
 リーナには贔屓目だって言われたけど」

くすくすと笑うディミータを、ランパスキャットはぐいと抱き寄せた。
今までよりもずっと強く。

「ランパス?」
「こうすれば多分眠れる」
「そう?でも、もう少し腕を緩めてくれるとありがたいわ」

息苦しくてそう訴えたディミータを締め付ける力が心持ち緩くなる。

「ディミに褒められると良い気分だ、この任務も成功する気がする。
 それと、ディミはどんな服を着ていても一番綺麗だ」
「・・・・・・っ!」

思わず叫びそうになったディミータは、しかし異変を感じて声を飲み込んだ。

「ランパス?」

応えは無い。代わりに聞こえるのは穏やかな息遣いだけ。

「せめてお休みくらい言ってから寝なさいよ」

呆れと安堵の入り混じった溜め息を吐いて、ディミータも目を閉じた。
山を越えたところで待っている不安だらけの任務も、少しの間忘れ去って。

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ディミータとランパスキャット。
時系列としては、この前の「手にするは武器かペンか」の続き。
説得を仰せつかったギルバートにお供するふたり。

直球で合い告げる方法しか知らない。
でも、それでお互い幸せだから問題無し。

だから名前を、呼んであげる

ことり。ことり。
夜に紛れて両側から橋を渡る影が二つ。
川の向こうの異国とこの国をつなぐ大きくて頑丈な橋は、
戦時中とも言うべき状況を迎えて行き来ができないように閉鎖されている。
というのは表向きだけで、実際には隣国の内通者を通して
自国の転覆を狙う旧貴族たちの重要な連絡通路になっていた。
橋の両側には各国の警備兵が立っていて、おいそれとは通れない。
それでも、今橋を歩いているふたりには何ら脅威ではない。
なぜなら彼らはその気になればこの世界から姿を隠してしまえる異能の者だから。

「これで最後」

かたっと小さな音を立てて丸い塊が橋げたに置かれる。
橋の下はそれなりに流れの速い川だ。
微かな音は気にしなくても橋の警備兵には聞こえない。

「手筈どおりかい?」
「勿論」

真っ黒なローブの下に光る金色の双眸が二対。

「それにしてもちょっと時間が掛かったね、兄さんの方は」
「慎重だと言ってくれるかな。火薬は水に弱いんだ、置く場所は選ばないと」
「考え事してたにしても、もうちょっとマシな言い訳にしなよ。
 橋げたのど真ん中に置いて歩くのに水に濡れるわけないよ」

しかもお粗末な代物とはいえ蓋をした小さな壷に入っているのに。
黒いフードの下でくすくすと笑うのは小柄な青年、名はクアクソー。
彼の前で苦い顔をしてみせる青年も、やはり小柄で黒い衣装に身を包んでいる。
名前はミストフェリーズ。
顔も背丈も体格も何から何までそっくりで、誰に言われずとも双子と知れる。

「実際に渡ってみると見た目以上に大きく感じるよ」
「そうだね。火薬も多いかと思ったけど殆ど余らなかったし。
 残り少しだけど、持って帰るのも面倒だね。置いていこう」
「賢明だろうね。勢い余って引火すると厭だから」
「そんな失敗しないよ」

彼らの間でひそひそと交わされる会話は、もし誰かが見ていれば
どちらが喋っているのか皆目検討が付かないとぼやいたかもしれない。

「これに全部入るかな・・・っと」

後ろ手に背負子に載せた箱から一つ壷を取り出したミストフェリーズは、
腰に下げた袋から火薬の詰まった紙袋をありったけ取り出して壷に詰め込んだ。

「ぎりぎりかな。まあ蓋は閉めなくていいや。クアクソーは火薬残してる?」
「うん、ちょっとだけ。僕もここにまとめて置いていくよ」

二つの黒い影は、特に辺りを警戒するわけでもなく悠々と物騒な作業を終わらすと、
揃って欄干から身を乗り出し水面を覗き込んだ。

「準備できたよ。降りていい?」

その声に応えるかのように、月の光も届かず一際暗い橋の影から
一艘の小船の舳先がゆっくりと現れた。
ひょいと突き出された櫂が、降りてこいとばかりに振られる。

「じゃあ、僕から」
「うん。滑るなよ」

欄干に巻き付けたロープを掴んだクアクソーは、躊躇いなく小舟へと降りてゆく。
ピンと張ったロープが少し緩んだのを見て取ったミストフェリーズも、
ひらりと欄干を越えロープを伝って小舟に降り立った。

「首尾は?」
「「上々」」

黒い衣装に櫂を持つ舵取りの問いかけに、二つの声が全く同じ音で応える。

「そんじゃあ離れるか」

櫂を掴んで居るのとは反対側の手が衣装のフードを跳ね上げる。
見事な赤毛が川面を撫でる風に揺れた。

「マンゴ、できるだけ急いで」
「まあ頑張るよ」

理由を聞くでもなく、マンゴジェリーは頷いて船尾の方に移動した。

「流れが速いから、転覆したら運が悪かったと思ってくれ」
「大丈夫だよ、僕らはね」
「そうだろうな」

ミストフェリーズとクアクソーは同じようなポーズで橋を見上げている。
同じ衣装を着ていると、付き合いの長いマンゴジェリーでも見分けが付かない。
フードさえ外せばミストフェリーズは片耳が欠けているから分かるのだが。

「よし、出発だ」

腰に佩いた剣で橋脚小舟を結んでいたロープをぶつりと切ると、
マンゴジェリーは橋脚をぐっと押して小舟を流れに乗せた。
ぐらりと揺れたものの、小舟は順調に流れに乗って川を滑ってゆく。

「あの橋が無くなれば密通ができなくなる。貴族気取りの輩には大打撃だ」
「うん。情報も金も流れなくなればきっと大混乱だよ」
「これから起きる華麗なるショーを彼らはどんな顔で見るのかな」
「あんぐり口を開けて見入ってくれるんじゃないかな」

ミストフェリーズとクアクソーが見つめる先で、
アーチ状の木造橋はどんどん遠ざかり小さくなってゆく。
置いてきた小さな壷の中で、ミストフェリーズ渾身の傑作となった火薬が
その威力を発揮するのを今か今かと待っているはずだ。
とは言え、時間が経てば自然に発火するものでもないし
壷が一つ燃えたところで大した威力も派手さも無い。
全てが一斉に火を噴いてこそ、望んだ大火が見られるのだ。

「さあ、始めようか」
「うん。それじゃあ、スリーカウントで」
「いくよ・・・・・・スリー」

ミストフェリーズとクアクソーは揺れる小舟に危なげなく立ったままで、
二対の金色の目が橋全体に照準を合わせるように動く。

「ツー」

マンゴジェリーは、そっくりの姿勢で立ち尽くすふたりのバランス感覚に
軽く感心すら覚えながらなるべく船を安定させようとした。

「ワン」

双子の喉の奥で低い音が響く。
何かに話し掛けているのか、呼んでいるのか。

「・・・・・・ショータイム」

抑揚のないミストフェリーズの呟きは、
ビシリと何かが裂けたような大きな音に掻き消された。
振り返ったマンゴジェリーは、言葉を失ったままぽかんと口を開けている。
橋の上の空間が裂け―――比喩ではなく本当に裂けたように見えるのだ―――
禍々しいその裂け目から一斉に青白い雷光が走った。
それは本当に一瞬の出来事で、次の瞬間には光など無かったように消え失せていた。

「うまくいったね」
「どうかな。これからが本番だ」

ぐらりと大きく小舟が傾いだ。
マンゴジェリーは慌てて前に向き直って行く手を確認し、
どうしても気になってもう一度振り返り目を瞠った。
橋から盛大に火柱が吹き上がっている。

「すげえ」
「まだだよ、マンゴ。あと少しであの橋は永遠に消える。
 僕が特別に配合した火薬だからね。形ある物は全て無に帰るべきだ」
「はは、あの橋が消える?粉々にな・・・!?」

特大の火柱が轟音を上げて吹き上がり、
マンゴジェリーは口を開けたまま呆然と橋が火だるまになるのを見つめている。

「時間の問題だね。綺麗に崩れそうだ」
「とはいえ、多少の波は覚悟した方がいいね。
 流動体のエネルギー変換は得意じゃないから波動の無効化は難しい」
「変に手を打つよりは船頭の舵取りの手腕に期待するよ」
「オマエら勝手なこと言いやがって・・・」

早々に茫然自失の状態から復活を遂げたマンゴジェリーは双子を睨むが、
双子はご機嫌な様子でマンゴジェリーの方を見もしない。

「信頼してるってことだよ、マンゴジェリー」
「仲間のためだしね。そうでしょ、マンゴジェリー?」
「・・・・・・オマエらが楽しそうで何よりだ」

旧貴族領は、ミストフェリーズらの仲間であるラム・タム・タガーの生まれ故郷だ。
彼自身は、年若い頃に大胆な盗みをやらかして這々の体で街を逃げ出したのだが、
それでもここが生まれ育った場所であることに違いはない。
それを、争いに巻き込んだ挙げ句に別の国に良いように踏み込ませるなど
どんな事情があろうと聞いて面白い話であるはずがない。
黙っていれば絶世の美男子と言われる整いすぎた顔を不愉快そうに顰めて、
寂しげに故郷の方を見やるラム・タム・タガーなどそう見られるものではない。
失ったものにも過去にも興味を示さない男だが、
彼は故郷を失ったわけでもないし、故郷は過去の遺物というわけでもない。
今でも故郷は故郷だ。
曇った端正な横顔を暫く眺めていたミストフェリーズは、ふと思ったのだ。
「彼のために何かできることがあるはずだ」と。

「僕の配合した火薬はそれなりに安定的にできているんだ。
 ちょっと揺らしたりぶつけたりしても爆発はしない。
 でも、強い衝撃を与えるか強めの熱源を与えてやると強烈な爆発を起こす」
「効果は見ての通りだよ。一斉に衝撃を与えるために雷を呼び出したけど、
 他に特別なことはしていない。あの火薬だけで橋が木っ端だ」

火薬の配合には知識と計算が必要な上に危険も伴う。
ミストフェリーズは周りから見ても頭が良く肝も据わっている。
そして、寂しがり屋だ。構ってやれば鬱陶しいと言わんばかりの言動を取るが、
それが歓びを捻くれた形で表したものだと気付くのに時間を要すことはない。

「それにしてもオマエらがタガーの為に一肌脱ぐとはね」

マンゴジェリーは、慎重に櫂と舵を操りながらうまく小舟を流れに乗せている。
そんな赤毛の仲間をチラリと見下ろして、ミストフェリーズは笑みを浮かべた。

「僕らは、今の仲間たちの前以外ではほとんど力は使わないんだ。
 気味悪がられるからね。悪魔だって言われる」

それに頷いて、クアクソーが話を続ける。

「グロールタイガーの船だって畏怖されるのは構わないんだよね。
 でも、気味が悪いって石を投げられるのは本当に辛かったんだ。
 好きこのんで手に入れたものでも無いのに」

ミストフェリーズとクアクソーは幼い頃からふたりで生きてきた。
空間を歪めエネルギーを操るその力を使えば、日々の食料は簡単に手に入ったが、
それでもふたりはその力を使うことを恐れ隠れるようにして生き延びてきたのだ。
やむを得ず手品と称し簡単な術を披露して小銭を稼ぐこともあったが、
観客や話を聞いた誰かが必ず悪魔だと言い出してその場に留まることはできなかった。

「グロールタイガー船の海賊たちは違ったよ。
 まず、あのいかれた船長からして全然違った」

思い出したようにミストフェリーズはフフッと笑う。
あの時から、双子の生活は一変したのだ。

「船長は僕らのこと面白いことができるガキとしか思ってなかったし、
 マンカスは凄いなって感心してくれたくらいだ」
「タガーはね、“気に入った、船でもっと見せろ"だったかな」
「そうそう。それで、“オマエらの名前は?"って聞いてきた。
 そこで気付いたんだ。僕らは誰かに名乗った事なんてなかったって」

ね、とふたごは顔を見合わせてクスクス笑う。
とかく今夜は上機嫌だ。

「名前を呼ばれるって嬉しいよね」
「きっと僕ら嬉しそうな顔してたんだよ」
「タガーはよく僕らのこと呼んでくれたものさ。
 大体はくだらない内容だったけどね」
「それが気遣いだって気付くまでちょっと時間が掛かったよ」

歓びを得た理由は単純なことだった。
持っている名前を当たり前のように呼んでもらう。
それがとても暖かでこそばゆいほど嬉しいのだと双子は気付いたのだ。

「僕らが寂しいと思った時はタガーとかスキンブルとかマンゴも気付いてくれるし、
 それで僕らが満たされた分は時々恩返ししたくなってね」
「どうせやるなら派手な方がいいよね」

ミストフェリーズとクアクソーは満足気に胸を張った。

「・・・そこに俺を巻き込むのかよ」

ぼそっと零れたマンゴジェリーの独り言を、
双子の聡い耳は周りの騒音やフードの布を物ともせずに拾う。

「巻き込むなんて聞こえが悪いなあ。手伝ってくれたんでしょ?」
「マンゴもタガーのこと心配してたもんね」

短い付き合いではない。
全てお見通しだ。
気を付けてとだけ言って送り出してくれた現船長のマンカストラップも、
鈍いと言われながら実のところ全てを悟っているのかも知れない。
無論、何も気付いていない可能性は否めないが。

「参ったな」

聞かれないように喉の奥で呻いたマンゴジェリーの耳に、
橋が崩れる盛大な音と大小の悲鳴が届く。

「「パーフェクト!」」

同じ声をぴったり揃えてはしゃぐミストフェリーズとクアクソーに、
大人しくしろと怒鳴って、マンゴジェリーは無意識に櫂を握りしめた。

「転覆したら責任取れよ!」

襲ってくるであろう大きな揺れに恐れを抱きながらマンゴジェリーが叫べば、
「泳げるから大丈夫だよ」と無責任な応えがあった。
それでも、双子の楽しそうな声は憎めない。
だから、マンゴジェリーは褒美をあげることにした。

「ミスト、クアクソー」

名前を呼んでやる。
双子は弾かれたように振り返った。

「良い仕事だった」

ミストフェリーズとクアクソーはいつもの小生意気な笑みではなく
純粋に嬉しそうな笑顔を見せる。

「まあ、当然だよね」
「僕らの実力からすればね」

あんなに喜んでいるくせに言っていることは可愛くない。
きっと、タガーから素直じゃない礼を受け取ったところで
双子はやはり可愛くない態度を取るのだろう。

「ミスト、クアクソー」

もう一度、呼ぶ。
双子は揃って首を傾げた。

「座れ。落ちたくないならな」

船頭たるマンゴジェリーの言葉に、双子は素直に従った。
そっくりの顔にはそっくりの得意げで満足げな笑顔があった。

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サブタイトルは、黒猫の恩返し。
クアクソーはミストフェリーズほど自信家ではないのですが、
片割れのアクが強いと感化されるようです。

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