恋シタ
1.自分の恋だけを求めていた
わからないかもしれないな、そう言ってカーバケッティは微苦笑を浮かべた。
「残念だが」
「得手不得手はあるさ」
「それで片付けていいのだろうか」
まじめな縞猫は、僅かに眉を寄せて憂いの表情を見せる。
よく整った横顔だ。
カーバケッティはそんなことを思いつつ、やはり微かな苦笑を浮かべたままでいる。
男から見ても良い男だというのに、色恋話にはとんと縁が無いらしい。
全てはこの男、マンカストラップの見事なまでの鈍感さが原因だが、
敢えてそれを指摘するのはかの厄介な幼馴染みくらいだろう。
「お前が気を揉むのもわかるが、どうにもならないこともある。
それに、彼女はもう手のかかる子供じゃないさ」
「それはそうだが」
「納得しなくてもいいけど、とりあえず眉間の皺は消しておけ。癖になるぞ」
端正な顔を困惑で微かに歪めたまま、マンカストラップはカーバケッティの方に向き直った。
「不安は無いのか?カーバは」
「不安?何に対して不安を抱く必要がある?」
「これといって具体的な要素はないが、漠たる不安だ。よくわからないから余計にな」
マンカストラップの眉間の皺は益々深まり、カーバケッティの苦笑の色は更に濃くなる。
どうしようもないというのに。
「お前は優しい上に甘くて鈍い」
「褒めてはいないな?」
「愛すべきリーダーだということだ。なあマンカス、お前は恋をしたことがあるか?」
「は・・・?」
唐突な展開についていけず、マンカストラップは間の抜けた声と共に固まった。
「それも淡い恋心じゃなくて、周りが見えなくなるくらいの激しいやつだ」
「ああ、いや・・・たぶん無い、な」
「マンカスじゃ性格からして無さそうだな」
小さく喉を鳴らしてカーバケッティは笑う。
何なのだと言わんばかりのマンカストラップの視線などまるで気にしていない。
「ありゃ恋煩いってやつだ、おそらくな。好きで好きでたまらなくってな、周りが見えなくなる」
「まるで経験があるみたいだが」
「舐めるなよ。俺だってそういう時はあったさ」
舐めちゃいない、というマンカストラップの反論は聞こえたかどうか、
カーバケッティはどこか遠くを眺めている。
その視線の先にあるのは、いつもと同じ昼下がりの街並み。
「そういう時があったっていい。周りに迷惑が掛かっても、彼女はまだまだ若いから許される。
彼女が傷つくのを恐れているのか?それは大きなお世話だぞ」
「そうだろうな。俺があれこれ思い悩むのはいつものことだ」
「自覚はあるわけか。それなら敢えて放っておくんだな。
どんな結果になろうと、この経験は生きていく上で糧になる」
カーバケッティはふっと笑って独り言のように言葉を続ける。
「そう、周りなんて関係無い。己の想いしか見ていなくてもいい。
想いが届く届かないは結果でしかないしな。
例えその想いが許されるものでなかったとして、誰かに止められるものでなし」
「口出し無用ってことか。安心しろ、そこまで野暮なことはしない」
「だろうな。まあ必要なら向こうから助けを求めてくるさ。それに」
何かを懐かしむように、カーバケッティは目を細めた。
「それに?」
「あいつは分別のある奴だ、恐らくお前が思う以上にな」
「そうであればいいが、なんせ俺は付き合いがない」
まだまだ納得はしていないようだが、マンカストラップの眉間の皺はいつの間にか消えている。
ぐっと伸びをして、リーダー猫はくるりと向きを変えた。
「じゃ、俺は見回りに戻る。突然すまなかった」
「いや、見回りご苦労様」
柔らかな光の中、未だ何処かへと視線を飛ばしたままカーバケッティは応じて言った。
その姿に、あの紳士のかつての焦がれるような想いを見た気がして、
マンカストラップは気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「恋煩い、か」
溜め息と共に零れた言葉の響きの何と青臭いことか。
「俺にはわからんかな」
幾分か軽くなった足取りで、マンカストラップはいつもの道を歩いて行く。
自分の恋だけを見つめ、自分の恋だけを求める。
それでいい。
ふわりと良い香りがする。ラム・タム・タガーはうっすらと目を開き、
一つ吐息を零して再び目を閉じた。
「月が蒼白いわね、良い夜だわ」
しっとりとした声がタガーの耳に届き、すぐ傍に体温を感じる。
触れてくる手の温みははどこか官能的ですらある。
「こんなに良い夜に貴方はごろ寝?」
「うっせえ、触んじゃねえよ」
「酷いのね。さっきは何も言わなかったのに」
淡々と、ボンバルリーナは嘯いた。酷いなんてこれっぽっちも思っていない口振りだ。
気紛れで扱いにくくて、そこいら中に色気を振りまいてくる。
「鬱陶しい」
「似ているものね」
私たち、とボンバルリーナは艶やかな声で笑う。
「オレは寝てんだよ、男なら他にもいるじゃねえか。戯れは余所でしろ」
「あら、私はタガーに会いに来たのよ。久しぶりでしょう?」
「ふん、お前の気紛れに付き合ってられっか」
気紛れはお互い様。
逢いたいと思えば一方的に押し掛ける強引さも同じ。
「起きろとは言わないわ。私がここにいたいだけ」
「物好きめ」
「言うわね。貴方は私のこういうところが好ましいと思っているのでしょうに」
クスクスと笑う声を聞きながら、タガーはむくりと身体を起こした。
「ったく、よく喋る奴だな」
「良い月夜だもの、浮かれて饒舌になっているんだわ」
ボンバルリーナはするりとタガーに身を寄せてくる。ふっと漂うのは花の香り。
タガーはぼりぼりと無造作に頭をかきながら欠伸をした。
ぼやけた視界に蒼い月明りが届き、なるほど今夜の月は悪くないと思う。
「で?何の用だ」
「具体的な用事は無いの。でも、大切なことよ」
「だから何だ、まどろっこしいのはゴメンだぜ」
僅かに視線をずらせば、微笑むボンバルリーナの口許が目に入る。
その唇がタガーの名を呼ぶ。無駄に妖艶なのがいけない。
「ねえ、タガー」
「何だよ」
「愛しているわ」
タガーはなかなかの切れ者でそれなりに口達者だし要領も良い。
そんな彼をしても、この場合は咄嗟に反応できなかった。
そんな彼の様子を意に介するでもなく、
ボンバルリーナはやや伏せていた瞼をゆったりと持ち上げて笑みを深めた。
「愛しているわ、タガー。ねえ、だから愛して」
「そりゃあまた」
えらい理屈ではないか。愛しているから愛してくれなどと。
深い溜め息を吐いて、タガーはわざとらしく月を見上げた。
美しいとは思うが、月を愛でる気分でもなかったのに。
「知っているでしょう、彼女のこと」
「ん?ああ、あの石頭が何かと気を揉んでたやつか」
「ええ、それだと思うわ。貴方に無性に逢いたくて、逢ったら言おうと思ったの。愛してって」
彼女に感化されたのかしらね、とボンバルリーナはおかしそうに笑う。
「格好悪くても良いと思ったわ。だって、そうでしょう?」
「いや、何がそうなのかさっぱりわからねえ」
何時になくボンバルリーナは若い娘のようだ。タガーは月を見るのを辞めて、そんな娘に目を向ける。
「愛してほしいと思うじゃない。恋なんて、見返りを求めて当然でしょ?
例えその想いが叶う可能性が限り無くゼロに近くても、愛したからには愛してほしいわ。
見ているだけなんてきっといつか我慢できなくなるもの」
「我が儘だな」
「傍から見ればそうなるかしらね」
「そうだな。けどオレはそういう奴が嫌いじゃねえ」
時にはなりふり構わず、ひたすら己の想いを追うことがあってもいい。
ただ、自分が巻き込まれるのは御免こうむる。
「私、思っていたわ。タガーだけは手に入らなくていいって。掴まえたくて仕方なかったのにね」
「ふうん」
「でも、こうして傍にいられるようになってわかったの。
やっぱり手に入れることを何処かで望んでいたんだって」
凭れかかるボンバルリーナの頬を、ファーの柔らかな毛先がくすぐる。
「なあ、ボンバル」
「ふふ、ようやく名前を呼んでくれたわね。何かしら?」
「不満か?」
何がとか、どんなふうにとか、そんなことは一切言葉に乗せずただ問い掛ける。
「充分に満たされていないというのを不満と言うなら不満だわ。でも、嫌な感情じゃない。
貴方が私の欲求に全て応える義務なんて毛の先程も無いし、逆も然り」
それでもボンバルリーナは求め続けるのだろう、愛などという得体も知れず形の無いものを。
「貴方に恋をして、貴方の面影を追って、今たぶん貴方に手が届いていると思うの。
貴方から愛していると言われなくても、私は哀しくなんてないけれど」
「いつか言わせてみせるんだな」
「じゃ、彼女とどっちが先か競争かしら」
「あいつぁあっさり言っちまうんじゃねえの?ま、愛がどうこうほざくたまじゃねえだろうが」
どのような言葉を選ぶとしても。
「傷つくかしらね」
「どうあれ、立ち直んじゃねえか。お前もそうだっただろうが」
タガーはニヤリと口許を歪める。
形の良い眉を僅かにしかめて、ボンバルリーナの手がファーを掴んだ。
「女が強くなるのは貴方みたいなたらしがいるからかもしれないわね」
「言ってくれる」
優しい言葉なんてかけたことはあまりない。
甘い言葉を囁くことなど数えるほどしかない。
「あのねタガー。言っておくけど、私は見返りを求めて恋するわけじゃないのよ」
今更愛だの恋だの、甘美な響きは感じない。
「あくまで結果としてって話。愛したから」
愛してほしいのよ。
ボンバルリーナは魅惑的な微笑みを浮かべて言う。
ふわりと花の香りがした。
悪魔が女神に恋をしたらどうなるのだろう。
女神が悪魔に恋をした末に待っている結末はどんなものなのか。
例え互いに想い合ったとしても、それは決して赦されない恋。
悪魔は追放され、神が勝つのだ。それは神話時代の昔から変わらぬ終幕。
「だったらお前は諦める必要はない。お前は悪魔じゃないからな」
慰めではなく、ただの本心だった。
そもそも、タンブルブルータスは嘘がうまくない。
口数の少なさと、鉄仮面張りの無表情故にそうだとは知れないだけで。
手に入れる手段は掠奪しか知らない。
彼の友はそう言って、乏しい表情の中に憂いを滲ませていた。
「想いはちゃんと伝えなきゃ、ね?」
頭上にあった気配が騒がしくなった。
物思いに耽っていたタンブルブルータスは、顔を上げてじろりと声の主へと目を向けた。
「何よう、睨まなくたっていいじゃない」
睨んじゃいないが、己の目付きの悪さはいい加減わかっているタンブルブルータスは、
小さな吐息一つ零すのみで言い返さない。
代わりに、何の用だと低い独特な響の声で問う。
「うーん、恋愛相談?ちょっと違うかもしんないけど」
「恐ろしくお門違いだとわからんか」
正しく、一蹴というべき物言いで相手の言葉を撥ね付ける。
冷たいわねえ、と邪険にされたはずのランペルティーザはきゃらきゃらと笑う。
まるで気にしていない。
「タンブルがいいんじゃないかって言われたのよ、だから」
「そんな馬鹿なことをほざくのはお前の相棒か?」
「当たり!」
ニッカと笑うランペルティーザから目を逸らし、タンブルブルータスは深く溜め息を吐いた。
あの赤毛、次に会ったら一発殴るか。
そんな不穏なことも考えつつ、ややこしいことになるかもしれない状況に小さく舌打ちする。
それに気付かなかったか無視したか、ランペルティーザはするすると木を下りて隣りに落ち着いた。
「ね、知ってるんでしょ?」
主要な部分は全部すっ飛ばした質問ですら、今のタンブルブルータスには意図がわかってしまう。
やっぱり来たか、と枝の間から空を仰いでみたところで何も変わりはしない。
空は青いし、ランペルティーザは黄色い。
「知っている、お前の知らないこともな。だが、何も言う気は無い」
先手を打つ。
何故なら、ランペルティーザは彼女の親友で自分はあいつの親友だから。
ごねられるかと構えたが、予想に反してランペルティーザはふうんと呟くにとどまった。
やや不服そうではあったが半ば諦めてもいる、そんな感じ。
「いいわ、たぶん肝心なことは教えてくれないだろうって聞いてたし。
友達の恋してる相手について詮索するほど野暮じゃないわ」
普通なら。
この恋が普通の恋だったなら、ランペルティーザはこんなことを言わない。
何をもって普通と言うのか誰にも判らないけれど、この恋は異質だと誰もが感じている。
年長の猫たちは憂い、年若い猫たちはそれを敏感に感じ取っていた。
「伝えてはいけないの?大好きって、たった一言なのに」
呟きにも似た問い。
ランペルティーザも憂えているのだ。進むことも諦めることもできない親友の想いを。
「どうだろうな。伝えてみてもいいだろう。何か変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」
「変わらないなら傷つくと思うわ。告白して進展も終わりもないってことだもん」
「ああ、そうさ。誰も幸せになれんだろうな」
想い合う故に。
惹かれ合いながらも、その想いに身を委ねることはできずに。
「逃げ場所などありはしない、この世のどこにもな」
「え?何か言った?」
「いや、独り言だ」
タンブルブルータスの目が僅かに揺らいで物憂げに伏せられる。
ランペルティーザは気付かないふりをして立ち上がった。
「同じかな、あたしとタンブル。何よその顔、そんなに嫌なの?」
「俺はもともとこういう顔だが」
「そう?」
いいけど、と言ってランペルティーザは苦笑とも見える笑みを浮かべた。
「自分のことじゃないのに、友達の想いをこんなに心配しちゃってね。
おせっかいなんだろうけど、せめてお互いの想いだけでも伝え合えたらって思う」
「そうだな」
それでもあいつは、きっと己の想いを隠すだろう。
「想いは伝えなきゃ。ねえタンブル、そう言っておいて」
「誰に」
「タンブルが知ってる彼に。あたしの予想じゃ多分お互い好きなはずよ」
女の勘というやつか。タンブルブルータスは僅かに感心した。
「終わりを告げるならそれでもいいと思うの。誰しも事情はあるものだし。
でも、でもね。どんなに顔を背けても逃げられはしないのよ、自分の想いからは」
「心は常に自分と共にあるものだからな」
「うん。やっぱりあたしとタンブルは今同じこと考えてるわ。違うのは多分」
誰のことを考えいるか、ということ。
「伝えられそうなら伝えておこう」
「うん、それじゃあね」
ランペルティーザの姿はすぐに見えなくなる。
重い吐息を一つ置いて、タンブルブルータスはゆったりと腰を上げた。
「お前は悪魔じゃない。だから」
愛したっていいではないか。
愛し愛されることばかりが幸せではないけれど、愛し愛されることは幸せなのだと知ってほしい。
タンブルブルータスは青く広がる空を仰いだ。
ただ、祈る。
それしかできないとわかっているから。
恋をした。
叶わぬ恋ではなく、叶えてはいけない恋を。
あいつはそう言った。
そうじゃないと、全力で否定してやれば良かったのか?
道端に落ちた枯れ木を蹴飛ばせば、思いの外重くて脚先が鈍く痛む。
それが少し腹立たしくて、ミストフェリーズは口許に手を持っていくとふっと鋭く息を吹き掛けた。
慣れた動作は流れるようで全く無駄がない。
枯れ木は音も無く空中高く舞い上がり、何処かへと飛んでいってしまった。
「僕の手にかかればこんなもんさ」
誰に言うでもなく呟いてみるが、内に募る苛立ちは消えやしない。
口の端に浮かべた笑いもすぐに消え、ミストフェリーズは再び歩き始めた。
「独りでマジックショーかしら?魔術師さん」
「ん?」
思いがけず声が降ってきて、ミストフェリーズは斜め上へと目をやった。
声の主は塀の上にいた。
鮮やかな橙の毛並みに艶やかな黒が映える美しい女性が、
見覚えのある木の枝を手に妖艶に微笑んでいる。
「やあ、ディミ」
「やあじゃないわよ。人に見られたらどうするの?」
「さあ、大丈夫じゃないかな。黒猫って怪しげな力持ってると人は思ってるし」
仮に捕まえられても逃げる自信はある。
平然と言うと、ミストフェリーズは驚くべき身軽さでひらりとディミータの隣りに立った。
「何をしていたんだい?散歩?」
「散歩がてら食糧探しにね。貴方は?随分苛立っているようだけど」
ばれていた。
ミストフェリーズは決まり悪そうに苦笑を浮かべた。
「自分で言うのもどうかと思うけど、僕って何かにつけてけっこう器用な方でさ」
「そうね。私もそう思うわ」
「どうも。だいたいのことは思い通りにできるし、
そうじゃなけりゃ自分をそれに合わせていけたんだよね。
世渡り上手って言うんだろうね。それが今回はどうもよくない」
どう良くないかはよくわからないし、良くないという表現が適切ではないかもしれない。
深い溜め息を吐くミストフェリーズの表情は浮かない。
珍しいこともあるものねと、ディミータが感心していることなど知る由もない。
「ミストのそれは恋煩いでしょ?」
「やっぱりそう見える?格好悪いけどこればっかりはね」
あっさり認めてひょいと肩を竦める黒猫は、気取っているのかそうでないのかよくわからない。
「好きなんでしょ?みんな知っているわ」
「だろうね。僕だって本気なんだし。じゃなきゃこれ程アピールしないさ!」
「それが届かないくらい彼女は誰かに心惹かれているってことね」
まさしく。
打っても響かないとはこのことで。
ミストフェリーズ渾身のアプローチさえ、
彼女には、ヴィクトリアには何ら心動くものではないらしいのだ。
とっておきの演出を目の当たりにしてすら、涼しい顔でまあ凄いのねと言う。
「もともとヴィクは反応が薄いんだけどさ、
それを差し引いてもあの反応の無さはどうかと思うんだよね」
「諦めない貴方が凄いわ。私なら折れそうよ」
「諦めたら漢が廃るよ!挫けそうになったら自分に言い聞かせるのさ」
キラッと黒猫の金色の双眸が煌めいたようにディミータには見えた。
「解ってたじゃないかってね!僕はヴィクの気持ちを解った上で恋をしたんだ」
「諦めるのも一つの男らしさだと思うけど。もっとも、その選択肢は貴方らしくはないけれどね」
「よくわかってくれているじゃん、ディミ。
しつこいと思われない程度にはアピールし続けるつもりさ」
今のヴィクトリアでは目に入っていないも同然だからしつこいとは思われまいと、
ディミータは口には出さなかった。
「ねえディミ。君はヴィクと同じく女神の名前を持っているよね」
「ええ、そうね」
「僕は悪魔の名を持っている。ディミ、悪魔が女神に恋をした結果は惨めだと思うかい?」
ニヤリと笑うミストフェリーズは本当に少し悪そうに見えて、ディミータは微苦笑を浮かべた。
「惨めかどうかなんてわかんないわ。結果を評価するのは私じゃないし。それに」
「それに?」
「宗旨が違うわ」
悪魔に対する神はあくまで父なる神。
ローマやオリュンポスの神々とは関係無いのだから。
「なるほどね。諦める理由を見つけるのは難しそうだ」
「素直じゃないわね、ミストフェリーズ。弱気になったっていいのに」
「慰められるのは嫌なんだよ」
ふふん、とミストフェリーズは強気な笑みを見せる。
「いいわね、一途で」
「生きてるなあって思えるんだ。色々考えて感じて」
恋した。それだけで。
「不安でしょう?」
「ま、不安はあるよ。でも、わかっていたはずだろう?わかっていたんだよ。
いいじゃん、それで。恋路の行く末なんて誰も保証できないんだ、行ってみるしかないよ」
「見えない恋敵を相手にするのは大変よ」
見えない、ではない。よく知らないのだ。だから、どこで何をしているのかさっぱりわからない。
「いずれ僕は勝つよ。言っておくけど、別にこれはホラじゃない」
「予感?」
「そういうことにしておくよ」
判らないわ、とディミータは呟く。
ミストフェリーズはただうっすらと笑みを浮かべる。
何をして勝ち負けを言うのかは、実のところよく判らないけれど。
最後に彼女が辿り着くのはきっと自分のところだと、ミストフェリーズは信じて疑わない。
それは、挫けそうになる己を鼓舞するためか、
はたまた確信に近い予感なのか彼自身にもわからない。
ただ、それでも前に進む道以外彼には選択できない。
確かなのは、進むしかないということ。
月が出ていた。
丸い月が西の空に掛かっている。
間もなく夜が明けるのだ。
「彼のことは何一つ知らないわ」
名前すら。
ヴィクトリアは何時もと同じ調子でそう言った。
表情は見えない。
「知りたいと思うわ、当然じゃないかしら」
「そうね」
カッサンドラは短く答えた。
余計な口は挟むまいと決めていた。
月がまだ南の空にいた時頃、唐突に白い猫の訪いを受けた時に決めたのだ。
「カッサは彼を知っているのでしょう?」
「貴女よりはね」
昔から知っている。
親しくもしていた。
その実、一体彼の何を知っていたのだろうとカッサンドラはよく自問する。
「大きくて、穏やかで、とても美しい。彼の印象は鮮烈なのに、存在は虚ろにも思えるの」
ふわりと舞うようにヴィクトリアが振り向いた。
優しい月明りを受けた毛並みが銀色に輝いて見える。
美しい、とカッサンドラは思う。
隣りに彼がいればいい、そんな詮無い思いすら浮かんでくる。
「私ね、考えてみたの。彼は複雑な思いを抱えているんじゃないかって。
彼、自分を消したいと思ってるように感じるの。でも、みんなと一緒に踊りたいようにも見える」
いるだけで目を引く鮮やかな山吹の毛並みと緋色の双眸。
いつも端の方、闇に紛れないぎりぎりの場所に彼はいる。
「月夜に独りで踊っていたの。静けさがとても気持ちの良い夜だったわ。
ふと気付いたら彼がこちらを見ていたの。
ほんの少しだけ笑い掛けてくれて、それが怖いくらいに綺麗で」
その時から彼の微笑が瞼の裏に焼き付いたままなのだと、ヴィクトリアは呟いた。
「一緒に踊って欲しいと私から言ったわ。今までそんなこと言ったことなかったのに。
困ったようにほんの少し眉を寄せてね、彼はできないと言ったわ。
自分は本当ならここにいることも許されないからって」
微かな困惑と暗い哀しみの滲む彼の微笑を、カッサンドラは易く思い描くことができた。
「会いたいの。彼もそう思っているはずよ」
「そう、ね」
彼は姿を見られることを厭っている。
それにも関わらず、ヴィクトリアの前に出て来たのは、何かしら抑えがたい衝動があったはずだ。
「私たぶん恋をしているの。焦がれているわ、彼に。
ねえカッサ、どうしたら許されるの?私は彼に思いを告げることすらできない」
「ヴィクトリア」
少し低くて落ち着いたカッサンドラの声で名を呼ばれ、
ヴィクトリアははっとしたように言葉を止めた。
感情を露にし、月明りにもほんのり頬を染めているのがわかる。
「ヴィク、貴女の想いを私は応援するわ。恋は素敵ですもの。
貴女はどうしたら許されるかと尋ねたけれど、一体誰に許してほしいの?」
「それは・・・それは、たぶん彼を許さない何かに」
喋るヴィクトリアの声が小さくなってゆく。
不確かなもの。その存在すら定かでない何かに許しを乞うなど。
ヴィクトリアはふるりと頭を振った。
「彼を縛るのは彼自身なのよ。彼は貴女に触れたいと願いながら、
貴女を傷つけることを心底恐れているわ」
「傷つく?私が?こんなにも傍にいてほしいと思っているのに」
「心の問題じゃないのよ。そう、彼は貴女を血で汚すことを恐れているの」
だって彼は。
続く言葉を飲み込んで、カッサンドラはすいと目を逸らした。
その名は決して口にできないけれど。
知れば不幸になるだけだとか、そんな陳腐な言葉で取り繕うこともできない。
「カッサ、カッサンドラ。未来がわかる女神の名を持つ貴女に聞きたい」
ヴィクトリアのペールブルーの瞳が、真剣に見つめてくる。
どうしてこんなにいたたまれないのだろうと、カッサンドラは自嘲気味に薄く笑みを浮かべた。
「教えて。私はこの想いを伝えることができるの?私と彼のこの想いが許される時は来るの?」
「難しいことを訊くのね。わかっているでしょう、私は神じゃないから」
未来はわからないとカッサンドラは静かに言った。
一瞬哀しそうに眉を曇らせたヴィクトリアは、すぐに微かな笑みを浮かべた。
その微笑みも哀しげではあったけれど。
「嘘でも望んだ未来があると言って欲しいとさえ思うの。それがどんなに浅はかだとしても」
「そんなことはないわ。誰だって何かに縋りたい時はあるもの。
ヴィク、未来というのはこの世に在るわけじゃないの。絶対的な未来なんて存在しないわ。
今私と貴女が交わす一言で訪れるべき未来は変化するかもしれない。それほど不確かなもの」
「私次第ということ?」
ヴィクトリアの声が僅かに明るくなった。
嘘じゃない、カッサンドラは心の内で呟いた。
「貴女と彼次第ね」
変えることができるなら。
変わることができるなら。
もしかしたら、予期せぬ未来が訪れるかもしれない。
「ありがとう、カッサ。私、やっぱり諦めたくない」
「頑張るといいわ、私は何もできないけれど」
「いつかカッサに喜んでもらえるかもしれないし、慰めてもらうかもしれないわね」
そう言うヴィクトリアの内には、確かな希望の光は見えただろうか。
白み始めた東の空からやがて溢れるような明るく輝く光が。
「もう夜明けね。付き合ってくれてありがとう」
「私でいいならいつでも呼んで頂戴。それじゃあ、気をつけて帰ってね」
「ええ、カッサもね。良い一日を」
地に零れ始めた朝日にその純白の毛並みを煌めかせながら、
ヴィクトリアはまだ目覚めぬ街に消えていく。
その後ろ姿を見えなくなるまで見送って、カッサンドラはふっと息を吐いた。
「例え貴女たちがどんなに想い合っても、彼の中から狂気は去らない気がするの。
彼の中にある狂気が消えないなら」
「カッサンドラ」
低く穏やかな声に呼ばれ、カッサンドラははっと顔を上げた。
「ずっといたの?」
「いや、今来た」
彼女に会いにきたのだろうか。
カッサンドラは微笑みを浮かべて大きな男を見上げた。
「もう、戻ってきたら?貴方を待っているのよ。彼女も私も、貴方の親友も。
馬鹿みたいに笑って、真剣に恋をしてみたらきっと幸せよ」
「優しすぎるんだ、ここの奴等は。だが、平穏を求めるには俺は罪に汚れ過ぎた。
彼女を見ている時だけは犯罪王の存在を忘れていられる。彼女は俺の安らぎそのものだ」
だから。
男は、マキャヴィティは、ヴィクトリアが去っていった方に目をやって呟いた。
「いつかわかる日が来るとしても、今は彼女に知られたくない。
彼女が俺が誰かを知って怯えるところは見たくない」
「ヴィクトリアは貴方に恋をしているのよ。貴方だって」
「そうだな」
それでも心を通わせることをかたくなに拒み続けるのだ。
カッサンドラは何だか泣きたくなって目を伏せた。
「このままでは貴方もヴィクも辛いわ」
「だけど不幸になるよりはいい」
「・・・わかったわ。マキャ、行きましょう。朝ご飯をご馳走するわ」
哀しい。
すっかり明るくなった街を歩きながらも、心は晴れない。
恋した。
お互いに。
それでも。
許しは訪れない、永劫に。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
ヴィクトリアとマキャヴィティの恋にまつわる五つのSSでした。
登場猫の選出と組み合わせは、例によってランダムプログラムにお任せ。
でも、最終和のマキャヴィティだけは勝手に出しました。
どこでヴィクトリアとマキャヴィティの名前を出すか迷いました。
出さないのもありかと考えはしましたが、自分の文才では限界があると諦めました。
クリスマス前に書き出し、バレンタイン前に書き終えたにしては救えない感じです。
「愛」ではなく「恋」というのがキーワードなんだと勝手に考えて、
愛以前に恋があるのだろうという解釈の下、こんな話になりました。
街の猫たちはほとんど「ヴィクトリアの恋を応援し隊」ですね。
この話に出てくるなかでは、ミスト、ランペル、ヴィク、ディミがマキャヴィティの正体を知らず、
タガーとマンカスは正体を知っているものの、黄色い方と交流はない設定です。
難しいですね。
お題をかすめるかかすめないかくらいの話でした。
お題:「コ・コ・コ 」様