他に理由は要らない
新月と狂気
宵の口。人の家からは、和やかに談笑する声や音楽が漏れ聞こえてくる。
そんな人々の暮らしから僅かしか離れていないジャンクヤード。
そこは人間の営みに置き去りにされた様々なモノが集められた場所。
いつの間にかゴミ捨て場のようになっていたこの場所も、かつては丈の短い雑草が生える草地だったという。
その時代を知るのは、教会に住むかの長老猫くらいだ。
暗い夜だった。
星は冴えていつもより煌めきを放っていたが、今宵は月が出ていない。
待っても出てくることはない。新月だ。
月明かりの無いジャンクヤードには、それでも猫たちが集まってきて思い思いに過ごしていた。
ここには餌はあるが縄張りはない。
みんなのんびりと微睡んだり毛繕いをしたりしている。
ギルバートとタントミールは寄り添ってオーブンの上で眠っているし、
その隣にある地面に三分の一ほど埋まった土管にはディミータがいてぼんやりと宙を眺めている。
土管の上には乗らずに、地面に座り込んで毛繕いをしているのはボンバルリーナ。
タイヤの上で丸くなっているランパスキャットが、実は眠っていないと気付いているのは
彼の斜め後ろで食事を終えたばかりのカーバケッティくらいのものだ。
うち捨てられて朽ちかけている車のトランクでごそごそ音がしている。
そこにはマンゴジェリーとランペルティーザがいて、どこかに忍んでいく算段をしている。
微かな夜風が甘ったるい生ゴミの腐臭をかき混ぜながら吹き抜けてゆくと、
微動だにしなかったディミータの耳が僅かに揺れた。
どこかを見ているようでどこをも見ていなかった彼女の目が焦点を結び、
何かを探るように辺りを睨め付ける。
それに気付いたボンバルリーナが「どうしたの?」と問いかける向こう側で、
ランパスキャットが静かに立ち上がった。
唐突に、ディミー立ち上がって鋭い威嚇音を立てた。。
何事かと瞬きをしたボンバルリーナは、驚愕に目を瞠ったまま身を硬くした。
何も無く、誰もいなかったはずのジャンクヤードの真ん中に黒く大きな影が立っている。
無造作に置かれたボロ人形のようでありながら、つけいる隙などどこにもないと思わせる圧迫感を漂わせて。
「マキャヴィティ」
さすがに目が醒めたのか、ギルバートはタントミールを背に庇いながら呟いた。
警戒する猫たちを、ゆったりと獲物を選るかのように見回していた犯罪王の口の端が不敵に歪んだ。
「リーナ逃げて!」
犯罪王が獲物を定めるのと、ディミータが叫ぶように声を上げたのはほぼ同時だった。
そして、ランパスキャットがタイヤを蹴って犯罪王に飛びかかるのも。
目の前まで迫ってきた爪の太さと鋭さに脚が竦んだボンバルリーナは、
重量のある物がぶつかり合う鈍い音で呪縛が解けたように瞬きをした。
「リーナ、こっち」
ディミータに引っ張られるままに土管の影に身を潜めながら、
ボンバルリーナは息を詰めるようにしてぶつかり合う雄猫たちに目を凝らした。
古くなって薄暗い街灯の光にすら、犯罪王の持つ牙と爪は不気味に煌めいている。
それに対峙する喧嘩猫と異名を持つ雄猫の目も、気の昂ぶりの所為か異様に光って見える。
何度か組み合っては距離を取って睨み合い、低く地鳴りのような唸り声を上げる二匹の雄に、
タントミールなどはすっかり怯えて身震いしながらギルバートにしがみついている。
犯罪王が再びランパスキャットに躍りかかると、やはり激しい取っ組み合いになった。
しかし、組み合っていたのも束の間で、ランパスキャットが僅かに体勢を崩した瞬間、
その細身からは信じられないほどの力で犯罪王は相手をオーブンに叩きつけた。
「ランパス!」
ギルバートが思わず身を乗り出す。
振り返ったのは呼ばれてもいない犯罪王で、タントミールは小さく悲鳴を上げた。
しかし、マキャヴィティの目はすぐにギルバートたちから逸らされた。
「これくらい大したことじゃない」
ランパスキャットは何事も無かったかのように平然とマキャヴィティの前に立った。
犯罪王は面白そうに口許を歪めて爪を舐めた。
「ギルバート」
「何か」
「マンカスを呼んでこい。今日のマキャヴィティは異様だ、急所ばかり狙ってくる」
冷静に喋るランパスキャットだが、言葉の合間に何度か息を詰めるようにしているのがギルバートには判った。
この短時間で、喧嘩猫と言われる雄がここまでダメージを負わされることだけでも異常だった。
急所ばかり狙うというのも、いつもと違って遊びでないことを物語っている。
「わかりました。カーバ」
「わかっている」
三度跳んで、カーバケッティはタントミールの横に柔らかく着地する。
なるべく急いで行かねばならないギルバートには、タントミールを連れて行くことはできない。
不安がっている彼女を兄猫の腕に預け、ギルバートは身を翻して走り出した。
教会の人々はそれぞれの部屋に戻ったのか、暫く前からとても静かになっていた。
いつものようにうつらうつらとしている長老猫と、その傍らで寝息を立てているクリーム色の仔猫を見て、
マンカストラップは穏やかな笑みを浮かべた。
日課とも言うべき深夜の見回りに出るにはまだ少し早いが、何となく胸騒ぎを覚えて落ち着かなかったのだ。
何時とも変わらない長老と仔猫の姿を見るだけで、彼の気持ちは少し落ち着いた。
しかし、その静けさと平穏を打ち破るかのように向こうの方で何かかぶつかるような音がして、
何事かと耳を立てたマンカストラップのところに扉から毛玉が転がり込んできた。
この教会には、人々が長老猫のためにと付けた猫用の扉があるのだ。
「・・・ギル、どうした?」
毛を乱して肩で息をしているギルバートに再び胸騒ぎを覚えたマンカストラップは、
努めて平静に三毛猫の青年に問いかけた。
礼儀正しいこの青年は、普段なら静かに入ってきてまず敬愛する長老猫に挨拶をするのだが、
それすらなしに若いリーダー猫に目を向けた。
「マキャヴィティが、現れました。ジャンクヤードです。ランパスが、貴方を、呼んでこいと」
「馬鹿な」
だいぶ急いで来たようで、ギルバートは完全に息が上がっている。
そのせいで切れ切れに伝えられた言葉に、マンカストラップは眉を顰めた。
「今日は新月だぞ。なぜ犯罪王が現れるんだ」
「ランパスが、言っていました。今日のマキャヴィティは、異様だと」
「わかった、すぐ行く。ギルは落ち着いたらタンブルも呼んできてくれ。少しでも手がほしい」
ギルバートが頷いたのを見て、マンカストラップは長老猫をふり返った。
傍らのシラバブは、物音で目が醒めたのか眠そうに欠伸をしている。
「オールドデュトロノミー」
「マンカストラップ、行くのであれば何があってもうろたえてはいかんよ」
「はい、心いたします」
長老の言葉の意味をマンカストラップは量りかねた。
しかし、それを考え問うている時間は彼には無かった。
「では、行って参ります。ギル、頼んだぞ」
マンカストラップは、扉の下部にある小さな猫用扉を体当たりするように押し開けて、
静かな教会の廊下を疾走して外に飛び出すとジャンクヤード目指して駆け出した。
ランパスキャットは普段、少々のことではマンカストラップに助勢を頼んだりしない。その逆もまた然り。
マンカストラップは街の守り手であり、その二番手がランパスキャットというのは暗黙の了解で、
どちらもがトラブルにかかり切りになることは守りの観点からして憚られるからだ。
だから、ランパスキャットはよっぽどの事が無い限りマンカストラップを問題に巻き込まない。
マンカストラップがランパスキャットを頼むことを最後の手段と考えているように。
一体、ジャンクヤードにはどれだけの街の猫たちがいるのだろうと
不安と焦りが募ってゆくのを感じながら、マンカストラップはいつもは歩く道をひた走った。
走り去ったマンカストラップを息を整えつつ見送ったギルバートは、まだだった長老への挨拶を述べた後、
かまって欲しそうにしているシラバブには手を振って、すぐに教会をあとにした。
教会の裏手にある木立の中に、根本に洞のある大きな木がある。
タンブルブルータスはそこを塒にしていた。カッサンドラも一緒だ。
「タンブル!いますか?」
背の高い雑草に覆われた洞の入り口に立ってギルバートが呼ばわると、
暫くしてから痩身の雄猫がするりと姿を現した。
「珍しいな。何かあったか?」
「マキャヴィティが現れました。タンブルにも来て欲しいとマンカスが言っていました」
「・・・そうか」
呟いたタンブルブルータスの眉が僅かに曇ったことは、暗いこともあってギルバートは気付かなかった。
「今日は月がないのにな」
「マンカスも同じようなことを言っていました。犯罪王と月には何か関係が?」
「犯罪王と、というよりは」
首を傾げたギルバートに答えたのは、タンブルブルータスの後ろから出てきた小柄な雌猫だった。
「満月は心を惑わせるものだから。そう思わない?」
「そうかもしれませんね。満月の夜はすごく踊りたくなりますから」
「私もそうよ。マキャヴィティもきっと同じね。それでタンブル、行くの?」
カッサンドラが見上げるようにして窺ったタンブルブルータスの表情は少し険しい。
「行くしかない。約束をした」
「そうだったわね」
タンブルブルータスは一度暗い夜空を仰いでふっと息を吐いた。
そして、いつもと変わらぬ表情でギルバートに目を向ける。
「何とかなればいいが・・・ギル、どこに行けばいい?」
「ジャンクヤードへ」
「わかった。お前は教会へ行って長老の傍にいろ。何かあったら知らせに来い」
当然、自分もゴミ捨て場へと向かうつもりだったギルバートだが、
静かに命じられたにも係わらずタンブルブルータスの言葉には反論させない威圧感があり、
何も言い返せないまま頷くしかなかった。
「カッサ、待っていてくれ」
「待っているわ」
カッサンドラが答えてすぐ、タンブルブルータスは夜の暗がりへと駆け出していく。
長い四肢を器用に操り、閃くように生け垣を越えるとその姿はあっという間に見えなくなった。
「っ・・・てぇ」
強かにぶつけた肩を庇いながら、マンゴジェリーは何とか立ち上がった。
そろそろと持ち上げた手は、きちんと彼の意志の通りに動く。
「折れちゃいねえな。外れてるわけでもないし。案外頑丈だ」
「お喋りか。余裕だな、泥棒猫」
「や、そうでもねえよ」
マンゴジェリーが目を上げると、立ちはだかる犯罪王の向こう側に、
今にも飛び出してきそうな小さな黄虎の猫が見えた。
カーバケッティが彼女の小柄な身体を抱え込むようにして抑えている。
ランペルティーザには無様な姿を見せたくないとマンゴジェリーは当然思っているのだが、
犯罪王の前では爪の餌食にならないように逃げ回るのが精一杯だ。
激しいぶつかり合いの末に意識を失って動けなくなった喧嘩猫に犯罪王は爪を振り上げた。
それを見て、マンゴジェリーは咄嗟に二匹の間に割って入ったのだ。
そうしたからには、姿を消す様子のない犯罪王の相手をする他なかった。
「今日のあんた、絶対おかしいぜ。速すぎる、ありえねえよ」
「速さは貴様らだけのウリではないということだ」
ゴミ山にぶつけられ、何度も地面を転がったマンゴジェリーの毛並みはどろどろに汚れている。
身体の至る所に打撲や切り傷もある。
ここらで一、二を争う戦闘能力を誇るランパスキャットを相手にした後というのに、
犯罪王はもともと汚れた埃を纏ったような姿であると言うことを差し引いても
最初の姿とは何一つ変わらぬまま傷を負ったようにも見えない。
「オレらは別に速さをウリにしてるわけじゃねえよ。あんたに勝ちたいと思ってるわけでもねえし。
だいたいさ、こんな弱いオレら相手にしてて飽きねえわけ?」
「飽きないな。面白いくらいだ。わたしを恐れるならさっさと逃げればよかったのにそうしない。
ヤツなら貴様らが逃げる時間くらいは稼げたはずだからな」
タイヤの前に伸びたままぴくりともしないランパスキャットを一瞥して
犯罪王と呼ばれる男は嘲るような笑みを浮かべた。
それを見た瞬間、マンゴジェリーは頭に血が上るのを感じた。
血塗れになるまで引き裂いた相手を、さらに嘲りの目で見るなど侮辱に他ならない。
悲鳴を上げる肩を宥めつつ、マンゴジェリーは姿勢を低くして牙を剥き出しにした。
「あんたはバカにしたけど、ランパスやマンカスがいるからオレらは好き勝手できてんだ。
それくらいわかってんだよ。その代わりオレらは耳にしたやばそうなことはいち早くあいつらに教えている。
あんたにはぬるま湯のような関係に見えるだろうけど、互いに互いの存在はなかなか価値があるんだ」
「互いに依存し合っているというわけか。大した喜劇だ」
「何とでも言えよ」
マンゴジェリーが低く長く唸ると、犯罪王は笑いを消して相手を見据えた。
凶器とも言うべき硬い爪が閃く。
瞬時にマンゴジェリーは横へ跳んで一撃をかわしたはずだった。
しかし、脚に焼け付くような痛みが走る。
片側の脚で何とか踏みとどまりながら、マンゴジェリーは片足がざっくりと切れているのを感じた。
「甘いな、泥棒猫。先ほどまでの怪我を庇いながらではそちらへ避けるのは見え透いている。
次はどちらへ避けるか、私には手に取るようにわかる。さあ、苦痛に狂い踊れ!」
犯罪王が腕を振り上げるのを見ても、マンゴジェリーにはどうすることもできない。
痛めた肩は腫れ上がっているし、裂けた脚には力が入らない。
傷ついた手脚が使い物にならなくなることを覚悟で思い切り後ろに跳ぶしかないが、
力を込めるだけで目が霞むほどに痛みが走る彼の身体は、既に限界に近づいていた。
ランペルティーザがひたすら名前を呼んでいるのも、ボンバルリーナが逃げてと叫んでいるのも
マンゴジェリーの聡い耳はきちんととらえていた。
それでもうまく身体が動かないのだ。
かくなる上はと心を決めてマンゴジェリーが犯罪王に飛びかかろうとしたその時、
雄叫びと共に大柄な猫がマキャヴィティの横っ面に渾身の一撃をぶち込んだ。
犯罪王もこの衝撃にはさすがに体勢を崩して地面に倒され、
勢いづいていたマンカストラップはもんどり打ってタイヤの上に落ちた。
「マンカス!」
リーダーの登場にタントミールが声を上げた。
ランペルティーザはカーバケッティの腕から抜け出してマンゴジェリーに駆け寄る。
「マンゴ、大丈夫?」
「あーっと、あんまり動かさないでくれ」
心配を掛けた相棒を労ってやりたかったが、
マンゴジェリーはそれ以上にマンカストラップの事が気がかりだった。
不意打ちだった先ほどの一撃は綺麗に決まったが、一対一ではそうはいかない。
これ以上、マンゴジェリーが戦いに加わるのは無理だし、
ディミータとカーバケッティは戦えない雌猫たちを守るという役割がある。
それに、もし、皆で向かっていっても歯が立たない場合を考えれば
順に戦いながら犯罪王を疲れさせて退散させる方法しかとることができない。
それでもどうにかなる気がしないほど、今日のマキャヴィティは異常なほど速くて強い。
「マンゴ、大丈夫だよね。マンカスなら、勝てるでしょ?」
「だといいけど、正直わかんねえな」
不安そうにすがってくるランペルティーザを片手で抱き寄せて、マンゴジェリーは呟いた。
マンカストラップが繰り出す攻撃をするりとかわし、
どう考えても不可能と思われるような体勢からカウンターを食らわせる犯罪王。
鬼神の如き動きを見ている猫たちの間には再び不安が漂い始めていた。
「カーバ、これ以上は耐えられないわ。加勢する」
「なら俺が行こう。ディミは俺より強いから、最後の砦になってくれ」
「バカ言ってんじゃないわよ、どう頑張ったって男のアンタに私の腕力が敵うはずないでしょう?
それに、喧嘩嫌いなアンタじゃマンカスに息を合わせて戦うなんて無理だわ」
徐々に押され始めているマンカストラップの戦いを見ながら、ディミータは既に爪を剥き出しにしている。
闘志を剥き出しにする彼女と違い、カーバケッティは平静に見える。
しかし、彼の心の内は憤りで煮えかえりそうだったのだ。
平然と街の猫たちを切り裂いて嗤っている犯罪王を、できることなら逆に切り裂いてやりたいと思うほどに。
「ディミータ」
「何?止めないでよ、私は我慢できないの」
振り返りもしないディミータを、後ろから伸びてきた手が抱えるように引っ張り戻した。
思いがけない筋張った感触に、ディミータは怒るよりも驚いてその相手を見つめた。
「タンブル、どうして」
「マンカスに呼ばれた」
タンブルブルータスはとても強いのだとマンカストラップは言う。
雄猫たちはそれに異議を唱えたことがない。
それにも係わらず、タンブルブルータスの強さをディミータは知らなかった。
理由はわからないが、彼は血が流れるような争いの場にはいっかな姿を見せない。
その雄猫がここに姿を見せたことがディミータを驚かせた。
表情の動きが極端に少ないタンブルブルータスが何を思っているのか、ディミータには判らない。
それでも、この状況を憂えているらしいことは何となく感じられた。
すいっとジャンクヤードに視線を走らせたタンブルブルータスは、
ディミータたちがあっと思う間もなくひらりとタイヤに飛び移ると、
血に染まった白黒ぶちの身体を抱え上げて戻ってきた。
あまりの早業に、ボンバルリーナとタントミールは唖然としている。
「危ないことをするのは止めておけ」
「危ない?本気でそう思うのか?」
気遣ったらしいカーバケッティの言葉を一蹴して、タンブルブルータスはランパスキャットをそこに下ろした。
「傷が深い。こいつの体力が無ければ危なかっただろうが、血も止まってきているし大丈夫だ。
命にはかかわらんだろうが、後で一応はおばさんか長老に診て貰う方がいいだろう」
「冷静ね、タンブル。ランパスがこんなにボロボロになるなんて、私なら狼狽えてしまうわ」
「そいつが犯罪王とやり合って意識を飛ばしたのは今回が初めてじゃないからな」
毛に付いた血の塊を、身体を震わせて払ったタンブルブルータスは、再びマンカストラップに目を向けた。
徐々に傷の増えていくリーダー猫と、ずっと戦っているのに余裕綽々の犯罪王。
「見えないだけで傷を負っているだろうし、体力もかなり削られているはずだ。
だが、血に酔ってどこぞの箍が外れた精神が犯罪王を止めどなく動かしている」
「なるほど、それがタンブルの見立てか。で、どうするんだ?止めるように説得でもするか?」
カーバケッティはタンブルブルータスの半歩後ろに立って問いかけた。
目を眇めて状況を注視しているようだが、そこに葛藤があることをカーバケッティは知っている。
一緒に遊んだりしたわけではないが、幼い頃からの長い付き合いではあるのだ。
「タンブル、意地の悪い質問をするぞ。お前が案じているのはマンカスか?それとも、マキャヴィティか?」
「・・・答えてほしいか?」
「答えがいらないなら訊いたりしない。まあ、答えがどっちだって俺はかまわない。
知りたいのはその先、どうしたらこの場を収拾できるかってことだ」
カーバケッティの視線の先では、満身創痍のマンカストラップがそれでもまだ一撃を食らわせようと、
一向に疲れを見せない犯罪王の隙を窺っている。
胸元の立派な毛並みは血で張り付き、片目は額から流れ出る血で塞がっているというのになお。
「悪いが、カーバ。俺はただ約束を果たしに来ただけだ。この場の収拾方法など知らない。
犯罪王は既に狂っている。あの狂乱した精神に支配されたら、まともな部分を目覚めさせるのは難しい。
それでも、俺の声はあいつに届くのではないかと思っている」
「そうだったらいいけどな。やっぱり難しいんじゃないか?
血を見る毎に犯罪王の狂気は高まっているように俺には見える」
「そう簡単に事が運ぶとは思っていない。喧嘩する必要があるなら躊躇はしない。
そうしてでも目を覚まさせてやると、俺はあいつと約束した」
タンブルブルータスが真に親友と呼ぶのはマキャヴィティだけだった。
それをカーバケッティは知っている。
彼らが知り合ったとき、既にタンブルブルータスとマキャヴィティは一緒にいた。
犯罪王と呼ばれるずっと前から、マキャヴィティの精神は不安定で、
破壊衝動をコントロールできずに暴れるマキャヴィティを
タンブルブルータスがまともな状態に引き戻そうとしている姿を、同年代の猫たちは何度か見ていた。
黙って見ているボンバルリーナは知っている。成り行きを見守っているマンゴジェリーも同じく。
若いタントミールやランペルティーザは知るはずがない。
マンカストラップも知らない。知っていたらタンブルブルータスを呼ばなかったはずだ。
「どうしてでもマンカスとマキャヴィティは引き離す。
ランパスがあの状態でマンカスまで動けなくなったらちょっかいを掛けに来る輩がいるからな」
「頼むぞ、タンブル」
「お前は出番が無くて残念だな」
そう言って、タンブルブルータスはひらりとその痩身を宙に躍らせ、
睨み合って唸っているマンカストラップと犯罪王の間に砂埃を舞い立たせることもなく降り立った。
「マンカス、交代だ」
「せっかくタンブルが来てくれたんだ、二対一の方が良いじゃないか」
息を乱しながら抗議するマンカストラップに、タンブルブルータスは冷たい目を向けた。
「今のお前の戦力は十分の一にも満たない。引っ込んで手当でもしていろ」
「相変わらず辛辣だな。わかった、任せるから気を付けろよ」
疲れ果てていたマンカストラップはありがたく身を引いた。
役に立たないとあからさまに言うことで責任感の強い彼が気兼ねなく休めるようにという、
口も顔つきも悪い兄猫なりの気遣いを感じてマンカストラップは苦笑を浮かべた。
タントミールがマンカストラップに手を貸しているのをちらりと見て、
タンブルブルータスは改めて犯罪王と向き合った。
「なかなかの暴走だな、マキャ」
低く腹に響く独特の声で、タンブルブルータスはマキャヴィティに話しかけた。
仮面の向こうにある目は見えなかったが、僅かに動揺したように犯罪王の口許がぴくりと動いた。
「・・・私に親しげに話しかけて、どうしたいのだ?」
「正気に戻す。お前が取り返しの付かないことをする前に」
「なるほど、私が狂っていると言いたい訳か。ならば正気に戻してみるがいい」
話しかけるだけでは無理だと瞬時に悟ったタンブルブルータスは、腹を決めて戦闘態勢に入った。
犯罪王もまた牙を剥いて相手を威嚇する。
「ああ、そうするさ」
喉の奥で呟くと、タンブルブルータスは一気に間合いを詰めると、
その長く強靱な脚で相手の脇腹に強烈な一発を見舞った。
抜きんでた力を持っているはいるが、犯罪王は奇襲への反応があまりよくない。
ただ、奇襲は一回使ってしまうと二度目は無効だ。
だからこそ、タンブルブルータスはその一度の奇襲にかけた。
よろめいた相手の肩口に爪を立てて一息に押し倒すと、うまく体重を掛けて押さえ込んだ。
「うまいものだ。生意気な口をきくだけのことはある」
そう言うと、犯罪王は動く方の手でタンブルブルータスの胸元に爪を立てた。
そのまま腹の方まで上に乗りかかる雄猫の身体を引き裂いてゆく。
食い込んだ鋭利な爪が肉を切り裂く激烈な痛みにタンブルブルータスは歯を噛みしめて耐えたが、
抑えきれない苦痛の呻き声が食いしばった歯の間から零れた。
それでも、犯罪王の巨体を押さえつける力は緩めない。
「その我慢、いつまで続くか見物だな」
粘着性の液体でべったりと濡れた爪をしきりに動かしながら、犯罪王は愉快そうに口の端を吊り上げた。
ゆっくりと呼吸を繰り返して痛みを散らしながら、タンブルブルータスは僅かに顔を逸らせた。
幼い頃に安住できる場所を探してともに彷い生き延びた親友に爪を立てることだけでも、
仕方ないとは言えタンブルブルータスは厭なのだ。
それなのに、彼の親友を支配している狂気はそれを全く厭う様子が無い。
おとなしく優しい黄色い親友を支配する狂った犯罪王に、不意にタンブルブルータスは憤りを覚えた。
目を戻しても、やはり犯罪王は薄ら笑いを浮かべたままだ。
「いい加減にしろ、犯罪王」
何時よりも低く冷徹な声で呟くのと同時に、タンブルブルータスは犯罪王の仮面に手を伸ばし
何ら躊躇することなくそれをはぎ取った。
仮面の下にあったのは血のような緋色の二つの眸。
がっちりと視線が絡み合う。
「俺を見ろマキャ!お前が弱虫だから犯罪王なんぞに乗っ取られるんだ!」
タンブルブルータスは何かが振り切れたかのように乱暴にマキャヴィティの胸ぐらを掴み、
空いている方の手で頬に拳を叩きつけた。
それは奇しくも先ほどマンカストラップが一発お見舞いしたのと同じ側だった。
もう一撃叩き込もうとタンブルブルータスが手を振り下ろすと、
今度はマキャヴィティも手を上げてそれを止めた。
「・・・それ以上殴られると明日は無様に頬が腫れ上がる。酷いじゃないか、タンブル」
緋色の双眸を細めて、穏やかにマキャヴィティが微笑む。
鬼気迫る表情で胸ぐらを掴んでいたタンブルブルータスは、瞠目し狼狽したように目を泳がせた。
犯罪王は急になりを潜めるから、いつマキャヴィティが正気に戻ったのかはわかりにくい。
「放してくれないか?この体勢は結構苦しい」
「あ、ああ・・・そうだな。すまない、思い切り蹴飛ばした上に力一杯殴ってしまった」
「いや、ありがとうタンブル。約束はまだ有効だったんだな」
タンブルブルータスは気が抜けたようにへらりと笑うと、そのまま意識を飛ばしてしまった。
地面に転がり落ちた身体には、大きな傷が胸から腹へと走っていた。
それを見たマキャヴィティは、苦しげに顔を歪めた。
タンブルブルータスが落ちたのを見ていたカーバケッティは息を飲んだ。
その身体にあるのは、この暗がりで見てすらあまりに酷い裂傷だった。
マキャヴィティはまだ動けるようだが、タンブルブルータスは息をしているかすら定かでは無かった。
「カーバ、どうなったの?」
体勢としてはタンブルブルータスの方が有利だったはずだ。
ボンバルリーナが緊張気味に身を乗り出して様子を窺い、はっとしたように肩を震わせた。
「タンブル!」
思わず声を上げたボンバルリーナの方にマキャヴィティは顔を向けた。
仮面は外れていたが、乱れた毛並みと暗がりの所為で顔ははっきり見えない。
「騒がせたな」
一言だけ言い置いて、マキャヴィティはタンブルブルータスの身体を軽々と持ち上げた。
「待て、マキャヴィティ」
「カーバケッティか。暫く預かる、そう言っておけ」
誰に、とは言わずにマキャヴィティは軽く地面を蹴ってゴミ山に飛び乗ると、
二回目にその場を蹴った後には姿が全く見えなくなっていた。
「今度はタンブルを連れ去るなんて」
「大丈夫だろう、ヤツが正気に戻ったように俺には見えた。
カッサや長老には俺から事情を話しておく。
まずはランパスとマンカスを教会に連れて行く。マンゴもだ」
「暫くはリーダーもサブリーダーも動けなさそうね。代理はコリコに任せてみる?」
まだ胸の内に残る不安を押し隠してボンバルリーナが言えば、
冗談はよしてくれとカーバケッティも努めて軽い調子で返す。
「ボンバル、マンゴは脚をやられているから片側は支えてやってくれ。
本当は歩かせたくないが、仕方ない。俺はランパスを連れて行かないといけないし。
ディミとタントはマンカスを助けて教会に向かってほしい」
「カーバ、あたしは?」
「ランペルは先におばさんのところに行って教会に来てくれるように頼んで欲しい。
それから、もし教会にギルがいたら助けに来るように言ってくれ」
「わかったわ」
そう言うが早いか、ランペルティーザは疾風のように走っていく。
家々の明かりはほとんど消えて、人が寝静まっている時刻だと物語っている。
「ディミ、タント。疑問に思うことは山とあるだろうが、
タンブルの件についてはあまり探らないで欲しい。
少なくともあいつ自身が話すまでは、俺たちの口からは何も話せない」
「・・・いいわ、今までだって疑問に思うことはあったもの。
今更と言えば今更よ。とにかく彼が無事に戻ってくるならそれでいいわ」
ディミータがマンカストラップを支えるように立ち上がりながら言うと、
タントミールも反対側を支えながら頷いた。
「よし、それじゃあ帰ろう。いい加減疲れた」
カーバケッティは慎重にランパスキャットを抱え上げると、教会に向かって歩き出した。
「・・・無事に戻ってくるのなら、か」
誰にも聞こえない独り言を零して、カーバケッティは空を見上げた。
冴えた星明かりは美しい。
しかし、夜空の中に一際美しい光はそこにない。