他に理由は要らない
理由
仄暗い塒の中に幾筋かの白い光が差し込んでいた。
洞の隅っこで座り込んでいたカッサンドラは、唐突に夜明けから随分時間が経っていることに気付いた。
最初に透明な夜明けの光が一筋差し込んできたときにも彼女は起きていたし、
それから今に至るまでも決して眠ってはいなかったにも係わらず、
段々と明るくなってゆく光は彼女の目に映っていながらまるで認識されていなかったのだ。
カッサンドラは立ち上がってこわばった身体をゆっくりと伸ばした。
常ならば傍にあるはずの温もりが不意に途絶えてから三度朝を迎え、
三日前の夜に約束したようにカッサンドラはタンブルブルータスを待っている。
あの夜、昔はカッサンドラの弟のようだったカーバケッティが沈痛な面持ちで訪ねてきて、
マキャヴィティがタンブルブルータスを暫く預かると言って連れて行ったと告げた。
かなり酷い怪我をしているらしい、ということも言っていた。
それでもカッサンドラは動揺したりしなかったし、
タンブルブルータスは無事だというどこか確信めいた思いすら抱いている。
それにも係わらず、時間が経つほどにカッサンドラは身体が重くなっていくような感覚に陥っていた。
いつもそこにあって当たり前だったものの代わりにそこにあるのは虚ろ。
たった一言を交わし、ほんの少し視線を交わす、ただそれだけで絶対的な愛がそこにあった筈なのに、
その相手がいないだけで彼女自身の居場所すら見失ってしまったような不安。
その不安が大きくなってくるにつれて、カッサンドラは酷く疲れを感じるようになっていたのだ。
重苦しさを追い払おうとするかのように軽く頭を振って、カッサンドラは塒の出口に向かった。
数歩進んで思い出したように立ち止まり、軽く毛繕いをする。
すぐそこに教会がある。
長老猫に会いたいと、彼女はただそう思ったのだ。
怪我をしている猫たちの見舞いもできる。
「カッサンドラ、いるかい?」
短いにも係わらず少し跳ねてしまった毛並みを一心に整えていたカッサンドラの耳に
ここに来るのはとても珍しい猫の声が聞こえた。
驚いたように顔を上げたカッサンドラは、返事をしようとしてうまく声が出ずに思わず口を閉じた。
暫く声すら出していなかったのだと気付いて、僅かにお腹に力を入れる。
「どうぞ、入って」
「お邪魔するよ」
不自然に掠れたカッサンドラの声に気付かなかったのか、敢えて気にしなかったのか、
いつものように元気な声と明るい笑顔で入ってきたのはジェニエニドッツだった。
「いらっしゃい。教会に行こうと思っていたのよ、行き違いにならなくて良かったわ」
奥までジェニエニドッツを招き入れながらカッサンドラは微笑んだ。
それもまた数日ぶりのことだったので、頬が変に引きつったよう彼女には思えた。
「ちょっと窶れたね」
「あまり寝られなくて」
心配そうに眉を寄せるジェニエニドッツに、カッサンドラは微苦笑で返す。
小さく溜め息を吐いたおばさん猫は、突然カッサンドラを抱き寄せた。
「ジェニエニドッツ?」
「寝てもいないし、ほとんど食べてもいないんだろう?
カーバがね、あんたはとても気丈だったから下手な慰めみたいに傍にいることもできないって言っててね。
でも、昨日も姿を見せないし、食べてないだろうと思って様子を見に来たのさ」
「ありがとう。でも、私は大丈夫。みんなが不安に思っていることは起きないわ。
タンブルは生きていて無事に帰ってくるの・・・帰って、くるのよ」
ジェニエニドッツにすっぽりと抱かれたカッサンドラは微笑みを浮かべたまま呟いた。
いつも彼女を抱いてくれる腕とは違ってとても柔らかい。
「あんたは昔っからそうだね。この先のことはわかってるから自分は大丈夫だって言ってさ」
「そうね。決して弱みを見せたくないとかそういうわけじゃないの。
心配して差し出してくれた手を拒絶するのは、相手を傷つけることだってわかってもいるわ。
それに、本当に大丈夫だと思っているときしかそう言わないのよ。嘘は言わないわ」
「でも、さっき嘘を言ったんじゃないかい?今のあんたはどう見ても大丈夫じゃないからね」
呆れたように言いながら、ジェニエニドッツはカッサンドラを放さない。
「あのね、ジェニエニドッツ。私には決めていることがあるの」
「何だい?」
「私が甘えるのはタンブルとジェニエニドッツだけと決めているの。
私はみんなよりちょっと年上だし、面倒を見てきた子たちに泣き言は言いたくないのよ。
意地を張らずに甘えられるのは、だからタンブルとジェニエニドッツだけなの」
そう言うと、カッサンドラはジェニエニドッツの胸にしがみついた。
「彼は帰ってくるわ。彼が死んでしまったなら私にはきっとわかるし、待っていてくれといったもの。
でも、タンブルがここにいないだけでこんなに世界が空虚なんだとわかって怖いのよ。
彼が帰ってきても、いつかまたここから出て行ってしまうんじゃないかとお思うと怖いの」
「そんなことはないだろう?あの子がカッサを置いて行くなんてそれこそ天変地異の前触れじゃないかい?」
「タンブルは私のことをとても大切にしてくれるし愛してくれているわ。
でも、マキャのことだって同じくらい大切に思っているし、戻ってくるのを待っているのよ。
マキャがここから出て行った時、タンブルは私とここに残ることを選んでくれたけれど次はわからないわ」
小さく震えているカッサンドラを撫でてやりながら、ジェニエニドッツは優しい笑みを浮かべた。
昔からカッサンドラはタンブルブルータスのこととなると脆いところがある。
「それこそ大丈夫だよ。タンブルはマキャヴィティとの約束を果たしに行ったんだろう?
よく約束を守る良い男じゃないか。カッサ、タンブルはあんたとも約束しているはずだね。
あたしはあんたの口から聞かされたんだからよく覚えてるよ」
「ええ、彼は言ってくれたわ。ずっと傍にいて護ってみせるって」
「タンブルは嘘は言わないよ。口数は少ないし無愛想だけどね、実直じゃないか。
あんたが疑っちゃ駄目だ。ほら、ちゃんと食べて寝てないから不安定になっているんだよ。
おいしい物持ってきたからね、泣き止んだらちゃんとお食べよ」
子どものようにポロポロと涙を零しても、カッサンドラは決して嗚咽を漏らすことをしない。
そんな彼女の小さな身体を強く抱きしめて、ジェニエニドッツはただその涙が止まるのを待った。
*
「おばさん来ないね」
長老猫のいる部屋で、太い窓枠に乗っていたランペルティーザがぽつりと呟いた。
ここ数日、この部屋にはいつもよりたくさんの猫がいる。
体中傷だらけのマンカストラップとランパスキャットはここで寝かされているし、
それに付き添うようにディミータとボンバルリーナもここにいた。
脚を怪我してあまり動けないマンゴジェリーも三日前からずっとここにいて、
その所為かランペルティーザも塒に帰ることなくここに留まったままでいる。
「カッサのとこ寄ってくるって言ってたし、そのうち来るんじゃねえの」
「そっか、そう言ってた」
ぴょいと床に飛び降りて、ランペルティーザはシラバブのところに駆け寄った。
クリーム色の仔猫は、眠そうにしながらマンカストラップの枕元で一生懸命目を開けようと頑張っている。
「バブ、おばさんもうすぐ来るって。マンカスも手当してくれるから、バブはお昼寝しよう」
「でも・・・ねむくないです」
「あたしは眠いのに。バブが一緒にお昼寝してくれないなんて寂しいなあ」
拗ねたような顔をするランペルティーザの手を、シラバブは慌てて掴んだ。
「いっしょにおひるねします。だからさびしくないです」
「ほんと?じゃあ一緒にお昼寝しましょう。長老のところでね、極上の寝心地よ」
「ごくじょうすてきです」
そんなことを言いながらランペルティーザとシラバブがオールドデュトロノミーの傍で寝息を立て始めてすぐ、
黒い小柄な猫が片側だけ開いている窓から音も立てずに飛び込んできた。
厄介なのが来たと言わんばかりに、マンゴジェリーは露骨に顔を背けて狸寝入りを始めた。
くるりと部屋を見渡して、黒猫ミストフェリーズはまず長老猫に優雅な仕草でお辞儀をする。
そして、目を止めた雄猫のところに素早く歩み寄った。
マンゴジェリーのようにすぐさま反応できずに、奇術師のターゲットにされたのはカーバケッティだった。
彼は、怪我をしているマンカストラップとランパスキャットの代理で街の見回りなどをしている。
連絡には何かと便利だからという理由を付けて教会に留まっているが、
かなりの深手を負っている猫たちを心配してそこにいることは明白だった。
「ねえカーバ、僕は奇妙に思うんだよ」
「そうか。それは奇妙だ」
カーバケッティは同意することで話は終わったと言わんばかりだが、
ミストフェリーズはずいっと顔を近づけて不満げに片眉を上げてみせる。
「あのね、そういうのはいいの。ねえ、タンブルは?」
「・・・怪我をしたから」
「塒にいるって?それは昨日マンカスから聞いたよ」
怪我は負っていてもマンカストラップの意識ははっきりしている。
教会にやって来た猫たちには、マキャヴィティが現れて追い返すために争いになったと説明している。
タンブルブルータスについては、彼の塒で休んでいると言っていた。
「僕が聞きたいのは本当のことなんだけど。タンブルはいないよ、少なくてもこの辺りにはいない」
「断言するんだな」
ふっと息を吐いたカーバケッティは、仕方なしに居住まいを正して黒猫を見る。
それと同時に、こういう状況を見越してシラバブをに余計なことを聞かせまいと
うまい具合に昼寝をさせたランペルティーザに少し感謝した。
「ああそうだ、いない。ミストの言う通りだ。何でわかった?」
「マンカスは芝居が下手なんだよ、知ってるでしょう?
それにいくら塒が近いと言っても、纏めて手当できるからここにいた方がいいに決まってる。
タンブルが渋ったってカッサがそうするはずさ。それなのにいないから」
「一理あると言えばあるが・・・とりあえず、みんなには黙っておいてくれ」
マンカストラップの芝居がどれだけ下手だったのかとカーバケッティは嘆息した。
ミストフェリーズの勘が鋭いというのもあるだろうが、これではそのうち他の猫たちにも話が広まってしまう。
「黙っておくのはいいけど、僕は気になって仕方ないんだ。タンブルはどこにいるの?
タンブルはマキャヴィティとの争いに加わったことがない、少なくとも僕の記憶の中ではね。
なのにこないだに限って一対一でやり合った挙げ句に今度は姿が見えない。奇妙だよ」
「何でミストがそこまでタンブルのことを気にするのかは知らないけど、これだけは言える。
タンブルがどこにいるのか、俺たちにはわからない」
「わからない?どうしてさ」
思い切り眉を顰めたミストフェリーズから目を逸らし、
カーバケッティは遠くを見るように窓のさらに向こうに視線を投げた。
「どうしてもこうしても、マキャヴィティがタンブルを連れて行ったからだ」
「なっ・・・」
絶句したミストフェリーズは、暫くカーバケッティを睨み付けるようにしていたが
そのうち疲れたようにその場にぺたりと座り込んだ。
「よく落ち着いていられるね」
「なに、内心はそれなりに焦っている。ただ、打つ手が無い」
「どうして僕に言わないの?僕は犯罪王から長老だって取り返してみせたじゃないか。
忘れたの?それとも僕に頼まない理由がほかにあるの?」
まくしたてるように問う黒猫に静かにしろと言ってから、カーバケッティは「理由がある」と呟いた。
躊躇うかのように少し間を置いて、カーバケッティは再び口を開いた。
「ミストは気付いたようだから言うけど、確かにタンブルとマキャヴィティの関係には"何か"ある。
その"何か"が何なのかを一概には言えないし、俺も詳しいことは知らない。
そして、詳しいことを知っていそうなカッサがそっとしておいて欲しいと言った」
「カッサが?まあ、カッサがそう言うなら危険な状態ではないのかな」
「ところでミスト、聞きたいことが二つある」
険しかった表情を緩めるミストフェリーズに、カーバケッティは逆に問いかける。
「一つ目、俺たちが頼んだらミストはタンブルをこっちに連れ戻せるのか?」
「連れ戻せないよ。というか、連れ戻さない方がいい。
マンカスが言ったようにタンブルが寝込むほどの怪我をしているなら、身体に負担は掛けない方がいい。
あの技は空間を歪めるから、健康な状態なら問題なくても弱った身体にはどうしても負担になる」
「そうか。それはボンバルも言っていたな。仮にミストに言っても技は使わないんじゃないかって」
以前の舞踏会でボンバルリーナはミストフェリーズの技を実際に体験している。
それに、タンブルブルータスの傷の深さも目にしている。
そこから判断した彼女の推測は正しかったことになる。
「それじゃあ二つ目。さっきも聞いたけど、なんでそんなにタンブルのことを気にするんだ?
マンカスやタガーと違って、ミストはタンブルに世話になった訳じゃないだろう」
「うーん・・・気にするというか、誤解招きそうだけどマークしてると言えばいいのかな。
タンブルって凄く違和感あるんだよね。どうにも適切な言葉が見つからないんだけど。
不安定というか、いびつなものを孕んでいる感じ?」
「よくわからないな。何が不安定なんだ?あいつほどカッサ一筋でぶれないヤツはいないぞ」
ミストフェリーズは難しい顔をして、「その点は否定しないけど」と言いながら首を傾げた。
「タンブルは落ち着いていて冷静だし、言動もおとなだよ。
でも、時々すごく子どもじみたことをする。グリザベラに嫌がらせをしていた時とかね。
口数は少なくても口下手じゃない筈なんだけど、どうしても女の子たちには相手にされない。
腕っ節は強いし喧嘩が苦手というわけじゃないのに、争いごとにはまるで加わらない。
ちぐはぐなんだよね、色々と。カッサへの愛以外はぶれすぎだよ」
「どれもこれもささいなことと思うけどな。天才マジシャンにマークされるようなことじゃない」
「まあね。僕の考え過ぎだったらそれはそれでいいんだよ。
何だかよくわからなくなってきたよ。ちょっと気晴らしに散歩してくる」
黒猫はまたも優雅に長老猫に挨拶をすると、驚異的な跳躍力を見せて窓から出て行った。
それを呆然と見送ったカーバケッティは、ボンバルリーナに呼ばれて我に返った。
「相変わらず不思議な子ね。私ね、ミストの言うことが何となくわかる気がするのよ。
私の記憶だと、タンブルはすぐに手がでるタイプでマンゴなんかはよく殴られていたわ。
そういう一種の凶暴さはちょっとしたときに発露するものだけど、今のタンブルにはそれがない」
「だよなー。タンブルはさ、無理矢理その凶暴な部分を押さえ込んでるんだとオレは思うね。
口数も減らして戦いの場に出てこないのはそのせいかもな。
でも、時々その押さえ込んだものが歪んだ形で現れる。それが子どものような言動になるのか」
ボンバルリーナの意見に続いたのは、寝ていたはずのマンゴジェリーだった。
狸寝入りだということはカーバケッティも承知していたので、ただ軽い溜息を吐く。
「でも、俺たちはみんな自分を少しねじ曲げて生きているもんじゃないのか?
好き勝手には生きられない。俺たちは猫社会のルールに従って生きているんだからな」
「カーバの言うことはもっともなんだけど、ミストの懸念はそんなことじゃないと思うの。
ここで生きていくために不要な部分をただ押し込めて、その結果いびつなものが生じる。
それが些細な言動に影響するだけならまだしも、一気に表面化したらどうなるの?」
歪んだ自我の暴走か、とカーバケッティは呟いた。
その結果どうなるかを、街の猫たちはよく知っている。
己の中の矛盾した部分が顕在化した故に、存在そのものが矛盾となってしまった者。犯罪王。
ルールを無視した存在は、ルールの中に生きる猫たちにとって違和感と脅威の化身とも言える。
「タンブルが第二のマキャヴィティになる、と?」
低く押し殺した声で呟くカーバケッティに、ボンバルリーナは小さく頷いた。
「それを莫迦げた考えだって否定できる?」
「できない、けど。でも、限りなくその可能性は低いんじゃないかと思う」
「何故?」
「タンブルにはカッサがいる。最後の一線を越える前にカッサが引き戻してくれるんじゃないか?」
かつて、マキャヴィティが犯罪王と呼ばれるようになったとき、彼の傍には誰もいなかった。
それはマキャヴィティ自身が、友の傍を離れ街を去ることを選んだからだ。
おとなと子どもの間で不安定に揺れ動く時期に独りになることを選んだその時、
黄色くて優しい青年の中に犯罪王は誕生していたのかもしれない。
「愛は何者にもまさるってか」
マンゴジェリーの結論に、ボンバルリーナとカーバケッティは頷いた。
傍にいたディミータは、敢えて話に加わることをせず黙々とマンカストラップの手当をしている。
そのディミータが、不意に扉の方に視線を巡らした。
「誰か来たわ。たくさん来たみたい」
直後、猫用の扉が勢いよく押し開けられて猫たちがわらわらと入ってきた。
朝早くここにやってきたコリコパットに、そろそろ見舞いに来てもいいと告げたのはカーバケッティだ。
それをコリコパットは早速他の猫たちに告げたらしい。
「こんだけ大挙して来たら教会の人間たちに迷惑がかかるじゃないか」
「大丈夫だって。ちゃんと礼拝が終わって人がいなくなるの確認してから来たから」
「そういう問題じゃない」
今日何度目かの溜め息を吐いたカーバケッティの気苦労など知るよしもなく、
押しかけてきた猫たちはそこここで気の合う仲間同士輪になってお喋りを始めた。
それでも、眠っている猫たちに気遣って声を落とすくらいの配慮はあるらしく、
その点についてはリーダーの代理の代理くらいという立場のカーバケッティも文句はない。
*
暗い中で目を覚ましたタンブルブルータスは、起き上がろうとして身体に走った痛みに呻いた。
痛みに抗うだけの気力も持てず、タンブルブルータスはそのまま突っ伏した。
柔らかな綿の入ったクッションに埋もれるようにしてとろとろした微睡みに身を任せていると、
そのクッションを踏んでここの主がやって来た。
山吹と白の毛並みは、暗い中でも浮き上がるほど鮮やかだ。
「タンブル、起きたのか?水くらい飲めそうなら飲んでおく方が良い」
「ああ、そうしたいが・・・っと」
無理矢理身体を起こしたタンブルブルータスは、転がり落ちるようにしてクッションから下りた。
そこで眠る分には柔らかくて良いのだけれど、踏ん張りが利かずバランスが取りにくいので
起きているときは硬い所に立つか座るかしている方が楽だと彼は学習していた。
「身体が軋んでいる気がする。寝ているだけなのに身体中が痛い」
「怪我を庇って不自然なところに力が入るからだろう。暫くは仕方ない」
「・・・それにしてもマキャは傷の手当てがうまいな。もう傷口は塞がっている」
かなり深い傷だったのはタンブルブルータスも知っているが、
連れてこられて最初に目を醒ましたときには既に止血されていて手当も終わっていた。
薬草の入った水だとかでかなり苦い液体を飲まされたり、
傷口に何かを塗られたりしてタンブルブルータスは辟易していたのだが、
痛みが消えたわけでは無いにしてもこんなに早く快方に向かっていることには感心せざるを得なかった。
当のマキャヴィティは、水を用意しながら自虐的な笑みを僅かに浮かべた。
「こういうことをしていると、怪我を治すための知識はいくらあっても邪魔にならないからな。
昔からよく怪我をしていたし、ジェニエニドッツやカッサに教えて貰ったこともある。
まさかタンブルを治療することになるとは思わなかったけどな」
水の入った容器をタンブルブルータスの方に押しやって、マキャヴィティはそこに腰を落ち着けた。
タンブルブルータスは習慣でそっと水の匂いを嗅ぐと、微かに眉を顰めた。
「何か入っているな?」
「清涼系の薬草だ。熱があるだろう?それを飲むと冷たくて気持ちいい筈だ」
「そうか。熱か。どうりで身体が重いわけだ」
とことん己の状態に無頓着な発言をした後、タンブルブルータスは無言で勢いよく水を飲み始めた。
この飲みっぷりならそのうち食べ物も喉を通るようになるだろうと、
マキャヴィティはやはり無言のままその様子を見ている。
白色の容器がほとんど空になると、口の周りをぺろりと舐めてタンブルブルータスは顔を上げた。
「マキャ、前に目が醒めたときに言ったかもしれないけど、あんまり覚えてないから言っておく。
俺はお前との約束があったから殴った。いや、蹴ったんだったか?」
「どっちも、だな」
「なるほど。そんな気もする。それでだな、マキャ。
こうも犯罪王が暴走すると、俺だってキツイしお前もただじゃ済まないだろう?
だから、そろそろ街に戻ってこないか?そうしたらここまで暴走する前に手が打てる」
タンブルブルータスの眼差しは真剣で、マキャヴィティは気まずそうに僅かに目を逸らした。
「ありがとう、タンブル。でも、俺が傷つけた猫たちがたくさんいるところだ。
俺自身も居たたまれないし、そう簡単にはみんな俺を受け入れられるはずがない。
ましてや、こんなことをしでかした後だ。長老も攫ったし」
「確かにその事実は消えない。お前のしたことを昔に戻って帳消しにすることはミストにもできない。
それでも、俺はずっと待っているんだぞ。みんながどう思おうと、俺たちは友だちじゃないか」
戻って来い、とタンブルブルータスは掠れた声で呟くように言った。
戻りたいという思いがマキャヴィティの内心に無いわけではなかった。
そうすれば、タンブルブルータスやカッサンドラたちと安らかに生きていく事ができるかもしれないのだ。
美しい白猫のヴィクトリアと言葉を交わす機会もあるかもしれない。
それでも、マキャヴィティの中では戻れないという気持ちの方が勝っていた。
「俺は何度もこのまま消えてしまおうと思った。犯罪王は俺の一部だ、俺自身と共に葬り去ればいい。
でも、友だちが待っていると言ってくれるから、だから俺は今まで生きてきた。
これだけ業を背負いながら生きる理由など、他にいらない。
俺はまだ戻らない。いくら待って貰っても戻れないかもしれない。でも、いつかは戻りたい」
「いつか、なあ。俺もお前も老いぼれて身体が思うように動かなくなったら犯罪王も大人しくなるかもな。
待つのはかまわないが、何とも気の長い話だな。全然俺らしくない」
「タンブルは気が短いからな。怒らせてもう一回殴られるのは避けたいしな。
こないだは、あのリーダー猫に殴られた上をさらに殴られてかなり腫れたんだ」
苦笑するマキャヴィティの頬をタンブルブルータスはまじまじと見たが、
暗い所為もあって全く腫れた名残は見当たらない。
「俺もお前と喧嘩するのは暫く御免だ。こう、脈打つのに併せて傷が疼くのはたまらない」
「そうだな。ところでタンブル、傷は痛むだろうけどそろそろみんなの所に帰った方がいい。
カッサが心配しているだろう?それに、カーバケッティやボンバルリーナも。
俺がお前を連れ去ったのを見ていたからな」
「・・・そうだな。いつまでもここにいるわけにはいかない。カッサとも約束があるから。
そういえば、あれからどれくらい経ったんだ?寝てばかりでまったくわからない」
一度タンブルブルータスが目を醒ましたときは明るかった。そして今は暗い。
彼の感覚からすると、まだ一日やそこらしか経っていないのだ。
マキャヴィティは少し考えて、タンブルブルータスに目を向けた。
「明日日が昇れば、あれから四度目の朝だ」
「そんなに?そんなに寝ていたならそりゃ身体も痛いか」
「夜が明けるまでには街まで送ろう。大丈夫、タンブルの身体に負担を掛けるつもりはないから。
さあ、もう少し水を飲んだほうがいいだろう」
今度は透明の容器に水を注いで、マキャヴィティはそれをタンブルブルータスの方に押しやる。
熱の所為か、すぐに喉が渇いてしまうタンブルブルータスはありがたくそれを飲んだ。
「マキャ、冬になる前にこっそりと来るといい。肥えた鳥をカッサが料理してくれるだろうから」
「その時は鳥持参で行くとしよう」
少年時代のように他愛もない話に笑い合う内に、タンブルブルータスはいつの間にか眠りに落ちていた。
穏やかだけど深い眠り。
催眠効果のある薬草が効いてきたのだ。
「お休み。まだ暫く休息が必要だな」
細くてもがっちり引き締まった身体をしているタンブルブルータスは決して軽くないが、
それを楽々と持ち上げてクッションに寝かせると、マキャヴィティは準備のためにそこから姿を消した。
街まで行かなくてはならない。
夜陰に紛れるならば、犯罪王の格好の方が好都合だった。
街の猫たちに行き会わないように、カッサンドラがいるはずの塒に行って帰ってくる。
マキャヴィティの計画は、ただそれだけでしかなかった。
*
マンカストラップとランパスキャットが動けないという緊張感の所為か、
ギルバートはあまり眠気を感じないまま夜更けの教会の庭で星を眺めていた。
隣では、先ほどまで起きていたはずのコリコパットが寝こけている。
少し離れたところにいるのはミストフェリーズ。
先ほどから小さな花火を作って打ち上げている。
ひょろひょろでパッとしないとコリコパットに指摘されると、
大きくすると人間に気付かれるからこっそりやっているのだと言っていた。
そんな花火やら星やらをぼんやりと眺めていたギルバートは、そろそろ部屋に戻ろうかと伸びをして、
開いているはずの窓の方にくるりと向き直った。
「!」
驚きに声も出ないまま瞠目して固まったギルバートは、
ただ喉の奥で視線の先にいる雄猫の名を呼ばわった。
それに気付いたミストフェリーズは、何事かと振り返って全身の毛を逆立てた。
「マキャヴィティ!」
低い声でその名を口にする。
鋭い威嚇音がミストフェリーズから発せられる。
それに気付いたコリコパットが慌てて起き上がり、ぴんと尻尾を立てた。
犯罪王の格好をした猫がゆらりと三匹の青年猫に顔を向ける。
ギルバートはさっと身構え、ミストフェリーズは体勢を低くした。
コリコパットは少し戸惑ったように、それでも油断なく爪を取り出す。
「マキャヴィティ、今度は何をしに来た!?」
何もしようとしないマキャヴィティの背後に、窓から飛び出してきたマンカストラップが降り立った。
ミストフェリーズの威嚇が聞こえたのか、その後にディミータとカーバケッティも続く。
「元気なものだな、リーダー猫。そんなに傷は浅くなかったはずだが」
「おかげさまで、体中が痛くて仕方ない。が、今はそれすら発奮材料といったところだ」
「なるほど、責任感が強いことだ。だが生憎、俺はお前と話しに来たのではない」
マキャヴィティは、自分を囲んでいる猫たちをゆっくりと見回した。
そして、カーバケッティに目を止めると僅かに顎をしゃくって合図をする。
それに気付かれなければことは厄介だった。
怪我をして気が立っているリーダー猫に、雄猫なみの戦闘センスを持つディミータ、
背後には手強い黒猫と粘り強いギルバート、そしてすばしっこいコリコパット。
精神的な比重が犯罪王の方にはほとんど傾いていない今、
身体能力の高いマキャヴィティであっても、これだけの相手をするのは骨が折れるのだ。
「マンカス、ここは俺に任せてくれ」
どうだと様子を窺うマキャヴィティの耳にカーバケッティの静かな声が届いた。
「怪我をしているお前ではマキャヴィティの相手にもならない。
ここは俺が得意の口八丁手八丁でなんとかする。ディミータも退いてくれ。
ミストたちもだ。何かあったら困るから部屋に戻って長老を護れ」
「いくらなんでも危ないわよ!相手は犯罪王なのよ」
ディミータが噛みつくように言うが、カーバケッティは余裕の笑みさえ浮かべてみせた。
そういう顔つきになると、ディミータでさえ彼が何を考えているのかわからなくなる。
「ディミータの言うとおりだぞ、カーバ。あまりに危険だ」
「俺は力勝負をするとは言っていないぞ、マンカス。やばそうなら逃げる。
強いヤツ相手に逃げるのは別に格好悪いことでもないし。
いいから早く戻れ、今リーダーの権限は俺にあると言うことを忘れるな。命令だ」
普段は決して上から物を言うことのないカーバケッティだが、
ここぞという時にみせる威圧感に年上の風格も相まって凄みすら感じさせた。
役には立たないと自覚しているマンカストラップは、一つ溜め息を落とすと
まだ納得していないディミータを引っ張るようにして部屋に戻っていった。
「ミスト、ギル、俺たちも行こう。カーバに任せた方が良さそうな気がする。
それに、今日のマキャヴィティはなんかあんまり怖くない」
「そうなのかい?僕にはあんまりわからないけど、君がそう言うなら」
ミストフェリーズはまだ緊張に尻尾を立てたままではあるが、戦闘態勢は解いた。
あまり考えなしのコリコパットだが、その鋭い感覚は信じるに値するとミストフェリーズは思っている。
それはギルバートも同じらしく、彼もまた構えを解いた。
「カーバはちゃんと後で話してくれると思う。俺らは教会でみんなを護らないと。
マンカスとランパスは怪我してるし、マンゴもそう。タガーはいないし」
「そうですね。僕らには僕らのできることがあります」
ギルバートはそう言うと、教会の入り口に向かって駆け出した。
ミストフェリーズとコリコパットもそれに続き、庭にはマキャヴィティとカーバケッティだけが残った。
*
「マキャヴィティ、何をしに来た?」
「タンブルを連れてきた。塒に寝かせてある。
カッサに伝えたいことがあったんだが姿が見えなくてな。
気配を辿ってきたらここに来てしまった。そうしたら迂闊にも見つかってしまったんだ」
「全く、街を脅かすマキャヴィティの言葉とも思えない」
呆れたように息を吐いたカーバケッティは、気を取り直して仮面の雄猫を見据えた。
「カッサにしか言えないことでなければ俺が聞く。眠っているんだ、疲れ切っている」
「そうか。カッサには悪いことをした。では、伝えてくれ。
怪我はもう心配ない。休めば体力も回復するだろう。おいしいものでも食べさせてやってくれ」
「ああ、わかった。本当に怪我は問題ないんだろうな?
俺が見た感じだとかなり酷い裂傷だったように思ったけど」
目を険しくしたカーバケッティに、犯罪王は眉一つ動かさずに「問題ない」と言った。
「心配なら見舞いにでも行ってやればいい」
「そうさせてもらおう。それからもう一つ」
「何だ」
カーバケッティはぐっと拳を握って相手を睨み付けた。
マキャヴィティは平然としている。
「マキャヴィティ、俺はめちゃくちゃ腹が立っている。
ランパスとマンカスぼこぼこにしてマンゴもボロボロにして、タンブルまで傷つけて
挙げ句カッサンドラを哀しませた。どうしても腹の虫が治まらない」
「ほう、そういえばお前はカッサを好いていたな。それでどうする?」
「一発殴らせろ」
普段よりも随分低いカーバケッティの声が言う。
仮面の奥でマキャヴィティの目がおもしろいと言わんばかりに細められた。
「いいだろう、殴るのは自由だ」
但し、と言ってマキャヴィティは口の端を吊り上げる。
「殴ることができればの話だ。俺はよけるし反撃もする。いいな?」
「それでいい」
カーバケッティは争いを好まないが、十分戦力になるだけの力は持っている。
それでもマキャヴィティに敵う筈はないのだが、今の彼には怒りが籠もっている。
「来い、カーバケッティ」
「煩い、俺には俺のペースがある」
そう言いながら、カーバケッティはマキャヴィティに飛びかかった。
怒りに身を任せながらも、しっかりとフェイントを入れてくるカーバケッティに
なかなか良いセンスだと軽く驚きを覚えながらもマキャヴィティは難なく身をかわす。
カーバケッティの攻撃があたりそうであたらないのが二度続いた。
そして三度目にカーバケッティの爪が閃いたその時、ひらりとそれを避けたマキャヴィティの身体が
しなやかに回転して逆に攻撃してきた相手の背を鮮やかに蹴り飛ばした。
カーバケッティの身体は勢いよく茂みにぶつかり、小枝の折れる音がする。
静かに地面に降り立ったマキャヴィティは、茂みの方に目を凝らした。
暫くすると、がさがさと音がして茂みの向こうから猫がよたよたと歩いてくる。
「・・・っつ、かなり刺さった」
体中に小さな葉っぱと枝を付けたカーバケッティが顔を顰めたまま歩いてきて、
忌々しそうにマキャヴィティを睨め付けた。
「今の蹴りは反則だ。あんな動きができるなど聞いていない」
「ああそうだな、教えた事がないから」
「こういうのを勝負にならないと言うんだろうな。まあいい、ちょっとは頭も冷えたし。
とりあえず、カッサには言っておくからアンタはこのまま帰ってくれ」
「そうしよう」
よろめきながら立っているカーバケッティにさっと背を向けて、
黒い衣装を翻したマキャヴィティはあっという間に姿を消した。
それを見送ったカーバケッティは、重い溜め息を零して教会の入り口へと歩き出した。
とても、窓から飛び込める状態ではない。
なるべく急いで部屋に向かうと、眠っているカッサンドラに駆け寄った。
泥と葉っぱと小枝を引っ付けたカーバケッティを見て、ディミータはぎょっとしたように目を剥き、
マンカストラップは何事かと状況を注視している。
他の起きている猫たちも、カッサンドラに寄り添っていたジェニエニドッツも
さっきまでとは打って変わって汚れているカーバケッティの言動を見守っている。
「カッサ、知らせたいことがある」
「・・・カーバ?どうしたの?」
重い身体を起こし、カッサンドラはカーバケッティに微笑みかける。
疲れに曇った笑顔は痛々しかったけれど、良い知らせを伝えられることがカーバケッティには嬉しかった。
「カッサ、タンブルが戻ってきた。今は塒にいる。怪我は心配ない。
良く休ませておいしいものを食べさせてやってくれ」
「まあ、本当に?わかったわ、知らせてくれてありがとう。すぐに行くわ」
小さな身体全部で喜びながら、カッサンドラはジェニエニドッツに感謝のキスをして部屋を走り出ていった。
「あー・・・なんだ、解決したのか?」
少し離れたところから様子を眺めていたマンゴジェリーが訊ねる。
カーバケッティは頷くと、その場に座り込んだ。
「一件落着、だな」
「でもカーバ、マンカス立ちが回復するまでは君がリーダーなんだからね」
ミストフェリーズがすかさず指摘する。
正直なところ勘弁して欲しいと思ったカーバケッティも、
先ほど自ら宣言してしまった手前厭だとも言うわけにいかなかった。
仕方ないと肩を竦めたカーバケッティだったが、
目の前に怒れるディミータが立ちはだかった瞬間かちりと固まった。
「莫迦ね!力勝負はしないと言ったのにこのざまは何なの?
せっかくおばさんもいるんだからちゃんと手当してもらいなさい」
「ごもっとも」
そんなカーバケッティの様子を、教会にいた猫たちは微笑ましく見ている。
そしてそんな猫たちのことを、長老猫はただ目を細めて見守っている。
塒に戻ったカッサンドラは、眠っているタンブルブルータスの額にそっと口づけて微笑んだ。
「待っていたのよ、タンブル。マキャは元気だった?」
Fin.
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サイト10周年で書いた話でした。
記念FFにしては暗すぎるというのは書いた本人が一番わかっています。。。
アンケート一位になった「マキャヴィティ(黒)」を書くことにしたのです。
拙宅の設定では、マキャヴィティが<犯罪王>と名付けられた狂気を内包していて、
時としてそれが表面に現れては街の猫たちの脅威となっている、ということになっています。
マキャヴィティ自身にもコントロールできない狂気で周りを傷つけないように皆から離れたのですが、
結局の所街に戻ってきては一騒ぎ起こしていくという状態というわけです。
それで、タンブルブルータスはマキャヴィティの幼なじみ設定と言いますか、
物心ついた頃には隣にいて、マキャヴィティは昔から不安定で一つの街に長くいられず、
一緒に色んな街を放浪して最終的に今の街に落ち着いたのです。
そこでタンブルブルータスはカッサンドラに出会い、マキャヴィティは彼らを引き離すことが厭で
独り街を離れることを決意したわけです。
我が家の設定にしてはわりときっちり決まっている方ですね。