夢が涙を流させること
街は夜明けを迎えるまであと少しある。
薄墨色に覆われたひっそりとした街並みに舞い落ちる雪は、まだ消えない街灯で淡く橙に染まっている。
その街の片隅で、ジェリーロラムはぼんやりと灰色の空を眺めていた。
時折聞こえる遠い鳥の鳴き声に耳を微かに揺らす以外には微動だにせず、
冷たい石畳に置いた脚は冷え切って既に冷たさを感じていなかった。
「ジェリー?」
突然、頭上から振ってきた声にジェリーロラムは思わず悲鳴を上げたのだが、
寒さにこわばった唇から漏れたのは小さく掠れた音だけだった。
「どうしたの?」
驚くジェリーロラムの前に音もなく降り立ったのはボンバルリーナ。
寒かろうが暑かろうが、この雌猫の色香は褪せることがない。
「お、おはよう。吃驚しちゃった」
「おはよう、ジェリー。驚かすつもりは全く無かったのよ、ごめんなさい。
それにしてもこんな時間にあなたに会うなんて珍しいわね。どこかに行くの?」
「そういうわけじゃないの。ボンバルはこんな時間に何をしていたの?」
首を傾げたジェリーロラムに、ボンバルリーナは妖しく微笑んで見せた。
「それはとても無粋な質問ね。答えた方が良いかしら?」
「あ・・・」
「ふふ、赤くなっちゃって。可愛いものね」
ボンバルリーナが塒を離れて出掛ける先などわかり切っている。
我ながら莫迦な質問をしたものだと、ジェリーロラムは僅かに頬を染めた。
少し向こうの街外れ一帯を縄張りにしているのは白黒ぶちの雄猫で、そこからの帰りなのは疑いない。
「匂いがしなかったし…」
「そう?それなら良かったわ。匂いが残っているとあの娘が不機嫌になっちゃうから」
「あのこって、ディミ?」
「そうよ。ダンスは平気なくせにね、普段は全く男を寄せ付けようとしないんだから」
可愛くてたまらないというふうにボンバルリーナはディミータの名を口にする。
その微笑ましさにジェリーロラムもクスッと笑った。
「ねえボンバル、今の私の鼻はあんまり信用しない方がいいかもしれないわ。
冷えちゃってどこまで利くかわからないもの」
「ジェリー」
クスクスと笑うジェリーロラムに額をこつりとぶつけて、ボンバルリーナは眉を顰めた。
「すごく冷えているじゃないの。こんなになるまで外にいてはいけないわ。
あなたは女優なんだし、そうでなくても女の子は身体冷やしちゃいけないのよ」
「わかってるんだけど…って、待って待って」
「待たない。泣いて冷え切ってる女の子放っておけるほど私は酷薄じゃないつもりよ」
咄嗟に返す言葉が見つからず、ジェリーロラムはバツが悪そうに上目遣いでボンバルリーナを見る。
「泣いてるって、気付いてた?」
「当然でしょ。ほら、ガスやタントのとこに連れて行かれたくなかったらさっさと来なさい。
あなただったらディミだって喜んで迎えてくれるから」
この街の雌猫たちはみんな滅多に弱音を吐かないし泣いたりもしない。
泣かないわけではないのだけれど、誰かに涙を見せることはない。
不意を突かれなければ、ジェリーロラムが泣いていたことだって誰も知ることはないはずだったのだ。
「ほら、行くわよ」
躊躇うジェリーロラムを促してボンバルリーナは歩き出した。
鼻先に落ちてくる白い結晶を振り払いながら、二匹は薄暗い道を辿る。
「それで、ジェリーはなんで泣いてるの?」
「実は私にもよくわからなくて。目が醒めたら涙が流れていた感じかしら」
「ふうん。じゃあ夢を見たのね。何も覚えていないの?」
ボンバルリーナに訊ねられて、ジェリーロラムは束の間俯いた後に口を開いた。
「グリザベラが」
僅かに低くなった声が告げた名に、ボンバルリーナは耳を揺らした。
忘れられるはずのない名前だった。
その名前を持つ一匹の猫が天上に昇ったあの夜から幾日が経とうとも。
「グリザベラが、どうしたの?」
「確かには覚えていないの。でも、彼女が哀しそうな目で私を見ていた気がする」
「それだけでジェリーは泣いたの?」
問いかけながら、ボンバルリーナは右に折れてするりと狭い路地に入っていく。
排水管や錆びた金属の缶でごちゃごちゃとしたその細い路地を歩くのは、今では猫かネズミくらいだ。
「だから、よく覚えていないって」
「思うんだけど、哀しいのはグリザベラじゃなくてジェリー自身じゃないの?」
「私が?何故?」
問いかけたジェリーロラムの前でボンバルリーナが不意に脚を止めて振り返る。
ぶつかりそうになったジェリーロラムも慌てて止まった。
「それはね、あなたがグリザベラを好きだったからよ」
動揺したようにジェリーロラムの尻尾が揺れる。
「正確には、あなたがグリザベラの歌を好きだったから。違う?」
「ボンバルは私のことたくさん知っているのね。グリザベラの歌は好きだったわ、否定しない」
「知っていることもあるだけよ。だって私はあなたの目も開かない頃から見てきたんだもの」
悪戯好きのマンゴジェリーと連れだっておとなたちを困らせるような仔猫だったボンバルリーナが、
自分より小さく儚い存在に触れたのはジェリーロラムが最初だったのだ。
「おばさんに抱かれて眠るあなたはとても可愛らしかったわ。
この子のお姉ちゃんになりたいって、私が思ったくらいね」
蜂蜜色の仔猫は、それは愛らしかった。
愛されて育った仔猫は、大きくなっても可愛くてそして美しくなっていった。
「あなたはおばさんやガスの話が昔から好きでね、あとグリザベラの歌も好きで。
私の出番なんてどこにもなかったわね」
「小さい頃はボンバルのことを怖い猫だって思っていたの、ごめんなさい」
「いいのいいの、全然ジェリーの所為じゃないわ。私って問題児扱いされてたみたいだし、
周りのおとなたちが係わらないようにあること無いこと吹き込んだんでしょ」
ボンバルリーナは美しい笑みを浮かべたけれど、目は笑っていないことにジェリーロラムは気付いていた。
くるりと前を向いてボンバルリーナは再び歩き始めた。
「ジェリーはまだグリザベラを許せないの?」
「え…?許せないとか、そういうのじゃないと思うんだけど」
「そう?ジェリーはずっと、街に背を向けて離れていったグリザベラを許せなかったんじゃない?
それとも、そうね。好きだったから哀しくて、寂しさを憎しみにすり替えることで我慢して、
そんなあなたをグリザベラが冷たく睨んだことに傷ついて」
「ボンバル!やめてよ!」
坦々としたボンバルリーナの声を遮るようにジェリーロラムは叫んだ。
立ち止まったボンバルリーナは前を向いたままだ。
「そうよ、私はグリザベラを大嫌いになって、彼女を好きだった昔の自分を切り捨てたかった。
グリザベラを蔑んで自分も傷ついて、それでおあいこだって無理矢理納得しようとしたわ。
酷いと思う。でも、私は心からグリザベラが天上に昇ることを祝福したわ。本当よ」
「勿論わかっているわ」
ゆるりと振り返ったボンバルリーナは哀しげな笑みを浮かべていた。
「あなたは頑なで、グリザベラはもっと頑なだった。
だから、最後の瞬間まであなたたちは互いに何かを伝え合ってわかり合うことができなかった」
「それはボンバルだって一緒でしょ?」
「私は違う」
はっきりとボンバルリーナは言った。
グリザベラを見るボンバルリーナの目には一切の感情が無かった。
蔑みもしないかわりに哀れむこともない。
他の猫たちとは違うことを、ジェリーロラムも薄々感じてはいた。
「美しかったグリザベラに私も惹かれていたわ。彼女もそれを知っていて、街を去るときに言われたわ。
"あんたはアタシみたいになっちゃいけないよ"ってね」
「それで、ボンバルはどうしたの?」
「私は貴女みたいにはならないって、彼女が現れる度に心の内で呟いたわ。
私とグリザベラは望んで心を通わすことを止めたの。私の行くべき道に彼女がいてはいけなかった。
グリザベラは私に過去の彼女を見ていて、私はグリザベラに未来の自分を見ていたのかもしれない」
そう言って、ボンバルリーナは穏やかに微笑んだ。
つられるようにジェリーロラムも幽かな笑みを口許に浮かべる。
「長い間自分とグリザベラを傷つけてきたわ。簡単に癒えるはずがない。
思い出してまた泣いちゃうかもしれないけど、私はやっぱりグリザベラの歌が好き」
「私はジェリーの歌が好きよ」
「ありがとう、ボンバル」
ボンバルリーナは目を細めてジェリーロラムの美しくて可愛い笑顔を見ると、
くるりと前に向き直ってゆっくりと歩き始めた。
「私は娼婦にはならないしなれない。だって、相手のために身体を預けるなんてことできないもの。
いつだって私は自分のためにしかこの身体は預けられない」
「ボンバルらしいわ。そういうところが男の子たちにはたまらないのでしょうけど」
「ジェリーだってその気になればいくらだって雄猫を惹きつけられるわ。
あのディミがジェリーは可愛いから好きだとか言うくらいなんだもの」
「ディミは男の子じゃないでしょ。引き合いに出したら彼女に失礼だわ」
怖い顔のままで自分のことを好きだと言ってくれるディミータの様子が思い浮かべられて
ジェリーロラムは小さく声を立てて笑った。
すっかり涙が消え失せたジェリーロラムをちらりと見やって、ボンバルリーナは小さく息を吐いた。
「いいわね、ジェリーは」
「急にどうしたの?」
「一途に想い合っている相手がいるのが羨ましいかなって。ちょっと思ったの」
遠いところからでもジェリーロラムを見かけると嬉しそうに駆け寄ってくる青年は、
常々彼女のことを大好きだと言っているし事実その通りなのは誰もが承知している。
そんな無邪気なほどに一途な青年を、ジェリーロラムもまた愛おしいと思っているのだ。
街一番の色男から幼なじみの小泥棒まで、多くの雄猫たちと幾多の夜を過ごしてきたボンバルリーナには、
ジェリーロラムの恋模様が精錬で可憐だと思わずにはいられない。
「ボンバルは恋多き女の子であってほしいと私は思うわ。別にどれだけの雄猫と寝たって驚かないし」
「フォローと受け取っておくわ。もう女の子って歳ではないけど」
「あら、恋する乙女はいつまでも女の子なのよ」
横に並びかけながらふわりと微笑むジェリーロラムにボンバルリーナは苦笑を返す。
「ほんと、あなたが羨ましいわ。あんなに好き好き言ってくれる彼氏もいるし」
「可愛いじゃない。私も時々つられて好きって言っちゃうし」
「可愛らしいカップルですこと。私は彼の口から好きだとか愛してるとかってとんと聞かないのに」
そんなことを言いながらも、ボンバルリーナの口許は楽しげに緩やかな弧を描いている。
「マンカスやスキンブルは臆面もなく私のことを好きだって言ってくれるし、
タガーは気まぐれに好きだぜなんて言うこともあるし、マンゴも飾り気無く好きだと言ってくれるわ」
「すっごくわかる。マンカスやスキンブルの言う好きは、恋愛感情一切抜きで清々し過ぎるし、
タガーの好きと嘯かれたら無駄にドキドキして、マンゴの好きには笑っちゃいそう。
ランパスは言わなさそうよね、そういうこと」
「でしょ?だからこそ言わせてみたくなるのよね。そうすると向こうも絶対言わないし」
ボンバルリーナもランパスキャットも色々な意味で経験豊富だから、
男女の機微も恋愛の駆け引きもそれなりに心得ている。
「お互い強敵ね。私は疲れちゃいそうだけど、ボンバルは楽しそうね」
「楽しいわよ。頑なになってる彼が可愛くて」
「そこが私にはわからないのよね。コリコだったら可愛いというのに納得できるんだけど」
惚気ているわねとボンバルリーナが言えば、お互い様ねとジェリーロラムは軽く受け流す。
「グリザベラも・・・」
小さい声で呟くように言うジェリーロラムは、幽かな笑みを浮かべたまま地面に目を落としている。
「一度くらいは幸せな恋をしたのかしら。好きだって言い合える相手がいたこともあるのかしら」
「あったかもしれないわね。永遠の命を貰った彼女なら、これから先に良い出会いがあるかもしれないし。
そうあってほしいと願うのは生きている私たちのエゴかもしれないけれど」
前を向いたまま、ボンバルリーナは淡々として言う。
そうね、とジェリーロラムは呟いた。
「そうだったらいいと思わずにはいられない。
いつか娼婦だった記憶を忘れた命を生きるときには、素敵で幸せな恋する乙女になってほしいわ」
「大丈夫。グリザベラはちゃんと彼女自身の幸せの姿を知っているわ。
だからきっと幸せになれる。ジェリーみたいにふわふわで甘い恋をするかどうかはわからないけどね」
「そうね、ボンバルみたいに駆け引きのスリルを楽しんじゃう恋をするかどうかはわからないわね」
ボンバルリーナとジェリーロラムは束の間見つめ合って、それからくすくすと笑い始めた。
「ジェリー、見て。夜が明けるわ」
「ほんと!ねえ、ボンバル。こんな路地じゃなくてもっと広いところで夜明けを見たいわ」
「じゃあ急ぎましょ」
軽く地面を蹴って走り始めたボンバルリーナをジェリーロラムが追う。
狭い路地裏に苦くて哀しい思い出を置いていくかのように。
東の空が朱色に染まる頃。
息を少し弾ませて、乙女たちは夜明けの空を振り仰ぐ。
町並みの向こうから生まれる新しい光に出会うために。
TOPSSだったのですが、長すぎてFFページに入れることにしました。。。
ボンバルリーナとジェリーロラムがグリザベラに向ける視線というのは、
他の雌猫たちが向ける嫌悪・軽蔑の視線とは異なる気がします。
彼女たちは、グリザベラのことをよく見ていたのではないでしょうか。
ボンバルリーナの無関心とジェリーロラムの拒絶は、
何かしら特別な感情があってのことではないかと思えて仕方ないのです。