名もなき者の願い
通路と薄い板一枚で隔てられた楽屋の外がにわかに騒がしくなった。
紅を手に、メイクの仕上げに取り掛かろうとしていたギルバートは、ぴたりと動きを止めた。
間違いなく、あの喧騒はこちらに向かっている。
手にしていた小さなケースを台に置いてくるりと扉を振り返る。
違わず、頼りない扉が吹っ飛ぶのではという勢いで押し開かれる。
「陣中見舞いだ!」
「意味が違います」
顔を覗かせると同時に声を上げたコリコパットに、ギルバートは冷ややかな一言を返した。
「いいじゃん、将軍の部屋だろ?」
「将軍じゃなくて頭領のようなもんです」
グロールタイガー、本日の演目だ。
ギルバートにとって、これまでに無い大役。
主役であるグロールタイガーの宿敵、シャム猫軍の隊長を演じる。
アクション俳優指向のギルバートにとって、セリフだの歌だのという厄介なものが付き纏う。
ガスにしごかれ、ジェリーロラムに練習に付き合ってもらい、ようやく自信も付いた。
「案外狭いな」
「独り部屋ですから。ところで、何故あなた方がいるんです?」
ギルバートが視線を送る先には、カーバケッティとランパスキャットの姿。
「コリコはまあ、わかりますが」
あのグリドルボーンを演じる、実力ある女優ジェリーロラムの応援に来たのだろう。
共演の時はいつも楽屋に足を向けてくれる。
「なんだ、来たらまずいのか?」
「いえ。ただ何故かと」
「んー・・・陣中見舞いか?」
さっき意味が違うと言ったはずだ。疑問系なのもおかしい。
入ってきて一切表情を変えないランパスキャットには気付かれないよう、溜め息を吐く。
「せっかくの大舞台だって聞いたからな、差し入れがてら様子見にな」
フォローするように口を挟んだのはカーバケッティ。
差し入れと言うだけに、その手には何か抱えている。
「良かったらみんなで食べてくれ、おばさんにも手伝ってもらった」
「ありがとうございます、楽しみですね」
差し出された包みから甘く香ばしい匂いが漂う。
「これだけの量を作るのは大変だったのでは?」
「いーや、そうでもない。一個作るのもいっぱい作るのも大して変わらん」
「そうですか、ありがたく頂戴します」
発案はカーバケッティだろうか、とギルバートは思う。
よく気の利く男だ、自称紳士の肩書きは伊達ではない。
それに、様子からしてランパスキャットとコリコパットも手伝ってくれたのだろう。
ギルバートはふっと口許を弛めた。
面倒見の良い友達を持ったものだ。
今日が初日と告げたわけでもないというのにこうして来てくれる。
「あ、笑った」
間の抜けた声で言って、コリコパットはニッとした。
カーバケッティとランパスキャットも顔を見合わせて微苦笑を浮かべている。
「珍しく緊張してんのかなと思ってさ。
ずっと怖い顔してたぜ、気づいてなかっただろ?」
「え、ああ・・・そうですね」
「肝の据わってるお前ですら緊張する舞台なんだろう?
いやに張り詰めてるなってみんな言ってたぞ」
「いつも舞台は緊張しますよ、あまり表立ってわからないだけで。
でも、さすがに今回は」
そこまで言って、ギルバートははたと口を噤んだ。
そろりと上目遣いで仲間たちを見る。
「もしかして、昨日までのあれやこれやは僕の緊張をほぐすためですか?」
色々あったのだ。
近くに住んでいるとは言え普段はそうそう尋ねて来ないカーバ―ケッティも、
男の塒を訪れたりしないランパスキャットも、
舞台練習で気落ちしているギルバートのところにやって来ては
内容のない話をして酒を飲んで帰るということをしていた。
コリコパットも頻繁にやってきては無駄にちょっかいを掛けて帰っていったり、
タントミールに頼んで作って貰ったとかで大量の食料を持ち込んだりと
親切と迷惑の区別が付かない程だった。
「解釈は任せる」
カーバケッティはにやりと笑って言った。
これが嘆息せずにいられるだろうか。
こんなに明け透けな気遣いに気づかなかったとはどうかしている。
「では、お心遣いありがたく受け取っておきます」
「良い舞台見せろよ!俺も何か楽しみになってきたし」
「コリコ、余計なプレッシャーかけるな」
励ましているつもりのコリコパットにランパスキャットがため息をつく。
いつもの光景だ。
着替えも化粧ももうほとんど終わっている。
自分の格好以外と楽屋であることを除けば何もかもがいつもと同じ。
楽屋に置いてある武器の類にランパスキャットが興味を示しているのも珍しいし、
カーバケッティは矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
コリコパットはちゃっかり差し入れをつまみ食いしている。
束の間、緊張とは無縁の時間を持てることはありがたく、
硬くなっていた身体も張り付きそうだった喉もほぐれていく。
「その得物使うのか?何て名前の・・・・ん?」
何かに気付いたように、談笑していたカーバケッティが振り返った。
どうやらランパスキャットが背中をつついたらしい。
「何だ?」
その問いには答えずに、ランパスキャットは無言で扉を指し示す。
ギルバートは何ごとかと小さく首を傾げたが、カーバケッティは合点が行ったのか軽く頷いてみせた。
「ギル、俺たちはそろそろ行くから。楽しみにしている」
「はい、ありがとうございます」
随分落ち着いた。
そのことに感謝しながら拱手してみせる。
「じゃあな、また後で」
ランパスキャットが言って、仲間らは部屋から出て行った。
再び楽屋は静かになる。
「よし、後は紅だけ」
瞼尻に紅を入れる。これでシャム猫軍団の長になるのだ。
紅の缶を手に取ると、ぴりりと気持ちがひき締まる。
独りで自分に対峙するこの瞬間は儀式めいているとギルバートは感じる。
自分が自分でなくなる瞬間。
紅を掬い鏡に向かい目を上げる。
「な、んで・・・」
驚きに固まったギルバートに、鏡の向こうから女神が微笑んでくる。
「大役おめでとう、ギル。その紅は私が入れてもいいかしら?」
「タント、いつここに?」
「コリコたちと入れ替りに。ランパスとカーバがうまく隠してくれたのよ」
彼らは、結局今に至るまでギルバートを苦笑させてばかりだ。
おかしいわけじゃないのに何だか笑みが沸いてくる、それは決して不快ではない。
「驚いた?」
「勿論」
鏡越しに話すのを止めて振り返った。
ほんの少し苦笑の混じった笑顔は、やっぱり直接見る方が何倍も美しい。
「勿論なんてちょっと嘘っぽいわ。貴方、いつも涼しい顔しているもの」
刎ねた毛先を片手で整えてくれながら、タントミールはもう一方の手を差し出した。
躊躇いなくその手に真鍮色の缶を載せる。
「私がしてもいいのね?」
「貴女がして下さい。貴女に触れてもらう一瞬がとても好きなんです」
「ギルはいつも私が思う以上に私の存在を喜んでくれるのね。
目を閉じて、動かないでね」
タントミールは体温が低い。
緊張と興奮で高まったギルバートの熱をそっと冷ましてくれるのだ。
誰に触れられるよりも嫌な動悸が治まっていく。
「良い舞台になりますよ」
「もう、動かないでって言ったじゃない」
「言葉の制約は受けていませんから」
目を閉じたまま、ギルバートは微笑んだ。
敏感になった聴覚にタントミールの静かな呼吸が聞こえる。
それに凪いだ海のような安らぎがを感じてしまう。
「ギル、目を開けて鏡を見て」
言われて目を開けたギルバートは、既にあの穏やかな青年ではなくなっていた。
「似合っているわ、その衣装もその武器も。必ず勝って戻ってきて、隊長さん」
「必ずや。貴女もその瞬間を見届けて下さい」
「ええ、確りと見ておくわ。もうすぐね、私はもう行くわ」
もうすぐ板付きの時間になる。
タントミールが立ち上がると、さっと立ち上がったギルバートが扉を開けた。
微笑んで楽屋を後にする愛しい女性。
タント、とギルバートは思わず呼び止めていた。
華奢な身体がくるりと振り返る。
「物語では名も無きシャム猫軍の長にも、その名を呼んでくれる大切な誰かがいるはずです。
僕にとってそれが貴女であってほしい。だから必ず、やり遂げますよ」
「ええ、待っているわ」
タントミールが客席へと駆けていく。
その後ろ姿を見送って、楽屋に戻る。
本物ではないが、決して軽くない剣を腰に佩びて具足を嵌める。
ずしりと重くなったようでいやがうえにも緊張は高まっていく。
それでも、もうギルバートは不安ではなかった。
一度天井を仰ぎ大きく息を吐き出す。
名前を呼んでくれる彼女がいる。
待っていてくれる仲間がいる。
板付きの合図が聞こえた。
静かに楽屋の扉を閉めて、舞台に続く通路を歩いて行く。
もう間もなく幕は上がる。
横浜CATS開幕記念FFの改訂版。
視点固定できてないので読みにくくて申し訳ないです。
ギルバートとタントミールはベタベタに甘くて良いと思います。
そして、マイナーズを纏めて書いてしまう癖があるようです。
世話焼きカーバと案外弟分を放っておけないランパスと純粋に友達思いのコリコ。
それにしてもギルバートがFFによく登場します。
ギル好きサイトみたいになっていますね。