戦場レクイエム
戦場レクイエム
夜明け前、ひっそりとした暗い海に不似合いの陽気な声が沖に浮かぶ船から聞こえている。
何艘もの船から灯りが漏れ、笑い声が波の音をかき消してゆく。
「よう。何してんだ?総督が探してたぜ」
船首楼に上がってきた戦闘服姿の青年が、ぼんやりとしている親友の顔を覗き込む。
「・・・疲れて眠っているとでも言っておいてくれ」
置かれた木箱にもたれ掛かっていた青年は独り言のように返した。
「そうもいかない。功労者を連れて来いって五月蠅いんだ。
お前が来てくれないと俺はこの戦闘服を脱いで寝ることすらできない」
「おかしなことを言う」
ぼんやりと遠くを眺めていた青年は、床に目を落として鼻で笑った。
「功労者?この無残な光景を生み出した私が?」
「自虐気味だな、ジョージ。
お前には無残に見えるんだろうが、多くの味方にとってはそうじゃない。
勝利の光景だ。長い間敵対してきた国の軍を一気に沈めて要所を陥落させたんだからな」
もう何年もシャム国海軍が攻めきれなかった隣国の要塞。
そこを攻略せしめたのは、まだ士官学校を出て日も浅い若き青年参謀だった。
もっとも、士官として就任してからの任期こそ短いものの、
その名は海軍学校時代から有名だった。
天才の名を欲しいままに学生時代から功績を積み上げ、
士官学校を出てすぐ中佐の位を得ても驚く者はほとんどいなかった。
名前はジョージ。平凡すぎるその名とまるで目立たない容姿とは逆に、
その才能は、かの英雄ジェームスの再来と言われるほどに非凡であった。
「ここまでする必要はなかった。
あれだけの船を壊滅させてしまうのは・・・私の望みではなかったのに」
「仕方ないとは思えないか?
こうして勝利するまでに、こっちも何年にも渡って多くの仲間を失ったんだ。
今の総督はずっとここの攻略に係わってきたからな。
徹底して叩きのめすのもわかる気はする」
「私怨だけではないだろうが、私には理解ができない」
ジョージがこの攻略戦に参加してから、
敵対していた軍が壊滅するまでにあまり時間は要さなかった。
正確には時間を掛けることができなかったのだけれど。
「お前が理解しようとしまいと、俺はお前のことを凄いと思うぜ。
地形は当然だが、海の流れも潮の満ち引きも天候も季節も
全部読み切って味方にするんだからな」
「風と潮の流れさえ判れば、こういう場所での動き方は自ずと限られてくるものだ」
親友からの賛嘆の言葉にも嬉しそうな表情を見せることはなく、ジョージは重く息を吐き出した。
重苦しい雰囲気を撒き散らしている彼の隣に、戦闘服の青年は無遠慮に腰を下ろした。
鎖帷子がカチャカチャと耳障りな音を立てる。
「どう思おうがお前はこの勝利の功労者だ。
でも、お前の言うこの無残な光景の責任はお前には無い。
ジョージ、策を提言したのは確かにお前だ。けど、指揮を執ったのは総指揮官であり総督だ。
結果が無残であれ、勝利したこの作戦を批判する権利は俺たちには無い」
「私には、海に沈んだ命を思って落ち込む権利も無いわけか。
かつて私の祖先のジェームスは、
最大のライバルだったジンギスを討った時に涙したというのに」
「馬鹿を言うな。ジェームスはその戦の責任者だったんだろう?
ジェームスは己の名の下にライバルを打ち破ったんだ、喜ぼうと泣こうとそりゃ自由だろうさ」
「そう、だな。ああ、お前に馬鹿と言われるとは」
幽かに笑って言うジョージに、親友は目を剥いた。
「食いつくとこはそこじゃねえだろ」
「いや、少々ショックだぞヴィクター。私に馬鹿と言う者などいないのに」
「俺はいくらでも言ってやる。笑ってんじゃねえよ、腹の立つ奴だな」
わざと大きな溜め息を吐くヴィクターにジョージは疲れたようにもたれ掛かった。
実際の戦闘には加わっていないジョージはそれほど身体に疲れを覚えてはいない。
最前線で鬼神の如き活躍をしていたヴィクターの方が当然疲れてもいたし眠たくもあるのだ。
「ヴィクター」
「どうした?」
「お前からは戦の匂いがする」
僅かに眉を顰めて、それでも身体を預けたままの親友をちらりと見てヴィクターは苦笑した。
彼の戦闘服は返り血と汗とで異臭を放っている。
慣れてしまったヴィクターには気にならなかったが、やはり臭うのだ。
「俺はこういう方法でしか役に立たねえし。あとは精々お前に肩貸すくらいだな」
「戦闘服を脱いでくれればもっといい」
「我が儘だな。だいたい、お前がとっとと総督に会ってくれりゃあ俺だって着替えられるってのに。
親友だったら居場所くらいわかるだろうとか何とか言われてずっと探し回ってたんだからな」
「すまない。どうしても・・・私は喜べない。褒められることが苦痛なんだ」
伏せられているジョージの目に光るものを見て、ヴィクターはさりげなく目を逸らせた。
慰めの言葉も、元気づける言葉も、彼は持ち合わせていない。
そんな言葉があれば、こうして親友の枕になる必要など無いのだ。
それでも、何か言わなければ気まずくてヴィクターは月のない空を仰いで口を開いた。
「ジョージは総督がこれほど徹底的に相手を潰したことをどう思ってるか知らねえけど、
俺は学生時代からあの総督の下についたことがあったから少しは彼のことを知っている。
他の戦場に出ればもっと功績を積めるのにな。総督はここでの勝利に執着していた」
僅かな振動で、ジョージが頷いて聞いていることを知ってヴィクターはそのまま続けた。
「総督自身が大けがを負ったこともあるそうだ。
でも、戦の度に彼はここに来て戦い今では総責任者だ。
あいつらに、モーン国の奴らに勝つと約束したんだそうだ。今は既に亡き仲間や家族と。
負ける度に言っていた。あの時、友らと一緒に死んでいれば幸せだったんだろうかってな」
「命を失ってしまえば、幸も不幸もありはしないだろう」
「全くお前は現実的な奴だ」
再び溜め息を吐いてヴィクターは呆れたようにぼやいた。
現実的な青年は、まだ俯いたまま動こうとしない。
少し風が出てきたことは幸いだった。
肩を貸しているのはいいとしても、じっとり汗ばむような蒸し暑さには辟易していたところだ。
少し強い風に嬲られて、ここ暫く伸び放題にしていた毛先が口に入ってくる。
それに苛立ちを覚えたヴィクターは、腰に掛けていた短剣を鞘から抜いて喉元に持ってきた。
「待てヴィクター、早まるな!」
「あ?何だジョージ、寝たのかと思ったぞ」
ジョージはヴィクターの大きな動作で何事かと目を上げたのだ。
その目に映ったのは、短剣を喉元に突きつけている親友の姿。焦らないはずがない。
「話しながら寝るわけないだろう。それより、何をしようとしているんだ?」
「何って、この毛先が邪魔だから切ろうかと」
「そんなことか!驚かすな」
「何だよ、誰も驚かしたりしてねえし。もしかして俺が喉掻ききるとでも思った?」
ニヤッとするヴィクターからジョージは腹立たしげに顔を背けた。
「短剣は毛を揃える道具じゃない」
「いいじゃねえか、使えるもん使って何が悪い」
短剣をくるくる回して弄ぶヴィクターにちらっと視線を向けて、ジョージは微苦笑を浮かべた。
剣術も体術も海軍トップクラスで槍を持たせれば右に出る者はいないというほどのヴィクターだが、
平凡な体格のジョージと比較しても細いくらいで、海軍兵としては華奢とさえ言えるのだ。
それなのに驚くほど戦闘能力は高く、この戦でも傷はほとんど負っていない。
豪胆で勇敢で、そして呆れるほどに杜撰で身なりには無頓着だ。
「・・・お前は本当にサラクゥエル将軍と似たところが多いとよく思う」
「古の偉い将軍様と似てるとはね。お前、そんな昔の将軍と知り合いだったのか」
「ヴィクター、莫迦も休み休み言え。将軍はジェームスと同年代だ、私が知り合いの筈もない。
しかしな、我が家にはジェームスの手記があるんだ。そこによく将軍の名前が出てくる」
ジェームスの若い頃から老いて引退した後までも、
妻以外でもっとも近くにいたのはサラクゥエルだった。
どちらも、海軍の歴史に燦然と名を刻む英雄だ。
「一番近くでジェームスの支えになり、
戦においては戟を振り回して大暴れをして勝利に貢献したそうだ。
手記にはよく将軍への愚痴が書いてある。もう少し身なりに頓着してくれればいいのにだの
顔は良いのに口が悪いだの、もう少し書物を読んで勉強しろだの、
毛先は短剣で切るものじゃないだのと」
「そりゃあまたジョージが俺に言う文句とそっくりじゃねえか。
お前こそジェームスと似てるんじゃねえの?」
「そうかもしれないな。サラクゥエル将軍は大層美しい容貌を持っていたそうだ。
妻がいなかった頃のジェームスは、
晩餐会に呼ばれて将軍を女性に見立てて同行させようと目論んだそうだ。
けれど、あまりに将軍ががさつだから諦めたそうだが」
今では揺るぎない英雄の称号を得ている彼らにも、戯れて過ごす時はあったのだ。
ジョージとヴィクターが悪態を吐きながらも共に過ごすことで安らぎを得ているように、
彼らもまた共にいることが必要だったのかもしれない。
「さっき、ジェームスが涙を流したと言ったけれど、
それを見ていたのはおそらくサラクゥエル将軍だけだ。
上に立つ者は決して弱いところを見せてはいけないとジェームスは知っていたから。
それでも、どうしても哀しい時はある。涙が流れることは、あるんだ」
ヴィクターは手許の短剣を最後に一度くるりと回すと、流れるような動作でそれを鞘に収めた。
「仕方ねえ」
空いた手を伸ばして、ヴィクターはまた俯いてしまった親友の頭に置いた。
そっと撫でれば、ジョージが凭れている肩から僅かな震えが伝わってくる。
「いいかジョージ。お前はそのうち泣くことを許されねえ立場になる。
それも遠い先の話じゃねえだろうさ。
でも、お前がそうしたいなら俺はお前に泣くことを許してやる。慰めてはやらねえけどな。
哀しくて泣くんだったらいつでも泣け。立ち上がれるまで待ってやるから」
「ありがとう、ヴィクター」
「恥ずかしいからあんまり律儀に礼を言ってくれるな。あと、泣き止んだら総督に会いに行けよ」
肩の上で親友が小さく頷いたことを確かめて、ヴィクターはもう一度暗い空を仰いだ。
そろそろ明け方に近づいているのか、どこからともなく風に乗って海鳥の声が微かに聞こえてくる。
さざめく海に漂う戦の跡。木屑となった船。未だに燻る灰白の煙。
痛ましいまでの勝利の証。
親友の哀しみを受け止めながら、ヴィクターは真っ直ぐに闇に浮かぶ戦場を見つめた。
そして、そっと祈る。
低く静かな声に乗せて、名も知らぬ魂のために。
Requiem aeternam dona eis Domine:
et lux perpetua luceat eis.
3.11への祈りをこめて。
本編未読だと全く意味不明な名前がチラホラ。。。
昔からずっと、他の誰でもない
昔からずっと、他の誰でもない
正面から歩いてくる大柄な将校が扉まで十歩まで近づいてくると、
総司令部執務室の前に立っている衛兵たちは計ったように同じタイミングで敬礼をする。
衛兵たちの手前で立ち止まった男は、慣れた仕草で返礼をする。
「お勤めご苦労様。ところで、アドミータスを見なかったか?」
「先ほどお見かけしました」
一番左端に立っていた衛兵が半歩ほど進み出て言った。
飾緒の色が彼だけ違うということは、彼がこの警備班の班長ということである。
アドミータスは下士官に過ぎないが、総司令官の双子の弟だけに衛兵たちはよく知っている。
「奴はまだ中か?」
「いいえ、一刻ほど前に出て行かれました」
「一刻?だったら何で隊舎に戻ってこないんだあいつは」
ぶつぶつと呟いていた男は、仕方ないかと肩を竦めて衛兵の班長に向き直った。
「総司令官と話がしたい。入れてもらえるか?」
「取り次ぎますので少々お待ちください」
班長は言うと同時に隣の衛兵に目配せをする。
よく訓練されている衛兵はするりと扉の中に入っていった。
暫くして内側から扉が開かれたが、そこに立っていたのは取り次ぎに行った衛兵ではなく
総司令部の白い制服を纏った女性司令官だった。
「久しぶりね、プラトー大佐。中へどうぞ」
「失礼します」
執務室の扉は高く、いかにプラトーの身長が高くても頭を擦ることはない。
二重扉になっている外側の扉を閉めて、女性司令官のメグはプラトーを見上げた。
「どうしたの?さっきアドが来ていたのに貴方も来るなんて」
「そのアドが帰ってこなくてね。こっちで迷惑掛けてるのかと思ってきてみたんだが」
「相変わらず面倒見が良いのね」
「どうだか。来てみたはいいけどアドは出て行ったらしいし、
どうせ来たんだからジョージに昨日の礼でも言ってから戻ろうかと」
プラトーは、先頃まで西海域で勃発した小競り合いを鎮めるために部隊を率いて遠征していた。
首尾よく任務を完遂して戻ってきたのが一昨日の夜だった。
そして昨夜、総司令官のジョージ自ら戦場に赴いた部隊を集めて食事と酒を振る舞い、
主だった士官・下士官たちに慰労の言葉をかけて回っていた。
「昨日は部下たちも随分盛り上がっていたし」
「そうねえ」
内側の扉に手を掛けながらメグは苦笑を浮かべた。
「ここの所小競り合いが多いからジョージもずいぶん参っているのよ。
今もかなりお疲れモードみたい。貴方を通すのも随分渋っていたし」
「そうか。悪かったかな」
「いいえ、かまわないわ。彼も気がまぎれるでしょうし」
そう言ってメグが扉を押し開くと、部屋は静かなのに殺気立った雰囲気が充満している。
あまりの忙しさ故か執務官たちはプラトーを一瞥もせずに仕事に没頭していた。
執務官たちのさらにその向こうが総司令官の執務机になっている。
普段のジョージは、重要な用件でなければ読んでいる書類や資料から目を上げないことも多い。
机とお友達ではないかというくらい、プラトーなどは執務机に張り付いている彼しか見ない。
しかし、今日は違う。
プラトーには背を向ける格好で、総司令官は珍しく立ち上がって書棚の本を眺めている。
「総司令官、プラトー隊長がいらっしゃいました」
「そうか」
メグの呼びかけに応えるように総司令官はゆるりと振り返る。
プラトーは慌てて敬礼の姿勢を取る・・・途中で固まった。
傍らのメグは何事もないかのように小さく頭を下げると彼女の席に戻っていった。
「どうしたんだ、プラトー隊長」
不自然に手を挙げたまま口を開けて硬直しているプラトーに総司令官が声をかける。
「どうしたもこうしたも・・・」
ふるふると震えだしたプラトーは、大股で総司令官の執務机まで歩み寄ると、
片手を木でできた天板に思いきり叩きつけた。
積んであった書類と書籍が僅かに跳ね上がり、一番上にあった書簡はひらひらと中を舞っている。
破壊音に近い大きな音には、さすがに執務官たちも驚いてプラトーを見やる。
「ジョージ総司令官、話があります。今すぐに!」
ドスの利いた低い声は敵を恫喝するのにも有効なほど迫力がある。
執務官たちは驚きと僅かの恐怖心を持ってそろそろと上官の方を伺うが、
総司令官は平然としたもので「わかった」と頷いている。
「メグ司令官、暫く外す。官舎の会議室にいるから緊急だったら呼びに来てくれ」
畏まりましたと返事するメグの声を聞きながら、総司令官は悠々と扉に向かって歩き出す。
プラトーはその背を追って執務室を出た。
付いてこようとした衛兵は、プラトーがいるとの理由で総司令官自身が必要ないと言った。
早足の総司令官が通る場所通る場所、全ての軍員たちが直立で敬礼をする。
そのことに居心地の悪さを感じながら、
プラトーは前かがみになって総司令官の耳元に口を寄せた。
「おい、アド。どういうつもりだ?」
「いいから」
何がいいのかさっぱりわからないプラトーだったが付いていくしかない。
なぜ、部下にして腐れ縁のアドミータスが総司令官の格好をしてあの部屋にいたのか、
そして今どこに向かっているのか、プラトーには理解しがたいことばかりだ。
「どこに行くかくらい教えろ」
「官舎の会議室って言ったじゃないか」
「なんでまたそんなところに」
「兄貴に話があるんだろう?」
下士官のアドミータスよりは遥かに上の位を持つ佐官、将官クラスの軍員たちが敬礼をしても
総司令官の服を来たアドミータスは平然と返礼をしている。
官舎に踏み入っても、延々敬礼の波が続くのだからプラトーもさすがに気疲れしていたが、、
それ以上にアドミータスが明らかに慣れていることに愕然とせざるを得なかった。
「ここだ」
アドミータスは数ある会議室という名の
打ち合わせスペース兼仮眠室の扉の前で立ち止まった。
そしておもむろに扉をノックすると、中から声がした。
「どちら様ですか?」
プラトーには聞こえてくる声に覚えがあった。
ビル・ベイリーという連絡員のものだ。ジョージのお気に入りだという。
「ジョージだ、開けてくれ」
またしても平然と言い放つアドミータスにはプラトーも開いた口が塞がらない。
しかも、部屋の扉は言葉通りに開いて、
隙間からビル・ベイリーの目が探るようにプラトーたちを見ている。
「アドミータスさん、よくここがおわかりですね。聞いていましたか?」
「何となくここかと思って」
「ア、アド!今もしかして勘だって言ったか?」
プラトーは驚愕の声を上げた。
ただ、あたりを憚って無声音にすることができるくらいには理性は保たれていたが。
「勘じゃないとお思うけど。双子ってそういうものみたいだし」
「・・・理解できん」
「わたくしにもわかりません」
部屋の中に導きいれられたプラトーの呟きに、ビル・ベイリーがぽつりと同意する。
廊下のない部屋は、扉を入ればすぐにテーブルと椅子、寝台が目に入る。
打ち合わせに使うこともできるし、海が荒れて足止めを食った軍員が泊まったり
勉強や仕事に集中するために缶詰めになったりと使い道は様々だ。
勿論、今現在寝台に転がっている男のように
仕事をさぼって仮眠をとる軍員も少なくないという話だ。
「兄貴、いいか?」
総司令官の格好をしたアドミータスが、
寝台に伸びている下士官の格好をしたジョージに声をかける。
何とも妙な光景だと思っているのはプラトーだけなのか、ビル・ベイリーは特に表情を変えない。
「・・・ん?」
それほど大きい声を掛けられたわけではないが、ジョージは小さく呻いて目を開けた。
僅かの物音や気配で目を覚ますのは、軍に属する者としては好ましいことだ。
敵に襲われて寝ていたのでは国は守れない。
「兄貴、問題が起きた」
「問題?」
一気に目が覚めたのか、ジョージはがばりと身を起こしてアドミータスに鋭い目を向けた。
「何があった?」
「うん、プラトーにばれた」
「・・・は?」
間の抜けた声を出して、ジョージは暫しそのままの体制で言われたことの意味を考える。
「プラトーに、ばれた?」
寝台に体を起こした状態のまま、扉の方に顔を向けたジョージの目には
中央司令部の軍員が着る黒い制服が目に入った。
ちなみに、今ジョージが身に着けているのもその黒い制服である。
ゆっくりと視線を上げていくジョージの目に、不機嫌そうな白面の男の顔が映った。
「ふむ」
「ふむ、じゃないよな?ジョージ総司令官殿」
「いや、まあ落着け。話せばわかる」
プラトーはため息をついて、そこにあった椅子に腰かけた。
大柄な彼が座ると、普通の椅子も子供用の椅子に見えてしまう。
ジョージは神妙な顔つきでベッドのへりに腰かけ、アドミータスはその隣に座った。
いたたまれないが勝手に立ち去ることもできないビル・ベイリーは扉付近で直立している。
「お前たちが入れ替わるのが趣味だというなら俺はそれを否定する気はない。
が、アドは俺の用事の途中だっただろう?いつまでも戻らないから心配したんだぞ」
主に誰かに迷惑をかけていないかということについて、とはプラトーは口にしない。
ごめん、とアドミータスは素直に謝った。
すまない、とジョージも謝罪を口にする。
「私がアドに代わってくれと頼んだんだ」
「俺はいいよって言った」
「ああそう。別に代わるのはいいんだって。問題は俺に何の連絡もなかったことだ。
アド、お前は俺の友達だけど立場上は部下だし、ジョージにとってアドは弟だろうけど
組織の中では一部隊の隊員なんだ。勝手なことをされたら非常に困る」
「申し訳ない。プラトーの言っていることが全面的に正しい」
神妙な顔で説教を聞くジョージをビル・ベイリーは痛ましげに見つめていた。
何か言いたそうだが、立場を弁えてか口を開くことはしない。
その年若い青年をちらりと見たプラトーは、小さくため息を吐いて天井を仰ぐ。
「ちゃんと言ってくれたら、アドが嫌じゃない限り俺は替え玉くらい見ない振りはできる。
でも、ジョージ。お前疲れてんだろう?休めないからアドに代わり頼んでんだろう?
替え玉なんて面倒なことしてまでお前はあそこにいないとダメなのか?」
「ああ、いないとダメだ。私は総司令官としては若いし経験も浅い。
休業日以外で休んでしまうと周りに迷惑が掛かるし風当たりも強い。
私はあそこにいて当然なんだ。どんなに疲れても私は軍のトップにいるのだからな」
「そうか。俺には口を挟めるようなことじゃないから休めとは言えない。
俺が力になれるとしたら戦場で働くことくらいだからな」
「十分ありがたい」
僅かに疲れの滲む笑みを浮かべたジョージは、ふと真顔になって首を傾げた。
「どうしてプラトーには私とアドが見分けられるんだろうな?
アドも不思議に思わないか?今まで見破られたことは一度もないのに」
「うん。でも、プラトーは昔から俺たちのこと見分けられたし」
「何言ってんだよ」
見分けられない方が不思議だ、とプラトーは不機嫌な声で言った。
プラトーからすれば、似てはいるがふたりの顔立ちは違って見える。
瓜二つとはいえ同じということはないはずだ。
「ヴィクターやメグだって見分けられないんだ。一緒にいればわかるかもしれないが、
あの場でアドが私の服を着て座っていれば疑う者などいないと思っていた。
制服であれば体格の違いなどは隠れてしまって見えないし」
戦闘時には先陣を切って戦を指揮するアドミータスと、デスクワーク中心のジョージでは
鍛え方が全く違うから、制服を脱いでしまえば違いは一目瞭然なのだ。
だが、ゆったりめに作られている制服ではその違う部分は見えない。
「ジョージとアドじゃ顔が違うだろうが。なあ、ビル少尉」
「は!?あ、失礼いたしました。あの、わたくしも失礼ながら間違えてしまった身なので…」
あたふたと答えるビル・ベイリーを見てジョージが苦笑する。
「アドは私の振りをするのが大層うまいんだ」
「うまいどころかジョージそのものだったぞ。仕事していないこと以外は」
「しないわけじゃない」
できないんだ、とアドミータスが冷静にプラトーの言葉を訂正した。
「わかっちゃいるけどなあ、アド。でも、それだと執務官たちにいつかばれるんじゃないか?」
「大丈夫ではないでしょうか」
控えめに口を挟むのはビル・ベイリー。
プラトーが予想するところでは、この青年は今まで幾度となく入れ替わりを見てきたのだ。
だから、アドミータスがジョージで、
ジョージがアドミータスという光景を普通に違和感を抱かないのだ。
「執務室の皆様は、総司令官が現実逃避なさっているとお考えのようです。
皆様とても優しい方々ですので、たまにはそんな時も必要とおっしゃっています
そう頻繁にあることではないですし」
「皆を騙してしまうわけだから頻繁にというわけにもいかんだろう。
私はここでこうして現実を手放して眠っているのだから、
現実逃避というのは正しいのかもしれない。
アドにもみんなにも随分甘えてしまっているな」
「俺はそれでいい。兄貴はいつも頑張りすぎだから」
よく似た双子は顔を見合わせて笑う。
「笑っていらっしゃるときは本当に見分けがつきませんね」
ビル・ベイリーが囁くように言う。
そうだろうか、とプラトーは口に出さずに目を眇めた。
疲れは見えていてもジョージの笑顔は明るい。
アドミータスの笑顔には影が漂っている。
その明暗がふたりをはっきりと分けていても、それはビル・ベイリーには見えていないのだ。
同じように、他の者たちにも見えていないのだろうとプラトーは思った。
「ジョージ、俺はもう行く。隊舎で部下を待たせているからな。
暫く休むんだろう?アドは執務室に送り届けておくからゆっくりしろよ。それから」
「ああ、よくわかっている。もうプラトーに無断でアドに頼んだりしない。
ありがとうプラトー。私のこともアドのことも心配してくれて」
「ジョージだってそうするだろう?特別なことじゃない、友達なら普通のことだ」
「そうだな、お前が友達で良かった」
赤面するようなことをさらりと口にして、ジョージは寝台に倒れこむように眠ってしまった。
眠りに落ちるのが早いのは軍に属する者として悪いことでない。
いつたたき起こされるかわからない状況で、素早く睡眠を取れるのは良いことだ。
「よし、アド行くぞ。またお前の見事な総司令官ぶりを見せてもらうとしよう」
「俺はずっと兄貴を見てきたから兄貴の真似なら任せてくれ。
それじゃあビル少尉、終業時間くらいにまた来るからそれまでよろしく頼みます」
「畏まりました」
乱れた掛布団を何とかしようと苦心していたビル・ベイリーは手を止めて、
アドミータスとプラトーに向かって敬礼をする。
「さて、戻りますか。総司令官殿?」
「よろしく警護を頼むよ、プラトー大佐」
颯爽と歩き始めたアドミータスの半歩後ろを、隙なく警戒しながらプラトーが歩く。
来た時と同じように、軍員たちが横によけて敬礼をする。
それに頷き、時には返礼をしてアドミータスは完全な総司令官を装っている。
「ありがとう、プラトー」
耳元を掠めるようなアドミータスの声に、プラトーは目だけでそちらを見た。
珍しく、アドミータスの目元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ばれちゃったけど、俺のこと、俺だってわかってくれて嬉しかったから」
「わかるさ。昔からわかっていたんだ、今だってわかる。当然だ」
「うん。俺はこんな形でも兄貴の力になりたいから、みんなには黙っといてほしい」
前を向いたまま、ようやく聞こえる程度の声で話すアドミータスに
プラトーは小さく、でもしっかりと頷いて見せた。
「ただ、約束は守れよ」
「うん、約束は守る」
執務室の扉まであと十歩。
先と変わらない衛兵たちが一糸乱れぬ敬礼をする。
ゆったりと返礼するアドミータスは、ジョージ総司令官そのものだ。
手をおろして振り返ったアドミータスは、微かに笑みを浮かべた。
「ありがとう、プラトー大佐」
プラトーは敬礼で応える。
総司令官は頷いて執務室へと姿を消した。
「さて、戻るか」
独りごちてプラトーは踵を返すと隊舎に向けて歩き出した。
隊舎に戻れば二日酔いで呻いている部下たちが待っている。
「オレンジでも買っていくかな」
それでジュースを作ればアドミータスも部下たちも喜ぶだろうと、
部下たちが可愛くてしかたないプラトーは行き先を市場に変えた。
執務室では相変わらずジョージなアドミータスが
仕事に手を付けることなく、のんびりと窓から海を眺めていた。
それでも、総司令官のいつになく穏やかな表情を見て、
殺伐としていた部屋の空気が少し和やかになっていたことは、
本物のジョージが戻ってきたときに彼だけが気づくのだ。
TOPに置くにはどう考えたって長すぎる代物。
プラトーはきっちりしてるのですよ。でなければこの若さで大佐にはなれない。
我が家の海軍シリーズではそこそこ需要のあるコンビ。
大きな相談相手 * new *
大きな相談相手
海軍総司令部の入っている建物の二階にある喫茶室を利用するのは、
場所柄ほとんどが白の制服に身を包んだ総司令部の軍員たちだ。
その中に黒い制服を着た軍員が混じっていたからと言って誰が気にするわけでもないが、
それが立派な体躯と鮮やかな赤毛の将校だったりすると目を引くのは当然である。
海に向かって大きく開いた窓の前にある席に陣取っている胸板の厚い大男だが、
優しげに垂れた眦と伸びすぎでは無いかと思われるほど長い下睫が
巨躯から受ける印象を和らげている。
それでも、机にさりげなく立てかけられている大きな剣が、
通常のスペックでは両手で操ることすら難しい代物だということは一目でわかり、
やはり身体の大きさに見合うだけの腕力の持ち主なのだと知れる。
実際、この男が持つ器物損壊の逸話は数え切れないほど多い。
彼の隊舎や船にはドアノブがなく---無論、力余って彼が破壊したのだ、
全て引き戸か押し開くタイプの扉になっているというのは有名な話だ。
壊すつもりは毛頭ないのだが、いかんせん膂力が強すぎて気を付けていないとすぐに物が壊れる。
時々この喫茶室を訪れる彼のことは、従業員の間でも既に有名になっていた。
どんな飲み物を頼もうが、彼に提供される器はいつもしっかりと焼き固められたごついカップで、
それは致し方ないことと言えた。
「---だとか何とか言うのだが、それは結局言い訳に過ぎないだろう?
プラトー、聞いているのか?」
「うん?ああ、聞いてる。相変わらず頭良いなと思ってさ」
その大柄な身体に見合った太く低い声で答えながら、
プラトーは窓の外に向けていた目線を隣に座る男に向けた。
「確かに物品の購入と運搬に掛かる費用は頭が痛い問題だろうな。
そこで艀作業しているのを見ているだけでも非効率的だとは思うし、
そういうところ是正できたらもうちょっと費用は抑えられるんだろうけど」
「そうなんだ、プラトー。だいたい、船腹を半分ほどしか使っていない状態で運んでくるとか、
得するのは廻船業者くらいだろう?運搬料を負担するのはこっちだから売り手は損無しだ。
一つの売り手に対して一つの船腹をあてがっているなど非効率にもほどがある」
溜め息を吐いて、温い茶を飲んでいるのは総司令官のジョージだ。
プラトーとは海技学校時代の同期で、その頃からの縁は互いに出世しても続いている。
とはいえ、ジョージの出世スピードは前代未聞で既に海軍のトップにいる。
プラトーも若くして海軍隊長になったのだが、同期にはヴィクターやメグといった
彼より更に有能な面子が揃っていて、素晴らしい経歴なのにどうにも目立たない。
だが、互いにそういったことを気にすることもない気楽な付き合いではある。
特に、プラトーはジョージの双子の弟であるアドミータスの上司で、
常に弟の心配をしているらしいジョージからは十分すぎる信頼を置かれていた。
「いっそ、軍で統括したらいい。軍が商売してはいけないという規律はないからな」
「斬新な案だ。軍相手に商売しているところが泣くかもしれないな。
そろそろ卸業者相手に値切り交渉をするのも限界だし、方向性の転換は必要だな。
艀作業なら我々もできるし、検量などは一つの業者に絞って
荷役料の再交渉をしてみる価値はある」
目を煌めかせるジョージの頭の中では、既にいくつかのプランが描かれ始めているのだろう。
プラトーは口の端に笑みを浮かべて、再び海に目を向けた。
艀作業に繰り出している小舟に取り付けられた色とりどりの小旗が、小気味よく翻っている。
「それにしてもプラトーは器用だな。熱心に海を見ているようだが私の話も聞いている。
その上で意見も言ってくれるし、海軍隊長としての実績も申し分ない」
「褒めてくれるのはありがたいけど」
「ああ、続きは言わなくていいぞ。悪いな、なかなか給料を上げてやれなくて」
バツが悪そうに苦笑を浮かべるジョージに、プラトーはちらりと目を向けて「かまわない」と言った。
今のところ、彼も家族も生活に困ってはいないのだ。
「今の話も実現できればそれなりに金は浮くはずだろう?
俺が喚いてもどうにもならないけどジョージだったら色々動かせそうだし、頼んだ」
「そうだな、チームを編成して真剣に取り組んでみるか。おもしろそうだし」
「そういう厄介なことをおもしろそうだって言えるのが俺にはわからないな」
感心と呆れが半々といった口ぶりでプラトーは呟いた。
そして、忘れられていたように皿の上に放置されていたタルトを手に取ると口に放り込んだ。
もくもくと咀嚼している彼を、ジョージが唖然として見つめている。
決して小さくないジョージだが、長身のプラトーのことは見上げる格好になる。
「・・・それを一口で食べるのか?」
「うん?これは一口サイズだろう?」
「いや、違うと思うぞ。まあ、豪快で見ていて気持ちいいくらいだが」
ジョージはそう言って手許のタルトに目を落とした。
マンゴーが山と盛られているそれは、彼の口には収まりそうにない。
首を傾げつつ、ジョージは三角に切り出されたタルトの端を囓る。
「そういえばジョージ、なんで俺相手にこんな話するんだ?
周りには頭良い奴掃いて捨てるほどいるだろうに」
「うーん、私が求めているのは洗練された意見とか考え抜かれた計画じゃなくて、
起死回生の思いがけない一手だったりするわけだ。
それに、プラトーといると何だか落ち着くから良いアイデアも浮かびそうだし」
そう、身体の大きさよりも顔つきの穏やかさが印象的なプラトーは、
彼自身の面倒見の良さも手伝って、彼の周りにいる者たちに慕われ
誰彼無く話し相手として選ばれるのは当然の成り行きとも言える。
プラトー自身、そういう役回りなのだろうと最近は自覚している。
「うまくやってくれよ、ジョージ。必要なら手は貸す」
「正攻法でいくさ。うまくいったら多少は給料に反映できるだろう」
互いににやりと笑み交わして、プラトーはごつい器の茶を飲み干し、
ジョージは残っているタルトに齧り付いた。
開け放たれた窓からは、艀にいそしむ男たちの潮焼けした声が響いてくる。
はしけ(艀:barge)
港湾において、主としてブイに係留中の本船と物揚場や水際線に面する倉庫、
荷揚場間の貨物輸送に従事する港運船。
重量物の荷役においては、岸壁係留中の本船への揚げ積みなども行う。
偶然と意思と
偶然と意思と
例えば、と言いながらアロンゾは正面に座る上官に目を向けた。
「補佐官のメグ大佐やわたくしの兄のランパスキャット大尉などは
典型的な西国からこの地に入った一族の体格と顔立ちですね」
「なるほど。手足が長くてシャープな顔立ちだな、背も高い」
卓上に広げたままの地図を折りたたみながら呟いたのは、
この家の主でもある総司令官のジョージ。
窓には厚い布が掛けられていて外の様子はわからないが、
不寝番の警備兵や衛兵以外は寝静まっているような深夜である。
「連絡員のビル・ベイリー少尉などに見られますように
背が低く大きめの目をしているのは先住種族との混血の結果でしょう」
「確かに、ここいらの部族は小柄かもしれん。目も大きいしな。
そう考えると、シャム国は本当に様々な小国と部族を飲み込みながら
ここまで大きくなったのだと改めて感じる」
ジョージが折りたたんだ地図を差し出すと、
アロンゾは目礼をして両手でそれを受け取り制服の内にしまい込んだ。
「自分の育った国だというのに知らないことばかりだ」
「そういうものです。総司令官がご存知ないことはきっと誰かが知っています。
それを集めて使いこなすのが総司令官のお役目かと存じます」
「そうだな。そうだが・・・この件に関してはちょっと事情が違う。
限りなく無意識的だが確かな意図が働いてこの部族は歴史から消されている」
シャム国海軍を正当化するために。
この国を形作る者たちが、この国の民であることを誇りに思えるように。
「葬り去られようとしている歴史と部族を拾い上げるのが総司令官のご意志でしたら、
あまり深く思い悩まずに前に進まれるのがよろしいのではないですか?」
「ヴィクターにも言われた。どうにも思い悩む質らしい。
これも運命だろう、私には私のするべきことがあるはずだ」
「運命、ですか」
思わずというように呟いたアロンゾに、ジョージは僅かに眉を寄せた。
「私は何か変なことを言ったか?」
「いいえ、そういうわけではなく。
そういえば、わたくしの兄は運命という言葉を嫌っていたなと思い出しまして」
「そうなのか。何か理由があるのだろう?」
何でも知りたがるのはジョージの立場ゆえか性格か。
「全ては偶然と意思によって決まるのだと兄は言います。
あらかじめ決まっているようなものは何もない、
自分が決めて歩き出した道だからこそ己の力で切り開いていけるのだと」
「・・・さすがに強いな。運命だったという言い訳ができないということだからな。
ただ、彼の酷い経験が運命だったなどと言いたくはないだろうな」
「怒られましたよ、胸ぐら掴まれて地面に投げつけられました」
アロンゾは苦笑いを浮かべた。
笑ってしまうことができなかったジョージは複雑な表情を浮かべている。
「その時に思い知ったんですよ。自分は兄が見てきた世界と全く違う世界を見てきたと。
家族が目の前で斬られる様も、一面の焦土も、血の海も纏わり付く死臭も、
同じ国に生まれたのに見えているものは一緒ではありませんでした」
「同じ時を生きながら見えるものが違う、そういうものなのだな。
知っているはずのことが、視点を変えれば全く知らないことに見える。
知らないことばかりが増えていくのも頷けるな」
知らないことを知ろうとするたび、知らないことが増えていく。
いくつもの事象が絡み合い、意思が働き、偶然が揺さぶる世界はあまりにも複雑だ。
ジョージは知らず苦笑を浮かべていた。
「全てを理解しようなどとは傲慢この上ないな。
前言は取り消しておこう。私は自分自身の意思で彼と向き合うのだからな。
後に生きる者がこれを宿命や運命と呼ぶのであれば、それはそれで構わない」
「総司令官やわたくしのように、名門・名家と言われる家系の直系に生まれた者に、
貧しい土地での厳しい生活は理解し得ないでしょう。想像の域を出ません」
そして、辛酸を嘗めながら生きてきた者には
ジョージやアロンゾのものの見方や考え方を理解することはできないのだ。
「理解し得ないものがあったとしても、理解できることもあるに違いない。
このことが、歩み寄るための一歩になると思いたい」
「わたくしはそうなると信じております。だからこそ引き受けました。
歴史に埋もれた部族たちの生き様をこの目で見て参ります」
「よろしく頼む。私はこの手で・・・彼らを救いたい」
背筋を伸ばしたアロンゾはぴしっと敬礼をする。
ジョージは微笑み、机の上に置いてあった親書の最後に署名をした。
「うまくいくことを願う。この使命も、お兄さんとの仲も」
「僭越ながら、わたくしも総司令官の想いが叶うことを祈っております。
夜が明ける前に出張官舎に戻りますので、この辺りでお暇いたします」
「協力に感謝する。くれぐれも気をつけてくれ。
強力な先導兼護衛が裏口で待っている。
彼は詳しい事情を知らないが、必要であれば話して貰っても構わない」
裏口までアロンゾを送ったジョージは、自ら扉を開いた。
日中も日の当たらない廊下はひんやりしているが、外はむっとしている。
満月、明るい夜だった。
「いるか?」
「はい、ここに」
木立の暗がりから大きな影がぬっと出てきた。
束の間相手を見ていたアロンゾは驚いたように目を丸くした。
「あなたは兄の同僚の・・・」
「第一艦艇部隊操舵手のマキャヴィティです。暫くの間ですが、よろしくお願いします」
「あ、ああ。こちらこそよろしく」
マキャヴィティは既に大きな荷物を担いでいた。
今夜はアロンゾの宿泊している部屋で休むことになっている。
部下だと言えば、衛兵は特に疑いもなく入れてくれるはずだ。
「アロンゾ司令官、マキャヴィティ少尉、道中の無事を祈る。
司令官、少尉は山歩きにも慣れているそうだから案内は任せて大丈夫だ」
「そうですか。それは頼もしいことです。それでは、行って参ります」
アロンゾとマキャヴィティが揃って敬礼をする。
ジョージ敬礼を返すと、二つの影は夜の中へと歩き出した。
満月の次の夜
月が南に掛る時分
嘴岩にて待つ
「生きて帰れたら、じっくり話を聞かせてもらうことにしよう」
ジョージは静かに裏口の扉を閉めた。
使者は送り出した、時は近づいている。
時系列的には第参章「15.出発」の前日くらいです。
アロンゾの研究というのはこんな感じのこと。
彼の中にはいつも、兄を理解したい想いがあるのですが。。。
きらきらの
きらきらの
鈍い破壊音が聞こえ、次いで間の抜けた声と悲鳴に近い声が聞こえる。
久々だな、と部屋で着替えをしながら暢気に呟いたのはアドミータス。
間の抜けた声は、間違いなく隊長のプラトーだろう。
---気をつけて下さいって言ったじゃないですか!
---手加減はしたぞ、脆くなっていたんじゃないのか?
---隊長の怪力が過ぎるんですよ!
口々に隊長を責めているのは、この部隊の若い軍員たちか。
アドミータスはマイペースに着替えを済ますと、姿見の前に立った。
久々の正装だが見るところ違和感はない。
よし、と呟いて部屋を出る。
そのまま隣の部屋の前まで移動して扉をノックした。
隊長のプラトーの個室がここで、副官のアドミータスが隣部屋になっている。
「失礼いたします、アドミータスです」
中は随分と騒がしい。
その合間から入れと声がする。
まさか誰も扉のすぐ傍に立っているなどということは無いだろうが、
それでもアドミータスは向こう側の気配を気にしながらゆっくりと扉を押した。
普通、部屋の扉には取っ手が付いている。
だが、この隊舎に限って言えばほとんどの部屋に取っ手は付いていない。
内外どちらからでも押し開けることのできる扉ばかりだ。
鍵は一応付いているが、閂方式の簡易なものになっている。
それでも、最初はきちんと全ての扉に取っ手が付いていたのだ。
「隊長、収納室の扉まで壊したのですか?」
「違う!あれは勝手に取っ手が外れたんだ!」
くるりと振り返ったプラトーが、あくまで自分は何もしていないと主張するが
そんなわけがないでしょうと周りにいた部下たちが呆れたように言う。
そう、隊長のプラトーは膂力があまりにも強く
強引に扉を開けようとしては取っ手や鍵を破壊することがままある。
「久々だなと思って。収納室の取っ手はまだ残ってたんだな」
「久々ってアドさん、何とかして下さいよ」
泣き言を言うのは、いつも修理をさせられる若い整備士だ。
船ではなく扉の修理なんて、そう楽しいはずもない。
「大丈夫、もう壊すところなんて残ってないし」
「そういう問題ではないですって!」
自分たちの宿舎だけならともかく、どこに行っても破壊するのだから
これはもうプラトー隊最大の悩み事と言っていい。
「それよりも、隊長そろそろ出かけないと」
「もうそんな時間か?」
プラトーは焦ったように着替えを再開した。
手が止まっていたのはアドミータスが入ってきたからで
それまでもプラトーは正装に四苦八苦していたようだ。
「しっかし総司令部も無茶なこと要求しますよね。
正装した上で各々お洒落をしてこいなんて」
「男ばっかりの部隊だとどうしていいかわかんないよな」
着替えを手伝っていた部下たちは困り果てたように言う。
今日は将官の婚礼式典で、出航しないなら参加しろと呼び出されている。
会話したことすらない晩婚の少将の式典など気が重いが、
総司令部直々の司令とあれば行かざるを得ない。
おおよそ、司令の発信元は学友であり現在の海軍トップのジョージだと
プラトーも同行する副官のアドミータスも分かっている。
「アドはもう準備できたのか?」
「できました。下で待っています」
「あ、ちょっと待て!」
扉を押そうと手を掛けたアドミータスをプラトーが呼び止める。
「何でしょう」
「見たところアドはなかなかセンスが良さそうだな」
きちんと正装したアドミータスは、控えめな装飾品で厭味無く華を添えている。
こういった着こなしは一朝一夕でできるものではない。
アドミータスは名門の生まれである。
双子の兄のジョージもそうだが、立ち居振る舞いは厳しく躾けられたようで
がさつで剛毅な軍員たちの間にあっては、身のこなしは上品にも見える。
「どうも俺にはこういった粋ってのがわからない。
アド、オレンジジュースを手配するから手伝ってくれ」
「畏まりました」
特にオレンジジュースが無くてもアドミータスが断ることはない。
しかも、日常的には上官の指示には絶対服従が基本だ。
だが、軍事的なことならともかく、ただの頼み事である以上
プラトーはこんなふうに交換条件を提示する。
本来、ふたりは海技学校の同期生にして親友なのだ。
「隊長、じっとしていて下さいね」
そう言うと、アドミータスは手早く制服を整え、
部下たちが掻き集めたらしい装飾品を少しばかり吟味した上で
慣れた手つきで服を飾ってゆく。
「どう?」
僅かな時間で着付けを終えたアドミータスは、
感心したように見守っている軍員たちにプラトーを向き直らせた。
「いいっすね」
「隊長、お洒落な感じがしますよ」
部下たちの感嘆の声を聞いて、プラトーは満更でもなさそうだ。
アドミータスも数歩退いて長身の上官かつ親友の姿を眺める。
「うん、悪くない」
海軍随一の長身を誇るプラトーは、その立派な体格もあって
きっちりをした格好をすればなかなか見栄えがする。
満足そうに目を細め、アドミータスは微かな笑みを浮かべた。
「さあ、行きましょう」
「そうだな、急ごう」
部下から手渡された装飾品の多い鞘に納まった剣を佩いたプラトーは、
そこにいる部下たちに行ってくると告げて扉を押した。
すごい勢いで開いた扉が反動で戻ってくる前に
アドミータスもさっと部屋の外に出た。
「助かったぞ、アド」
「たまにはこういうこともないとね」
腐れ縁の隊長と副官は辛うじて走ってはいないというくらいの早足で
騒がしく階段を下って隊舎を後にした。
「みんなどんな風に洒落てくるんだろうな」
「さあ。でも、プラトーほど見栄えのする軍員はそういないはずだ」
「頭数増やすための要員だから目立つのは困るぞ」
指定場所に向かう正装のプラトーとアドミータスを
すれ違う軍員たちが振り向いて見てゆく。
昼の太陽が銀細工を煌めかせ、風が飾り布を靡かせる。
女性軍員たちが零した「綺麗ね」という言葉に、
ふたりはほんの気持ちを高揚させつつほんの少し胸を張った。
剛毅で怪力、巨躯だけれど、繊細な心遣いができるプラトーと、
お馬鹿でぼんやりして見えるけれど、それなりに品の良いアドミータス。
お互いの呼吸がよく分かっている仲好しさん。