あの日
1 始まりの嵐
強い風雨に容赦なく煽られて、夜の海は大荒れだった。
船は大きく揺れ、航海に慣れているはずの船員たちも些か船酔い気味だ。
「錨を下ろして正解だ。明日いっぱいくらいはこの状態だろう」
「動けないとなると食糧がやや心配ですね。
もともと予定からは遅れ気味ですし、これで更に遅れてしまいそうです」
「まあ仕方ないな、この嵐じゃ下手に動くとかえって危険だ。
いざとなれば非常庫にいくらか食糧はあるし」
話をしているふたりの隊員の片方はこの船の隊長で、名をフェンリルという。
堅実に仕事をこなし、海賊討伐では多くの功績を立てている壮年の男性だ。
もう一方は若い士官学生のギルバート。
隊長補佐官として海上研修のために船に乗っている。
「庫の場所は以前教えてあるし大丈夫だな?よし、じゃあ俺は休むから後は頼んだ。
何かあったらランパスに言うといい。急ぎなら俺を起こしていいからな」
「畏まりました」
ギルバートが敬礼をすると、隊長はこきんと首を鳴らしながら扉の向こうに消えた。
既にほとんどの乗組員たちが寝静まって、船室は寂しいほど静かだ。
轟々たる風の音と、雨が激しく甲板を叩く音、そして高い波が船腹を打つ音。
煩い程の外の音が、返って船内の静けさを際立たせている。
「わっかんない!」
唐突に声が風と水の音を打ち消すように響いた。
眠っている隊員たちを気遣ってか、いつもよりは抑えた声だがそれでもよく聞こえる。
「うるさいぞ、コリコ。わかんないって言ったところで解決しないだろうが」
「教えてって言ったって教えてくれないじゃん」
「俺は教えない主義なんだ。自分でやってこそ力になる」
この応酬はほぼ毎夜のことと言ってよい。
呻きながら課題に取り組んでいるのは、やはり学生で整備士補佐のコリコパット。
海上研修を行う学年ではないが、その腕前と海に対する豊富な知識を買われて船に乗っている。
海上研修中は授業に出られないから課題が溜まるのだ。
言い争いの相手は参謀官のカーバケッティ。
この船随一の変わり者で、根は真面目だが発想が奇抜で作戦も一風変わっている。
参謀としてはあまりに使い勝手が悪いので、最近は食料調達兼調理係に任命されている。
「たまには教えてあげたら?」
苦笑しながら口を挟んだのは、小柄な通信員のカッサンドラ。
聡明な女性で、周りからの信頼も厚い。
「資料ならいくらでも提供するぞ」
手元の本のページを繰りながらカーバケッティは目も上げずに言った。
この少々風貌の変わった参謀は、趣味が読書だという書痴でもある。
読んでいる本は小難しい兵法書や歴史書の類がほとんどで、異国の物も多い。
「カーバに本貸してもらったって絶対読めないし!面白くないし!
カッサ、これ教えてほしいんだけど。いくら考えても分かんないんだ」
「そうね、いいわよ。どこまで教えられるかはわからないけど」
そう言うと、カッサンドラは航海日誌の整理を切り上げてコリコパットの隣に座った。
それを見るとはなしに見ていたギルバートは、思い出したようにカーバケッティに目を向けた。
「カーバさん、明日は早番でしたよね?そろそろお休み下さい」
「うん?もう遅いか。ならキリのいいとこまで読んだら寝るとしよう。
今夜はギルバートが見張りか?カッサ、は通信だな」
「僕は見張りじゃなくて夜番なだけですよ。それに、この雨じゃ外に出ても危険です。
今日の見張りはランパスとディミですが、ふたりとも操舵室でしょう」
ランパスキャットは参謀本部付きの精鋭戦闘員で、お雇い操舵手として船に乗っている。
雇われているわりに操舵の腕は微妙だが、戦闘の活躍ぶりは驚異的だ。
ディミータは女性の軍医で、稀に見る美貌の持ち主。
滅多に笑わない上に荒治療で恐れられるが、医者としての腕は抜群。
操舵室はこの船室と違って甲板と同じ高さにあり、見張り番の待機場所にも使えるので
雨の時など見張りの者たちは大抵そこに詰めている。
「ここ最近ランパスさんが調子悪そうで心配なんですが。あまり食べてくれませんし。
こんな天気でさえなければ僕も甲板に立つつもりだったんですけど」
「普段が食べる量多すぎなんだ。まあ、ディミがいるから大丈夫だろうさ」
カーバケッティはぱふんと本を閉じて、ぐっと伸びをした。
その時、きしんだ音を立てて部屋の扉が開かれた。
途端、雨の音が一段と大きく耳につく。
「カッサ、通信頼む」
ずぶ濡れで顔を覗かせたのは、操舵室にいるはずのランパスキャットだった。
「何かあったの?」
「ああ、はっきりとはわからないが軍船がいるようだ。停まっていないように見える」
「この雨で?わかったわ、すぐ行く」
カッサンドラは通信灯を手にすると、ランパスキャットと共に雨の甲板に出ていく。
「おかしいですね」
「ああ」
海が荒れているときは状況を適切に判断して船を停め、みだりに危険を冒してはいけない。
海軍の約束事だ。
この船の隊長フェンリルも、それに従って船を停めた。
下手に動けば転覆の危険性もあるし、波に攫われたっておかしくない。
だから、この叩きつけるような風雨の中で航海している軍船があることが不可解なのだ。
「僕も甲板に上がります。カーバさん、ここを頼みます」
言うが早いか、ギルバートも雨の中を甲板へと急いだ。
「どうです?」
「あら、ギルバートも来たのね。軍船だと思うわ。灯火は間違いなく軍のものよ」
カッサンドラが、降りしきる雨の向こうにあるぼんやりした光に目を凝らしている。
黒い夜の海、加えて月明かりもないこの状況では船の影はとらえられない。
暫くその方向を睨みつけるように見ていたランパスキャットが、突然びくりとした。
「どうしました?」
「まずい、相当近い。このままじゃ間違いなくぶつかるぞ!」
夜の操舵ばかり担当しているせいか、ランパスキャットは少々夜目が利く。
カッサンドラやギルバートにはまだ何もわからない。
「ギルバート、全員起こすんだ。急げ!カッサはそこから離れろ!」
ギルバートは揺れる船の甲板を全速力で駆け抜け、操舵室の伝声管を掴んだ。
そこにいたディミータが何事かと目を丸くしている。
「緊急事態!衝突の可能性あり!全員衝撃に備えよ!」
大声を張り上げると、伝声管がびりびりと震える。
この嵐の中を航海できる軍船があるはずはない。
相当な乗り手でないと、波と風を読み切って船を進めるのは不可能だ。
「何があったの?」
「海賊の可能性があります。ディミータさん、そこに掴まって!」
ディミータがギルバートの言葉に従ったその瞬間、
突き上げるような衝撃と、ばきばきという木の割れる大きな音が響き渡った。
ギルバートは思い切り床に投げ出され、あちこちをぶつけた。
頭をぶつけたせいか暫しぼんやりとしていた意識は、
どたどたというたくさんの足音と騒がしい怒鳴り声によってすぐ覚醒した。
「くそっ」
腰に帯びていた剣を抜き、ギルバートは甲板に飛び出した。
隊員たちの姿は見当たらない。
伝達から衝突まで時間が無さすぎた。
早く皆のところへ行かねばならない。
そう思って駈け出したギルバートの前に何者かが立ちふさがった。
「へへっ、若い兄ちゃんだな」
「ただじゃあ行かせらんねえな。通行料は腕一本か脚一本か、それとも首かい?」
ひひひ、と下品に笑いあう海賊は、いかにも修羅場を経験していそうな猛者のようだ。
そこここに傷痕がある。
首など取られるわけにいかない。ギルバートは迷わず剣を構えた。
「死ぬんじゃないわよ、ギルバート!」
背後から声がした。
ディミータだ。
「そっちこそ!」
精一杯叫ぶと、ギルバートは相手に切りかかった。
巧みに相手の刃をかわしながら、仕掛けられそうなら怯まず攻撃に打って出る。
二対一だ、戦い続ければ意気も上がってくる。
自分の呼吸の音と、相手の笑い声、どこかから聞こえる怒鳴り声と悲鳴、剣がぶつかる音、
何かが崩れるような音と絶え間ない足音。
誰がどこでどうしているのか全く分からない。
このまま戦い続けてどうなるのかもわからない、だがくたばるわけにはいかない。
そのような状況下で、ギルバートはひたすら剣を振るった。
「おい、もういいぜ。大方運んだってよ」
どれくらい戦っていたのか、大きな箱を抱えた海賊の仲間らしい壮年の男がやってきて言った。
「そうですかい。よう、兄ちゃん。あんたなかなか良い腕してんじゃねえか。
この船はそのうち沈んじまうし、俺らと一緒に来ねえかい?」
戦っていた海賊のひとりが、ニイっと犬歯をむき出しにして言う。
「けっこうですよ、お構いなく」
肩で息をしながら、ギルバートは吐き捨てるように言った。
「そいつぁ残念だ。あれ、アニキ。火は付けねえんですかい?」
「バカ野郎、この雨で火がつくかってんだ。それに、あんだけ派手にぶつけたんだ。
放っておいたところでそのうち沈んじまうってもんだ」
はっはっはと豪快に笑いながら、海賊たちはさっさと引き上げていく。
騒々しい声と足音が消えると、やはり雨と風の音ばかりが残った。
「ギルバート、大丈夫?怪我は?」
海賊たちが去って茫然と立ち尽くしていたギルバートは、ディミータの声で我に返った。
互いに無事であることを確認し、ギルバートは少し肩の力を抜いた。
ディミータは類まれな美貌の持ち主だ。
大抵の男たちが思わず振り返るほどに。
あの海賊たちに攫われなかったのは運が良かったと言うべきだろう。
「ご無事でなにより。ああ、僕は大丈夫です。どれも大した傷ではありません」
「後で手当するわ。他に誰か甲板にいるの?」
「ランパスさんとカッサンドラさんがいたはずですが」
甲板の方から声は聞こえない。
ディミータは眉をひそめ、それからすっと息を吸った。
「ランパス!カッサ!大丈夫?」
雨風が強く、向こうまで声が届いたかどうかわからない。
ただ、向こうまでいってふたりの無事を確かめるのがギルバートにもディミータにも少し怖かった。
「ディミ?無事なのね、ギルバートは?」
カッサンドラの声が返ってきた。
ディミータとギルバートは思わず顔を見合わせた。
「僕は大丈夫です、そちらはどうです?」
「ギルバート、動けるならこっちに来て」
その声にギルバートが反応するより一瞬早く、ディミータが駈け出していた。
ギルバートも彼女の後ろを追いかける。
「カッサ、無事で良かったわ。ランパスは?」
「ディミもね。ランパスもたぶん、大丈夫。手当てしてあげて」
カッサンドラは船尾のあたりに立っていた。
ランパスキャットは壊れかけた欄干に凭れかかって動かない。
「ランパス、どこか怪我しているの?」
そうディミータが問いかけたその時、船室からコリコパットが飛び出してきた。
「ディミ!カーバを助けて!」
ただならぬ状況を感じとって、ディミータは険しい顔つきで頷いた。
「先に行くわ、みんなすぐに部屋に入って。雨は体力を奪うわ」
「わかりました」
ギルバートの返事を聞く間もなく、ディミータはコリコパットと共に船室へと降りてゆく。
その後姿を見送り、ギルバートは重く暗い空を仰いだ。
酷く疲れた、そんな気がした。
「中に入りましょう。この雨はやはり、少々傷に堪えます」
「そうね。ランパス、行きましょう」
カッサンドラに促され、ランパスキャットは緩慢な動作で船室へと向かう。
その後ろについて歩きながら、ギルバートは辺りの気配を窺った。
突然の襲撃だ、いったいどれだけの隊員が対応できたのだろう。