あの日
4 限界
まだ暗いうちから甲板に上がっていたギルバートは、
東の方の空が僅かに白んできたことで今日は確かに晴れるのだろうとぼんやりと考えた。
コリコパットの読みはやはり正しい。
しかし、海はまだ時化ていて波も高い。船も断続的に大きな揺れに見舞われている。
欄干近くに立つのは少々危険だと判断し、帆柱に寄り掛かるようにして信号を送る。
夜が明ければ信号灯は使えないが、それまではひたすら同じ動作を繰り返すのみ。
しかし、途絶えない筈の動作ががたがたという音と足音に途切れた。
コリコパットが甲板に駆け上がってきたらしい。
「どうしました?」
「すみません、ちょっと来てもらえますか?」
戸惑っているようなコリコパットの様子を怪訝に思いながら、
ギルバートは信号灯を柱に掛けて船室へと戻って行った。
誰かの容体が急変したのだろうか、と悪い方向へ考えが行く。
「何かありましたか?」
船室の中は、夜明け前にそこを出た時と何ら変わらない。
カーバケッティは目を覚まさないまま、ずっと壁際に寝かされている。
眠っていると言えるような状態でもない。息があるだけでぴくりとも動かないのだから。
カッサンドラは火の近くで小さくなって眠っていた。
「ああ、ランパスキャットさん、起きられましたか。具合はいかがです?」
「来るな」
座っている男のもとに歩み寄ろうとしたギルバートは、低く鋭い声に思わず足を止めた。
ランパスキャットの冷たく蒼い目に宿る憎悪の鈍い光を認め、
それ以上は近づけずに少し離れて座っているディミータの方に視線を巡らせた。
「そういうこと。傷の具合を診てあげたいんだけど、この調子だから困っているの」
ディミータは重い息を吐いて眉を曇らせている。
「彼も過去に色々あってね、たぶん極限状態だと記憶が混じるんでしょうね。
でも、傷は放っておけないでしょう。何とかならない?」
「何とか、ですか・・・」
起き上がってはいるが具合はこの上なく悪そうだ。
応急処置を手伝ったギルバートには怪我の大きさもよく分かっている。
ひとまず、宥めすかしている時間すら惜しいことだけは確実だった。
「あまり気は進みませんが、もう一度眠っていただきましょうか」
「もう一度眠っていただくって、どうするつもり?」
「意識を奪います。大丈夫、技は仕込まれていますから」
ディミータは、ギルバートとランパスキャットに交互に視線をやって、仕方ないわねと呟いた。
「気絶してくれたら治療もできるし。でも、あんまり身体に負担になるようなら」
「手加減はします。もしかしたら吐いちゃうかもしれませんが、せいぜいその程度ですよ」
ギルバートが言うと、ディミータは小さく頷いた。
コリコパットは不安そうに成り行きを見守っている。
「では」
胸の前で両手を合わせて呼吸を整え、ギルバートは素早くランパスキャットに近づく。
その次の瞬間には、ランパスキャットの身体はどさりと床に崩れ落ちていた。
何があったのかわからずに、ディミータとコリコパットは目を瞠ったまま固まっている。
「・・・何をしたの?」
「手刀です。本来は暗殺術に使う技なので、強くすると頸が折れます」
気を抜けば襲われる山間部で暮らすギルバートの部族は、
男女を問わず幼いころから護身術を身に付け、稼業のために暗殺術も仕込まれる。
ギルバートの技の精度は同じ年頃の仲間内でも抜きんでていた。
「涼しい顔して怖いこと言うのね」
苦笑交じりにディミータが呟いた。
「ディミータさん、コリコ。僕はもう少し甲板にいます。
ランパスさんは数時間くらいそのままだと思いますが、何かあればまた呼んで下さい。」
「お疲れ様、無理はしないで」
ディミータの声を聞きながら、ギルバートは甲板に戻った。
鉛色の空が広がる向こうに白い光が見える。
あと数時間もすれば、久々に日の光を浴びることができるかもしれない。
太陽が出るということはそれだけ気温が上がるということで、それはそれで辛い。
でも、どんよりとした雲に覆われていた時が終わるというだけで少し元気になれそうだ。
そんな風に思いながら、ギルバートは少しでも光に近づこうとするかのように欄干に近寄る。
その刹那、まだ高い波にあおられて船体が大きく傾いだ。
何とか転ばぬように踏ん張る。
時が経てば嵐は去ってゆく。それでも、厳しい状況は決して変わっていない。
「少し出てくるわ」
雲が切れ始めたのを見てからギルバートが船室に戻ると、カッサンドラが出ていこうとする。
「カッサンドラさん、あまり顔色が優れないですよ。体調が良くないのでは?」
「それを言ったら、みんな良くないでしょう?貴方たちもこう思っているはずよ。
自分はまだ頑張れるって。私もそう。早く帰りたいから頑張りたいの。
私を庇ってランパスは傷ついたのよ。もうこれ以上、誰も失いたくない」
カッサンドラの意志は強い。
しかし、彼女の微笑みは痛々しいほどに力がなかった。足許もやや覚束ない。
だからと言って、ギルバートが甲板に立ち続けられるわけもない。
「わかりました、気を付けてくださいね。まだ時化てますし、気温が上がってきましたから。
なるべく屋根の下に入っておくようにしてください」
「了解」
短く応えて、カッサンドラは甲板へと上がって行く。
少しふらついているその後姿を見送り、ギルバートはようやく床に座った。
気温も上がっている。扉を開ければ光も入ってくる。
もう火は要らないだろう、そう判断してギルバートは小さく燃えていた炎を掻き消した。
皆が眠っている傍に身体を横たえれば、急激に疲労と眠気が襲ってくる。
それに抗うことはせず、ギルバートは目を閉じた。
今日こそ帰れる。
そう自分に言い聞かせたのを最後に、意識はいったんそこで途切れた。
揺さぶられているのを感じて目を覚ましたのは昼過ぎだった。
重い瞼を無理やり持ち上げ何度か瞬きをする。
完全に晴れたのだろう、開け放たれた扉の向こうは随分明るい。
身体を起こすと、目の前にコリコパットの顔があった。
「起こしちゃってすみません」
「いえ、かまいません。カッサンドラさんは戻ってますか?」
「そのことなんですが・・・」
コリコパットは眉を曇らせ、すっと目を横に向けた。
その視線を追って、ギルバートもそちらに目を向ける。
「カッサ、もう限界だったみたいです。さっき戻ってきてそのまま倒れてしまって」
「そうですか。ゆっくり休んでもらいましょう。大丈夫、僕がいます」
励ますようにコリコパットの肩に手を置いて、ギルバートは微かに笑みを浮かべた。
カッサンドラが倒れてしまえば、通信業務を行えるのはギルバートしかいない。
交替でSOS信号を出すことができないのは少し辛い。
「ディミータさん、カッサンドラさんはどうです?疲労が原因でしょうか」
「もちろんそれもあるわ。栄養不足もあるかもしれないわね。
でも、最大の原因は雨じゃないかしら。熱が高いの、ずっと濡れていたせいだと思う」
カッサンドラの額に手を当ててディミータが言った。
雨にあたって体力が奪われたところにもってきて食糧がない。
替えの服なんてもちろんあるはずもない。
「早く助けが来てくれるといいんだけど。今は休ませてあげることしかできないわね」
「そうですね」
頷いてギルバートは立ち上がった。
身体は重い。疲労はどんどん積み重なっていく。
「甲板に出ます。これ、一応持っていきますね」
ギルバートが手に取ったのは幾種類かの通信旗。
普段この船室に置いてあるものではないから、操舵室にあったのだろう。
「よくわからない旗もありますね・・・」
「とりあえずSOS旗出しておけばいいんじゃないの?」
「SOS旗は既に出してあります。まあ、何とでもなります」
ともかくも、そこにあった全ての通信旗を持ってギルバートは扉に向かった。
「あ、俺も行きます」
コリコパットが整備道具を手にギルバートを追う。
「気をつけてね、ギルバート。コリコも、暑いから小まめに休みなさいよ。
それから、さっきランパスが目を覚ましたわ」
「もう気づきましたか。何かしら影響はありましたか?」
「大丈夫だったみたい。ありがとう。ほんの少し、彼を楽にしてあげられたわ」
それは良かった、そう言ってギルバートは微笑んだ。
それぞれの限界は近付きつつある。
それでもたぶん、生きて帰るためにできることはある。
ゆっくりと甲板に出る階段を上りながら、ギルバートは己にそう言い聞かせた。