高貴な血族
2 逃亡者
満月が真南に掛かろうとする深夜。
生温い微風が屋敷を通り抜けてゆく。
履き物を脱いで腰に結わえ、青年は奥まった部屋を目指していた。
回廊は月明かりで青白く染まり、闇色のクロークを纏った青年は用心深く影の中を歩いて行く。
痛いほどに緊張して高鳴る彼自身の鼓動が、回廊に響いているのではないかと青年はふと思った。
それほどまでに静まりかえった屋敷には、誰の息遣いも聞こえない。
それもそうかと青年は胸の内で呟いた。
ここは誰もが立ち入れるような場所ではないのだ。
家の者であっても、この回廊に踏み入れられる者は限られている。
ましてや、下仕えの者や召使いたちなどが勝手に入るなど言語道断。
ラム・タム・タガー、ここではオニクスと名乗っていたが、彼は貴族の出身ではなかった。
とはいえ、西域九貴族が事実上の自治権を持って支配しているこの豊かな地域で生まれ育ち、
貴族の娘が嫁いだ商家の出身であったから傍系とは言え貴族の血は流れていた。
その縁もあって、彼は西域九貴族でも第二の勢力を持つエルフィンストーン家に雇われた。
そして彼が命じられたことはと言えば、筆頭家に取り入って伝説に纏わる宝石を持ち出すことであった。
その宝石を持つことが、古い時代に九つの家に別れた
かつての執政家の中で筆頭の地位に就くことになるのだ。
その宝石を手に入れた家にこそ多くの民が従うのだから。
彼の雇い主の思惑通り、ラム・タム・タガーは
西域九貴族筆頭のフィギス家にあっさりと入り込むことに成功した。
というのも、彼は裕福な商家の子であり礼儀も弁えていればお世辞も大得意ときている。
心にあることないこと、全て耳あたりの良い言葉に変えることはわけないのだ。
筆頭家の主に言わせれば、オニクスはさほど賢そうではないが気は利くから召使いにぴったりなのだ。
おまけに、召使いの格好をしてすら目を引くほどの美形ときている。
主の奥方やその腰元たちにも大層気に入られたというわけだ。
フィギス家に忍び込んで数年。
その間、買い出しに行くついでに本当の雇い主であるエルフィンストーン家中の者に接触するなど
淡々とスパイの仕事をこなし続けたラム・タム・タガーは、ついに宝石の在処を突き止めることに成功した。
そうまでして己が使命を遂行したのはエルフィンストーン家への忠義というわけでもなく、
彼にとってスパイ行為そのものがただ楽しかったからだ。
そしてこの夜、ラム・タム・タガー青年は足かけ云年という大仕事の集大成として、
フィギス家の家宝にして西域九貴族の宗主権の権化とも言える宝石を盗み出そうとしていた。
生来の器用さで中庭に面した窓の鍵をいとも簡単に外した後は、履き物を脱いでするりと中に忍び込めた。
外から来る者に対しては衛士がしっかりと見張っているからそうそう忍び込むことはできないが、
内側からの侵入者に対しては脆いものである。
足音を立てずにできるだけ素早く移動してゆく。
自身の呼吸の音すら憚られるほどに静かなことは先刻から変わりはない。
回廊の奥にあるのはたった一部屋。
この部屋には錠がぶら下がっているが、そこに付いている回転板を規則に従って回せば開くのだ。
どの方向に何度回せばよいか、それくらいの情報は既に仕入れ済みだった。
僅かな音も立てないままに、ラム・タム・タガーは宝石の置かれた部屋まで辿り着いた。
宝石は探すまでもなく、部屋の真ん中に置かれていた。
真鍮で作られた猫足の華奢な台に絹のクロスが敷かれ、その上にある美しい石。
半球のガラスケースに閉じ込められてなお、月光を柔らかく受け止める空と海の色の宝石。
スパイの青年はその小さな石に魅入られたように立ち尽くした。
そして、ある種の想いが彼の中に俄に沸き上がってきたのを感じていた。
この石が欲しい。
「・・・オレの、ものだ」
喉の奥で呟いてみれば、もう歯止めは利かなかった。
この石は自分のものだと、ラム・タム・タガーは確信していた。
この石に呼ばれてここに来たのだとさえ思うくらいに宝石への執着が生まれ、抗うことができないのだ。
「オレのものだ!」
ラム・タム・タガーは手にしていた真鍮製のメイスを振り下ろして絶叫した。
決して薄くないはずのガラスは粉微塵と砕け、宝石は久方ぶりに娑婆の風に晒された。
敷かれていた絹のクロスごと宝石を掴み上げ、そっと手を開けば
ラム・タム・タガーの掌の上で青い石は月の光をその中に映して控えめに煌めいている。
うっとりとその光に見とれていた青年スパイは、たくさんの近づいてくる足音で我に返った。
「気付いたか」
軽く舌打ちをして、青年はクロスに包んだ宝石を胸の内側にしまい込んだ。
逃走経路を脳裏に浮かべてすぐに駆け出す。
しかし、予定していた経路には既に武装した衛士が立ちふさがっていた。
身を翻してすぐに別の経路へと脚を向ける。
スパイとして潜り込んで何年も経つのだ、屋敷の隠し通路ですら熟知していたラム・タム・タガーは
中庭に降り立ってさっと履き物に脚を突っ込むと、疾風の如く裏口から厨房へ飛び込んだ。
そこに置いてあったパンと小さな酒壺をひっつかんで雑嚢に押し込み、屋敷を突っ切って外へ出る。
夜とは言え満月で周りは充分に見える。
黒っぽいクロークも灯りの少ない闇夜ならば役に立っただろうが、今はあまり意味をなさない。
それは、これから逃走者となる青年には不利な状況と言えた。
「あっちだ!」
「いたぞ、捕まえろ!」
思いがけず近くから声が聞こえてきて、ラム・タム・タガーは必死でその場から離れようと駆けた。
全速力で走るにはクロークは邪魔でしかなかったが、フード付きのこの衣装だけが
周りから顔を隠してくれる唯一の隠れ蓑になることは疑いようもなく捨てることができない。
広大な屋敷の敷地を抜けないうちに、屋敷に明かりが灯り始めた。
青年は海に向かって駆けた。
エルフィンストーン家の屋敷は反対側だ。
しかし、衛兵に追われたから仕方なく海に向かったのではない。
「オレの、ものだ」
つんのめりそうになりながら、青年は胸の上に手を置いて宝石の硬さに笑みすら浮かべた。
その笑みも、門の横から躍り出てきた衛士の姿を目にした瞬間にさすがに消えた。
「そこの侵入者!止まれ!」
「抵抗すれば容赦なく斬る!」
止まれと言われて止まるのならばわざわざこんな危険な盗みをするわけがない。
ラム・タム・タガーは腰に抜き身で提げていたロングナイフを抜いて右手に持った。
反対の手には鞘から抜いたショートソードを持つ。
召使いとあろうもの、いざという時には貴族たちを守らなければならないこともある。
彼は剣の鍛錬が好きではなかったが、筋が良かったのか両手で様々な長さの刀剣を扱うことができた。
「アンタらこそ痛い目に遭いたくなかったら道をあけろ!」
もはや向かっていくしか逃げ道はなかった。
疾走する青年の啖呵に僅かに怯んだ衛士は、しかしさすがに簡単に逃亡者を行かせはしない。
衛士たちの装備は固い皮で作った防護服という簡単なものでしかなかったが、
片や青年は風に舞うクロークと細身で短い剣だけという貧弱な装備でしかない。
「オレの邪魔をするな!文句があるならエルフィンストーンの小太り宗主に言いやがれ!」
「貴様、エルフィンストーンの差し金か!」
怒鳴る衛士の腕を切り裂き、背後に迫った若い衛士の急所を振り向きざまに蹴り上げて、
卑劣だと喚く仲間らを無視してラム・タム・タガーは門を突破した。
海までは真っ直ぐ行っても十数マイルある。
暫くは筆頭家であるフィギス家の領地が続き、その向こうはフィギスと仲の良いアーウィン家の領地だ。
一番近い港はさらに向こうのオールポート家の領地にある。
「捕まえられるなら捕まえてみろってんだ」
門の外で立ち止まり、高台になっているそこから目指す港の方に目を向ける。
どんなに月が明るくても、さすがに視界は暗く遠くまでは見渡すことができない。
ラム・タム・タガーは港に行ったことすらなかった。
陽の光に輝く海を遠くから眺めるだけで。
それなのに海に惹かれるのは、抱え込んだ石が海を目指せと囁いているように思われたからだ。
ショートソードは鞘にしまい、ロングナイフはそのまま手に持っておくことにして、
雑嚢に常備しているロープをベルト代わりにしてクロークを腰のあたりで留めると、
後は振り返りもせずに夜の街へと駆け下りていった。
領地中に逃亡者の存在が知れ渡る前に、できるだけ遠くに行かなければならなかった。
ラム・タム・タガーが駆け出してすぐに鐘が響き渡った。
それは彼も聞いたことのないような鳴らし方で、無理に眠りから覚まされた領地に喧噪が広がってゆく。
あちらこちらから憲兵が姿を見せ、ものものしい雰囲気が街を包み始める。
「くっそ、マズイ」
憲兵の姿を認めて裏路地に入り込み、くねくねと迂回しながらしか進めない。
焦るばかりで事態はまったく良くならない。
町にある目を避けながら、ラム・タム・タガーは夜明けまで走り続けた。
日が昇れば暑くて走り続けるわけにはいかず、夜通し起きていた所為で疲労は溜まる一方だった。
朝を迎え、さすがにこれ以上は動けないと身体が訴えだした頃、
彼は漸く脚を留めて寝られる場所を探し身を横たえた。
そこは老夫婦が住む家の裏庭にある用具倉庫で、庭作業が好きな家主が一度用具を鳥に来た。
無論、家主は見知らぬ男が藁を寝台代わりに寝入っていることに気付いていた。
寝ている男が綺麗な格好をしていればそれなりに訝しんだかもしれないが、
そこにいたのは泥まみれのマントか何かを纏った疲れ切った男だったのでそのままそっとしておいたのだ。
ラム・タム・タガーとて、入ってきた老翁に気付かなかったわけではなく
冷や汗をかきながらどうなるものかと狸寝入りを続けていたのである。
疲れているのだな、と呟きながら出て行った名も知らぬ老翁に彼が感謝したのは言うまでもない。
昼になって、パン一かけを一口の酒で流し込んでから、ラム・タム・タガーは逃避行を再開した。
今度は走ることをせずに、薄暗い路地を選んで歩いて行った。
再び夜の帳が下りると、敢えてがやがやと五月蠅い盛り場をいかにも店を物色するかの如く通り過ぎ、
家々の影になる道に入るとできる限りの早さで駆け抜けた。
真っ直ぐに進めずに蛇行する逃避行も三度目の昼を迎えた頃、
さすがに疲れ切ったラム・タム・タガーは寝床にした薄汚い小屋の扉から吹き込む風に
嗅いだことのない匂いがまじっているのに気付いて立ち上がった。
前の日の夕方頃、アーウィンの兵士に気付かれて必死に逃げ
そのまま寝込んでしまったから気付かなかったが、
小屋の外に出ればさざめく海の音が聞こえてくる。
小さい頃、木桶に入れた大豆を揺すって遊んでいた時に、
客として来ていた男が「まるで波の音のようだね」と言っていたことがあった。
その、音に似たものがラム・タム・タガーの耳に幽かに届くのだ。
「・・・海か!」
痛む脚を引き摺って、海に惹かれるように歩き始めた。
歩みを進めていけば、僅かずつにでも波の音が大きく近くなってくる。
すっかり薄汚れた格好で、彼は残ったパンと酒を嚥下して港を目指した。
「そうだ、船に乗ろう」
聞いたことがあった。
船に乗って遠くまで行き、広い海を渡ってこことは全く違う物が手に入る場所にいくのだ。
ラム・タム・タガーは海を渡るような船を知らない。
精々、川を渡る小舟を見たことがある程度だ。
憧憬にも似た想いを持って、青年は能うる限りのスピードで道を行く。
暑さと疲労でふらふらしていた彼は、水飲み場で立ち止まって一息吐いた。
あまりの暑さに我慢できずにフードを跳ね上げた瞬間、通りがかったらしい港町の衛士が叫んだ。
「いたぞ!エルフィンストーンのスパイだ!」
ラム・タム・タガーはぎょっとして辺りを見回した。
衛士の数は多くないが、それぞれが手にしている反り身の刀が夕日を反射して不気味に輝いている。
「捕まえろ、賞金首だ!」
もう賞金が掛けられているのかと、暢気にも青年は感心してしまった。
背後から迫る気配にはっとして鳩尾に拳を叩き込み、ショートソードを抜いたが
賞金が掛けられているとなれば、無関係な町の者たちすら敵と思うに越したことはない。
目の前にいた衛士の刀を跳ね飛ばして、ラム・タム・タガーは全力で駆け出した。
目指すのは港に見えている大きな船だ。
道行く町の衆にぶつかり、突き飛ばし、襲いかかってくる武器を避け、ひたすらに船に向かった。
そこに行けば何とかなると、その時青年はそう思い込んでいたし、そう思う以外に望みはなかったのだ。
「逃がすな!」
「だが追うのは危険だぞ!奴が来ている!」
「莫迦を言うな!殺してでも引っ張ってこいという命令だ!」
衛兵や憲兵が集まってくる。
船はすぐそこだ。青年の身体は限界に近づいていたが、まだ止まってはいなかった。
石造りの岸壁から船に伸びる梯子が見え、ラム・タム・タガーは歯を食いしばった。
息は上がり、脚は重りをつけているかのように動かない。
「行かせるか!」
「うるせえ!」
梯子の前で、青年は憲兵の一団に追いつかれてしまった。
目の前にいる男たちをなぎ倒せばそれでいいのだ、とラム・タム・タガーは腹を括った。
今までは精々相手を殴り、必要であれば斬って怪我をさせる程度だったが、
もうそれだけでは道を開くことができないとわかったのだ。
「死にたくなけりゃあどけ!」
言うなり、ラム・タム・タガーは正面にいた憲兵の喉を突き刺した。
断末魔の痙攣が怖気となって青年を震わせたが、それもほんの一瞬のことだった。
彼は勢いをつけて梯子に向かい脚を掛けた。
憲兵たちが喚きながら向かってくるのをショートソードで防ぎながら次の一歩を踏み出す。
その時、ショートソードを手にしていた左の手に激痛が走った。
それでも痛みを無視して梯子を駆け上がる。
「オレの、勝ちだ」
船の縁に取り付いて、ラム・タム・タガーは梯子を蹴り落とした。
騒いでいる憲兵や衛士たちの声が遠くなっていくのを感じながら、青年の身体ゆっくりと傾いてゆく。
そしてそのまま、彼は意識を手放した。
運び込まれる酒や食料、金目の物を選別していたマンカストラップのところに
まだ若い乗組員がぱたぱたと駆けてきた。
「どうした?」
「梯子が落ちた音がしたんで見に行ったら知らない男が倒れてるんでどうしたものかと」
「男が倒れてる?死んでるなら海に捨てておけばいい」
言いつつも、マンカストラップは酒樽を置いて立ち上がった。
そろそろ外の様子も気になっていたところだ。
「どこだ?」
「フォアの近くです。ついさっきまであんな男はいなかったんですけど」
マンカストラップが甲板に上がると、確かにフォアマストの近くに何かが転がっていた。
近づいてみれば、それが物ではなく薄汚れた男だということがわかる。
黒っぽいクロークを纏っているが、それすら埃と泥まみれだった。
「生きているのか?お前の話からすると、こいつが梯子を落としたんだろう?」
「見ていませんがそうでしょう。少なくとも、ついさっきまでは生きていたってことになりますね」
「わざわざこの船に来ることもないだろうに」
僅かな哀れみを込めて呟いたマンカストラップは、反応の無い男の傍にしゃがんだ。
無造作に口許に手を伸ばせば、生きている者の温もりと呼吸が感じられる。
世話焼きが性分になっているマンカストラップにはどうにも放っておくことができずに、
怪我などは無いかと見ず知らずの男のクロークをはぎ取った。
「うわ・・・」
思わず声を上げたのは年若い乗組員の方で、マンカストラップは短く呻いただけだった。
「こないだ捕まえた医者をここへ連れてきてくれ。あと、適当に他の奴に声掛けて梯子を掛け直せ」
「はい!」
元気よく返事をして乗組員は走っていく。
マンカストラップは首に引っかけていたバンダナを取って倒れている男の左腕をきつく縛り上げた。
クロークの下になって傍目にはわからなかったが、そこにはちょっとした血溜まりができている。
そこに不意に影が落ちてきた。
「こりゃあ死ぬな。荷物になるんだ、今のうちに捨てたらどうだ?」
ちらりとマンカストラップが視線を向けた先には、逆光で黒い影になった偉丈夫が袋を担いで立っている。
「俺の好きなようにするさ、グランブスキン。それにこの男は助ける価値がある」
「価値ねえ。そんな傷モノ」
「確かに傷モノだが、こいつは恐ろしく綺麗な顔だ。男だが、好きものには充分売れる」
「はっ、お前が拾った奴を売るなんてなぁ考えられねえな。
お優しいのは性分だろうけどな。まあ、手に余ったらオレに回せばいい。良い金にしてやるぜ」
グランブスキンは豪快に笑いながら船室に下りていった。
短気で豪胆なところはグロールタイガーにも劣らないグランブスキンの判断基準は単純だ。
役に立つか立たないか。金になるかならないか。
「そいつ、腕は悪くねえ」
また誰かがやって来た。
振り向かなくても、その気配だけでマンカストラップには誰だかわかる。
「憲兵が多い。見慣れねえ紋章をつけた衛士もかなりウロウロしてやがる。
たぶんそいつを追っかけてたんだろうよ。
あれだけの数相手にして逃げ切ったならそこそこ腕は立つんだろう」
「ああ、それでいつもより騒々しいわけだ。それより船長、この男を暫く船に乗せてもいいか?
この傷が癒えたら、売るか働かせるかはその時考える」
「物好きだな。好きにしろ。オマエはそいつを売れねえだろうよ。賭けてもいい」
隻眼の男はニヤリとした。
「その賭けには乗れないな。分が悪い」
溜息とともにでマンカストラップが呟くと、グロールタイガーは大声で笑った。
「よく心得たもんだ。まあ今更船にひとりふたり増えたってどうってこたあねえ」
「だろうな。ん?」
「おう、どうした?」
マンカストラップは倒れている男のサッシュベルトに嵌っている剥き出しのロングナイフに手を伸ばした。
最後の残光を受けて煌めく刃こぼれしたナイフの柄に珍しい紋章が見えたのだ。
「九貴族のどこかの紋章だろう。こいつ、貴族か?」
「貴族にしちゃあみすぼらしい格好じゃねえか。下仕えか小姓だろうよ。
舵が刻んであるってこたあエルフィンストーンだな。プライドが高くていけ好かねえやつらだ」
「エルフィンストーン?海賊を目の敵にしてる一族だったか。
そこに仕えているらしい奴が、ここらで一番恐れられている海賊船に乗り込んでくるとは皮肉なことだ」
かの貴族には海軍提督の血が混じっている上に、今でも海運を商売にしているから
海賊を毛嫌いしているのだと情報通のグランブスキンの部下が言っていた。
「訳ありかもな」
「訳ありじゃねえ奴が逃げてくるか」
「それもそうだ。五月蝿い貴族の衛士が来てるなら早めに引き上げた方が良いんじゃないか?
オールポートの奴らには金を握らせてあるけど、エルフィ・・・何とかってのは面倒そうだ」
立ち上がったマンカストラップは、日が落ちて一気に暗くなり始めた港町を見渡した。
今まで立ち寄った時よりも、明らかに憲兵や衛士と思われる影が多い。
「あらかためぼしい物は積んだからいつ船を出してもいい。
出すなら出すで呑みに行ってる奴らを連れ戻さねえとまともに船を動かせねえけどな」
「それなら呼びにやらせよう。その前にこの男を俺たちの部屋に入れたいんだが」
「好きにしろといった筈だ。但し、オレ様の寝台には置くな」
「わかっている」
生きてはいてもピクリとも動かない男を見下ろしてマンカストラップは眉を顰めた。
薄暗い中で見る男の顔はどこか青白い。
「死ぬかも、な」
「その時はその時なんだろう?」
「そうだな」
甲板にいる乗組員に手を貸してもらい、マンカストラップは気を失っている男を船室に下ろした。
そこはグロールタイガーとマンカストラップが使っているさほど広くない場所で、
床に男のクロークを敷いた上に身体を置いた。
程なくして、ひょろりとした壮年の男が重そうな道具を抱えて船室に入ってきた。
「重傷者がいると呼ばれて参りました」
「ここにいる。早速だが診てやってくれ」
「それでは」
その男は傷の手当てが得意な医師であった。
数ヶ月ほど前に襲撃した商船にたまたま乗り合わせていたのを引き込んだのだ。
怪我や病気は絶えない戦場で、医師は貴重だ。
この医師も丁重に迎えられ、助手を与えられている。
「どうだ?」
「もう手首から先は使い物になりませんよ、完全に潰されていますからね。
切り落とすしかないでしょう。真水と強いアルコールを用意して下さい」
「わかった、用意させよう」
淡々としたものだ。医師も、マンカストラップも。
手足が無くなるなど、日常茶飯事とは言わないまでも珍しいことではない。
グロールタイガーのように片目を失っている仲間もいる。
指の一本や二本落とされていることなど少なくはないのだ。
準備が整うと、火で炙った鋭い鉈のような道具を手にした医師は、一切表情を変えることなく治療を施した。
その間に、マンカストラップは部下たちに命じて町に出掛けた仲間を呼び戻しにやらせた。
「うまくいきました。あとはこの方の体力と運次第でしょう」
「わかった、ありがとう」
長く掛かった治療で、医師もさすがに疲れを見せていた。
手に入れたばかりの良い酒を壷ごと渡して労い、マンカストラップは左手の先を失った男を見下ろした。
「船長、ずっとここで見ていたのか?」
「なかなか見られるようなもんじゃねえからな。あの医師は引き入れて良かった、良い腕をしている」
満足そうなグロールタイガーに呆れたような目を向けつつも、マンカストラップは杯を差し出した。
「寝酒か?まだ早いだろうが」
「船長と違って俺は夜明け前から起きていたのでね」
医師に渡した物と同じ酒をグロールタイガーが手にした杯に注ぎ、自分の分も並々と注ぐと
マンカストラップは目の高さに杯を掲げて見せた。
グロールタイガーも同じように杯を持ち上げる。
無言の乾杯のあと、ふたりは杯の酒を一気に飲み干した。
「うめえ」
「さすが、貴族の酒はモノが良い」
酒の肴は干した果物で、これも手に入れたばかりの良品だった。
小さな酒宴を心ゆくまで堪能したマンカストラップは、
少しは清潔な麻布の上に横たえられている男が生きていることを確かめて薄笑いを浮かべた。
「お前はそこそこ運が強いと見える。何したかは知らないが、命あるまま逃げて来られたんだ。
助けてやったんだからお礼の一つくらいは聞かせて貰えるだろうな?