あの日
3 そして夜明け
雨は小康状態、風も強くはあるが少々ましにはなっている。
まだ暗い。暗いが闇ではない。
夜が明けたのだと判断し、カッサンドラとコリコパットを起こしたギルバートは
そのまますぐに眠りに落ちた。
「ディミは寝なくていいの?」
起きてすぐ、通信に使う物の準備を始めたカッサンドラが尋ねる。
「私は数時間ほど眠らせてもらったから大丈夫。
カッサこそ、まだ天気は回復してないけど外に出て大丈夫なの?」
「出てみないとわからないけど、危険だと判断したら戻るわ。
とにかく救難要請の灯火と旗だけでも出さないとね。
3日でしょう?3日もてばいい、出来る限りのことはするわ」
「私は通信がわからないからカッサに頑張ってというしかないの、頼りにしているわ。
コリコも、あなたしかこの船を守ることができないの。だから、無理はしないで」
コリコパットは散らかった部屋の中を探し回り、整備に必要な道具をかき集めている。
重くてかさばる整備用具は、海賊たちも敬遠したのだろう。
声をかけられると何かの工具を手にしたまま振り返り、任せてよと言う。
準備が整ったカッサンドラとコリコパットは、一緒に甲板へと出て行った。
絶対に助かる。
ともすれば不安に押しつぶされそうになる己を奮い立たせながら。
ギルバートが目覚めると、ちろちろと燃える獣脂の傍にカッサンドラが座っていた。
ディミータは壁にもたれたまま眠っている。
昼頃だが、やはり外は薄暗い。
カッサンドラがずぶ濡れになっているということは、また雨が強くなってきたのだろう。
そう予測を付けて尋ねると、やはり雨足が強くとても通信はできないのだと返ってきた。
「コリコは戻っていませんか?」
「さっきから何度か甲板と行き来しているのは見たわ」
「そうですか。危険だったら戻ってくるでしょうし、大丈夫なのでしょう。
カッサンドラさん、僕が起きてますので休んでおいてください」
疲れていたのだろう、カッサンドラは頷いてすぐに眠ってしまった。
あれからまだ半日くらいしか経っていない。
しかし、既にどうしようもない疲労感が身体の中に凝っている。
ギルバートはそれに気づかないふりをして小さく息を吐いた。
一度甲板に上がるも、雨が強くて結局何もできないまま部屋に戻ったギルバートは、
ただぼんやりと火の番をしながらコリコパットが戻るのを待った。
その間に起きたディミータは、外傷の所為か高熱に苛まれているカーバケッティを診たり、
異様に汗をかいているランパスキャットの状態を診たりしている。
コリコパットが夕刻になってから漸く部屋に戻ってきた。
やはり全身から水が滴っていて、へたり込むように床に座り込む。
「お疲れ様です、コリコ」
「・・・やばいですよ、けっこうやばい」
床を睨みつけるように、コリコパットが呟いた。
いつになく険しい表情を見て、ギルバートも眉を寄せた。
「やばいっていうのはこの船のことですか?」
「そうです。危ないところは一応修理してきましたが、このままでは浸水は免れません。
あと2日、もって3日、それくらいだと思います」
「あと数日というところですね、わかりました。数日もてば充分です。
さあ、少し温まってからゆっくり休んでください」
よほど疲れていたのか、コリコパットは上着だけ脱いですぐに眠ってしまった。
「奇遇ね、あと数日だったら命のリミットと同じだわ。
命尽きる前に船が沈まないことを祈るしかないのね」
ディミータが近寄ってきて、コリコパットに己の上着を掛けてやりながら言った。
「助かって生き延びるか、船と共に沈むか。究極の二択ですね」
「私たちに選ぶ余地なんてないわ」
「僕らは生き延びますよ、絶対に」
そう言いながらギルバートは立ち上がった。
甲板を叩く雨の音は、先ほどよりも幾分かましになっている。
「ディミータさん、僕は甲板に出ますので何かあれば呼んで下さい」
「了解。雨がきつくなったら戻ってね。それはそうと、SOS信号知っているの?」
「いちおう習いますから、詳しくはわからないですがSOSだけなら大丈夫です」
ギルバートは隊長養成の学科にいたから、甲板と通信の業務は一通り習う。
SOS信号など、非常時の対策も仕込まれている。
手旗信号も習ってはいるが、この大しけの海で手旗信号は無意味に等しい。
近くに船はいないはずだ。
それならば、通信灯を使って少しでも遠くに灯りが届くことを願うしかない。
気を付けてというディミータの声を背に受けながら、ギルバートは甲板に上がった。
誰かが気付いてくれるのを待つしかない。
救難要請のSOS信号を繰り返しながら、ギルバートはきりっと唇を噛んだ。
宵の口、といっても空は相変わらず重そうな雲に覆われていて朝と夜の区別も曖昧だ。
いつの間にか夜になっていた、そんな感じでしかない。
目を覚ましたカッサンドラが甲板に出てきたので、ギルバートは船室に戻った。
獣脂が燃える脂っぽい匂いがこもっている。
コリコパットはまだ眠っているようだった。
ディミータも、やはり壁に凭れて目を閉じている。
眠ってしまわないように、火を見つめながらギルバートは明日の事を考え始めた。
まず、食糧が無いのが辛い。
非常庫にはあったはずだが、持ち出すことはできなかった。
水はある、だが栄養にはならない。
もう一度あそこには行けない。
誰かを行かせるなど、それこそできやしない。
奥へと続く扉を開けることは、死の世界への扉を開けることに等しいとさえ思える。
空腹は我慢できるが、体力の落ちた自分たちが耐えきれるかどうか。
早い救助を願うしかない。
何をどう考えたって、導き出される結論は同じだ。
「ギルバートさん」
突然名を呼ばれ、大いに驚いたギルバートは零れ掛けた溜息を思わず飲み込んだ。
見れば、コリコパットが起き上がって目をこすっている。
「眠っていらっしゃらないでしょう?俺が火を見とくので寝て下さい」
「ありがとうございます。コリコはまだ寝ていなくて大丈夫ですか?」
「平気です、けっこう寝たので」
若いですし、と付け足してコリコパットはニッと笑った。
疲れは抜けきっていないのだろう、その笑みはどこかぎこちない。
しかし、それでもこの青年はしっかりと生きている。
「では、その言葉に甘えて僕は休みますので何かあれば起こして下さい」
「はい。ギルバートさん、きっと明日は晴れますよ。そしたら俺、まだ頑張れる」
天井の向こうの見えぬ黒い空の、そのもっと先にある青い空をコリコパットは見ている。
二つの紅い瞳がどこかずっと遠くを見つめている。
「晴れますか」
激しくはないが、雨の音は絶え間なく響いてくる。
「そんな気がします」
コリコパットの読みは当たる。
ずっと海とともに育ってきた彼にとっては、明日の朝ご飯のメニューよりも
明日の天気を当てる方が簡単なのかもしれないとギルバートは思う。
「晴れてほしいですね」
そうすれば多分、絶望に引っ張られてゆく気持ちを踏みとどまらせることができる。
そしてまた頑張れる。
そんなことを考えながら、ギルバートの意識は重く眠りの淵に引きずられていった。