あの日
2 最初の夜
最後に船室に戻ってきたギルバートは、むっとするような血の匂いに反射的に眉を顰めた。
船室は真っ暗で誰がどうしているのかほとんど見えない。
「ディミータさん、カーバさんはどうです?」
そこにいるだろう方向に向けてギルバートは尋ねた。
「これだけ暗いと治療にならない。怪我がどれくらいのものかもわからないし。
息はあるわ、だけどたぶん意識はない。せめて明かりがほしい」
苛立ちと焦りの混じった声が返ってくる。
「船倉に獣脂があったはずよ、見てくるわ」
「いえ、無駄でしょう。真っ先に海賊どもに狙われているはずです。
そういえば・・・あそこなら無事かもしれない」
出ていこうとしていたカッサンドラを制して、ギルバートは奥の部屋に続く扉に手を掛けた。
「非常庫に行きます、あそこならたぶん海賊に気づかれていません。
すぐに戻りますので皆さんはここで待っていて下さい」
「俺も手伝います」
「ダメです、コリコ。僕ひとりで行きます、絶対に付いてこないで下さい」
強く言って、ギルバートは奥に続く扉を引いた。
軋みながら揺れる真っ暗な船の中を、壁に手を付きながら非常庫を目指す。
非常庫の存在はごく限られた者しか知らない。
鍵は二つだけ。
隊長とギルバートだけが持っている。
噎せ返るほど濃く鉄くさい匂いが立ち込めている中、慎重に足を運ぶ。
途中で何度も重く温かいものに躓き、ぬるりとした液体に足を取られそうになった。
唇を噛んで叫び出しそうになるのをこらえながら目的の場所に向かい、
手探りで必要だと思われる物資の入った箱を探し出して、来た時より慎重に引き返した。
「出血が酷いわ。傷は思ったより深くないけど、きちんとした治療が必要よ。
でも、応急処置ができなければ命も危なかったかもしれない。良かったというべきかしらね」
赤く染まった手を、脱いだ彼女自身の上着で拭いながらディミータは言った。
傍では獣脂がじわじわと燃えて明かりを作っている。
獣脂と薬、包帯、そして水。ギルバートが持ち帰ったものはそれだけだった。
今を乗り切るために必要なもの以外を持ってくる余裕はなかった。
そして、他の乗組員たちについては誰も何も口にしなかった。
戻ってきたギルバートが何も言わなかったことが、逆に雄弁に状況を物語っていた。
「どれくらい、ですか?あとどれくらいなら、カーバさんは持ちこたえられますか?」
「そうね・・・」
あまり考えないようにしていたディミータは、少し沈黙してから口を開いた。
「3日。それ以上は辛いと思う。カーバだけじゃないわ、みんなよ」
力仕事のできるカーバケッティとランパスキャットは怪我を負っている。
船は動かせない。
水はあるが食糧はない。
この嵐だ、一縷の望みをかけて他の船に救助を求めるしかない。
いつになるかわからない救助を待ち続ける精神力も3日くらいが限度だろう。
「充分です。生きて帰りましょう。3日の猶予があります、僕の言う事を信じて下さい。
信じたことは不思議と現実になるものです。今から絶望する必要はありません。
海の神が僕らを護ってくれます、必ず助かりますよ」
ギルバートは今にも泣き出しそうな表情のコリコパットの肩を叩く。
カーバケッティがあれだけ大けがだったにも関わらず、同じ場所にいた彼は無傷だった。
コリコパットは小さく頷いた。
「信じます。帰りたいから」
「そうね、私も生きて帰りたい」
カッサンドラが呟いた。
「そう、帰るんです。ひとまず今夜は体力の温存に努めましょう。
カッサンドラさんとコリコは先に寝て下さい、交替で眠るようにします」
ギルバートが言うと、コリコパットもカッサンドラも困ったような顔をする。
「早くSOS信号を出さなきゃいけないわ」
「俺も船みないと。思いっきりぶつけられたし」
不安と焦燥に駆られる気持ちは誰しも同じ。
いいですか、とギルバートはふたりに目を向けた。
「この雨と風で航行する軍船はまずありません。甲板にいても波に攫われる危険もあります。
信号はあまり意味をなしませんし、ぶつけられてからまだ沈んでないから暫く大丈夫です。
不安は不安ですが、夜明けになってから動く方が賢明だと思いませんか?」
穏やかなのに有無を言わせない雰囲気に、コリコパットとカッサンドラは頷くしかない。
ふたりが硬い床で横になるのを確かめて、ディミータが小さく笑みを浮かべた。
「貴方は冷静ね、ギルバート。この状況でそこまで落ち着いていられるなんて」
「僕は隊長の位置に立たねばならない立場ですから」
「そこいらの隊長さんだってそこまでどっしりと構えちゃいないわよ。
頼りにしているわ、ギルバート。私たちを導いて」
ギルバートはしっかりと頷くと、壁に寄り掛かっているランパスキャットを振り向いた。
「ランパスさん、次は貴方ですよ」
返事はない。それでも、少し身じろぎする気配はある。
ディミータが立ち上がって彼の傍に移動した。
「まだ止まらない?仕方ないわ、縫合するから我慢してね。とりあえず横になって。
ギルバート、止血してあげて。やり方はわかっているわね?」
ディミータの指示に従って、ギルバートは治療の手伝いをする。
生温かいもので手が濡れる。
それでも不安は顔に出さない。
「このまま縫うのですか?」
「麻酔もないしね。あったところで使えないけど。カーバもそのまま縫ったし」
準備をしながらディミータは淡々と言う。
前線に行けばよくあることらしい。
「意識ある方が辛いわね。ランパスは何度も経験あるでしょうけど」
「だからといって慣れるものではないでしょう?」
「痛いものは痛いわね。慣れちゃうのも本当は良くないのだと思うわ。
痛みというのは身体の危険信号だから」
痛いはずだ、見ているだけで痛い。
それなのに、ランパスキャットは時折り小さく呻くだけでさして痛がりもしない。
何か不自然だ、とギルバートは何故だかそう思った。
「終わり、もう大丈夫だからゆっくり休みなさいね。後はギルバートが何とかしてくれるから」
「すまないな」
一言だけ零して、ランパスキャットは眠ってしまったのかそれ以降喋らなかった。
そんな彼を一瞬哀しそうな目で見やってから、ディミータはギルバートに手を差し出した。
「さあ、次は貴方の番よ。服脱いで、全部きれいにするから」
「お願いします」
今更遠慮も何もあったものではないので、ギルバートは言われるままに服を脱いだ。
小さく浅いものがほとんどだが、傷の多さにディミータは眉を寄せた。
「随分やられたのね。どこが一番痛む?」
手際よく治療してくれている軍医の手許を見ながら、ギルバートはふと呟いた。
「貴女がいるからきっとカーバさんやランパスさんは大丈夫でしょう。
カッサは通信ができるし、コリコは船を整備することができる。
充分です、この面子なら生きて帰ることができます」
ディミータは静かに微笑んだ。
「そうね。それならギルバート、貴方は何ができるの?」
「僕ですか?僕は・・・」
ギルバートは顔を上げた。
その目は、壁の向こうのどこか遠くを見ている。
「僕は、みなさんに希望を与えることができます」
躊躇いなく紡がれた言葉に、ディミータの手は一瞬止まった。
すぐに動き出した手が少し震えているのがギルバートに伝わってくる。
「ええ、お願いよ、ギルバート。私たちに希望をちょうだい。
ここで生きている誰も失いたくはないから、私も頑張るから」
「帰れますよ。絶対に」
ギルバートは穏やかに微笑んだ。
びょうびょうと風が唸り、波が畝って船を大きく揺らしている。
それでもたぶん帰れるのだろうと、ディミータはその時何となくそう思った。