あの日

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最終更新日: 2013-07-28
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1.始まりの嵐

1 始まりの嵐

 
強い風雨に容赦なく煽られて、夜の海は大荒れだった。
船は大きく揺れ、航海に慣れているはずの船員たちも些か船酔い気味だ。

「錨を下ろして正解だ。明日いっぱいくらいはこの状態だろう」
「動けないとなると食糧がやや心配ですね。
 もともと予定からは遅れ気味ですし、これで更に遅れてしまいそうです」
「まあ仕方ないな、この嵐じゃ下手に動くとかえって危険だ。
 いざとなれば非常庫にいくらか食糧はあるし」

話をしているふたりの隊員の片方はこの船の隊長で、名をフェンリルという。
堅実に仕事をこなし、海賊討伐では多くの功績を立てている壮年の男性だ。
もう一方は若い士官学生のギルバート。
隊長補佐官として海上研修のために船に乗っている。

「庫の場所は以前教えてあるよな?よし、じゃあ俺は休むから後は頼んだ。
 何かあったらランパスに言うといい。急ぎなら俺を起こしていいからな」
「畏まりました」

ギルバートが敬礼をすると、隊長はこきんと首を鳴らしながら扉の向こうに消えた。
既にほとんどの乗組員たちが寝静まって、船室は寂しいほど静かだ。
轟々たる風の音と、雨が激しく甲板を叩く音、そして高い波が船腹を打つ音。
そんな音ばかりに包まれている。

「わっかんない!」

唐突に声が風と水の音を打ち消すように響いた。
眠っている隊員たちを気遣ってか、いつもよりは抑えた声だがそれでもよく聞こえる。

「うるさいぞ、コリコ。わかんないって言ったところで解決しないだろうが」
「教えてって言ったって教えてくれないじゃん」
「俺は教えない主義なんだ。自分でやってこそ力になる」

この応酬は毎夜のように行われている。
呻きながら課題に取り組んでいるのは、やはり学生のコリコパット。
整備士補佐で、海上研修を行う学年ではないのだが、
その腕前と海に対する豊富な知識を買われて船に乗っている。
海上研修中は授業に出られないから課題が溜まるのだ。

言い争いの相手は参謀官のカーバケッティ。
この船きっての変わり者で、根は真面目だが発想が奇抜で作戦も一風変わっている。
参謀としてはあまりに使い勝手が悪いので、最近は食料調達兼調理係に任命されている。

「たまには教えてあげたら?」

苦笑しながら口を挟んだのは、小柄な通信員のカッサンドラ。
聡明な女性で、周りからの信頼も厚い。

「資料ならいくらでも提供するぞ」

手元の本のページを繰りながらカーバケッティは目も上げずに言った。
この少々風貌の変わった参謀は、趣味が読書だという書痴でもある。
読んでいる本は小難しい文学や歴史書の類がほとんどで、異国の物も多い。

「カーバに本貸してもらったって絶対読めないし!
 カッサ、これ教えてほしいんだけど。いくら考えても分かんないんだ」
「そうね、いいわよ。どこまで教えられるかはわからないけど」

そう言うと、カッサンドラは航海日誌の整理を切り上げてコリコパットの隣に座った。
それを見るとはなしに見ていたギルバートは、思い出したようにカーバケッティに目を向けた。

「カーバさん、明日は早番でしたよね?そろそろお休み下さい」
「うん?もう遅いか。ならキリのいいとこまで読んだら寝るとしよう。
 今夜はギルバートが見張りか?カッサ、は通信か」
「僕は見張りじゃなくて夜番なだけですよ。それに、この雨じゃ外に出ても危険です。
 今日の見張りはランパスとディミですが、ふたりとも操舵室でしょう」

ランパスキャットは参謀本部付きの精鋭戦闘員で、お雇い操舵手として船に乗っている。
雇われているわりに操舵の腕は微妙だが、戦闘でも起これば驚くほど活躍してくれる。

ディミータは女性の軍医で、稀に見る美貌の持ち主だ。
滅多に笑わない上に荒治療で恐れられるが、医者としての腕は抜群。
操舵室はこの船室と違って、甲板と同じ高さだから見張り番の待機場所にも使えるから
雨の時など見張りの者たちは大抵そこに詰めている。

「ここ最近ランパスが調子悪そうで心配なんですが。あまり食べてくれませんし。
 こんな天気でさえなければ僕も甲板に立つつもりだったんですけど」
「普段が食べる量多すぎなんだ。まあ、ディミがいるから大丈夫だろうさ」

カーバケッティはぱふんと本を閉じて、ぐっと伸びをした。
その時、きしんだ音を立てて部屋の扉が開かれた。
途端、雨の音が一段と大きく耳につく。

「カッサ、通信頼む」

ずぶ濡れで顔を覗かせたのは、操舵室にいるはずのランパスキャットだった。

「何かあったの?」
「ああ、はっきりとはわからないが軍船がいるようだ。停まっていないように見える」
「この雨で?わかったわ、すぐ行く」

カッサンドラは通信灯を手にすると、ランパスキャットと共に雨の甲板に出ていく。

「おかしいですね」
「ああ」

海が荒れているときは状況を適切に判断して船を停め、みだりに危険を冒してはいけない。
海軍の約束事だ。
この船の隊長フェンリルも、それに従って船を停めた。
下手に動けば転覆の危険性もあるし、波に攫われたっておかしくない。
だから、この叩きつけるような風雨の中で航海している軍船があることが不可解なのだ。

「僕も甲板に上がります。カーバさん、ここを頼みます」

言うが早いか、ギルバートも雨の中を甲板へと急いだ。



「どうです?」
「ああ、ギルバートも来たのね。軍船だと思うわ。灯火は間違いなく軍のものよ」

カッサンドラが、降りしきる雨の向こうにあるぼんやりした光に目を凝らしている。
黒い夜の海、加えて月明かりもないこの状況では船の影はとらえられない。
暫くその方向を睨みつけるように見ていたランパスキャットが、突然びくりとした。

「どうしました?」
「まずい、相当近い。このままじゃ間違いなくぶつかるぞ!」

夜の操舵ばかり担当しているせいか、ランパスキャットは少々夜目が利く。
カッサンドラやギルバートにはまだ何もわからない。

「ギルバート、全員起こすんだ。急げ!カッサはそこから離れろ!」

ギルバートは揺れる船の甲板を全速力で駆け抜け、操舵室の伝声管を掴んだ。
そこにいたディミータが何事かと目を丸くしている。

「緊急事態!衝突の可能性あり!全員衝撃に備えよ!」

大声を張り上げると、伝声管がびりびりと震える。
この嵐の中を航海できる軍船があるはずはない。
相当な乗り手でないと、波と風を読み切って船を進めるのは不可能だ。

「何があったの?」
「海賊の可能性があります。ディミータさん、そこに掴まって!」

ディミータがギルバートの言葉に従ったその瞬間、
突き上げるような衝撃と、ばきばきという木の割れる大きな音が響き渡った。
ギルバートは思い切り床に投げ出され、あちこちをぶつけた。
頭をぶつけたせいか暫しぼんやりとしていた意識は、
どたどたというたくさんの足音と騒がしい怒鳴り声によってすぐ覚醒した。

「くそっ」

腰に帯びていた剣を抜き、ギルバートは甲板に飛び出した。
隊員たちの姿は見当たらない。
伝達から衝突まで時間が無さすぎた。
早く皆のところへ行かねばならない。
そう思って駈け出したギルバートの前に何者かが立ちふさがった。

「へへっ、若い兄ちゃんだな」
「ただじゃあ行かせらんねえな。通行料は腕一本か脚一本か、それとも首かい?」

ひひひ、と下品に笑いあう海賊は、いかにも修羅場を経験していそうな猛者のようだ。
そこここに傷痕がある。
首など取られるわけにいかない。ギルバートは迷わず剣を構えた。

「死ぬんじゃないわよ、ギルバート!」

背後から声がした。
ディミータだ。

「そっちこそ!」

精一杯叫ぶと、ギルバートは相手に切りかかった。
巧みに相手の刃をかわしながら、仕掛けられそうなら怯まず攻撃に打って出る。
二対一だ、戦い続ければ意気も上がってくる。
自分の呼吸の音と、相手の笑い声、どこかから聞こえる怒鳴り声と悲鳴、剣がぶつかる音、
何かが崩れるような音と絶え間ない足音。
誰がどこでどうしているのか全く分からない。
このまま戦い続けてどうなるのかもわからない、だがくたばるわけにはいかない。
そのような状況下で、ギルバートはひたすら剣を振るった。

「おい、もういいぜ。大方運んだってよ」

どれくらい戦っていたのか、大きな箱を抱えた海賊の仲間らしい壮年の男がやってきて言った。

「そうですかい。よう、兄ちゃん。あんたなかなか良い腕してんじゃねえか。
 この船はそのうち沈んじまうし、俺らと一緒に来ねえかい?」

戦っていた海賊のひとりが、ニイっと犬歯をむき出しにして言う。

「けっこうですよ、お構いなく」

肩で息をしながら、ギルバートは吐き捨てるように言った。

「そいつぁ残念だ。あれ、アニキ。火は付けねえんですかい?」
「バカ野郎、この雨で火がつくかってんだ。それに、あんだけ派手にぶつけたんだ。
 放っておいたところでそのうち沈んじまうってもんだ」

はっはっはと豪快に笑いながら、海賊たちはさっさと引き上げていく。
騒々しい声と足音が消えると、やはり雨と風の音ばかりが残った。

「ギルバート、大丈夫?怪我は?」

海賊たちが去って茫然と立ち尽くしていたギルバートは、ディミータの声で我に返った。
互いに無事であることを確認し、ギルバートは少し肩の力を抜いた。
ディミータは、すれ違っただけでも男が振り向く美女だ。
あの海賊たちに攫われなかったのは運が良かったと言うべきだろう。

「ご無事でなにより。ああ、僕は大丈夫です。どれも大した傷ではありません」
「後で手当するわ。他に誰か甲板にいるの?」
「ランパスさんとカッサンドラさんがいたはずですが」

甲板の方から声は聞こえない。
ディミータは眉をひそめ、それからすっと息を吸った。

「ランパス!カッサ!大丈夫?」

雨風が強く、向こうまで声が届いたかどうかわからない。
でも、向こうまでいってふたりの無事を確かめるのが少し怖かった。

「ディミ?無事なのね、ギルバートは?」

カッサンドラの声が返ってきた。
ディミータとギルバートは思わず顔を見合わせた。

「僕は大丈夫です、そちらはどうです?」
「ギルバート、動けるならこっちに来て」

その声にギルバートが反応するより一瞬早く、ディミータが駈け出していた。
ギルバートも彼女の後ろを追いかける。

「カッサ、無事で良かったわ。ランパスは?」
「ディミもね。ランパスもたぶん、大丈夫。手当てしてあげて」

カッサンドラは船尾のあたりに立っていた。
ランパスキャットは壊れかけた欄干に凭れかかって動かない。

「ランパス、どこか怪我しているの?」

そうディミータが問いかけたその時、船室からコリコパットが飛び出してきた。

「ディミ!カーバを助けて!」

ただならぬ状況を感じとって、ディミータは険しい顔つきで頷いた。

「先に行くわ、みんなすぐに部屋に入って。雨は体力を奪うわ」
「わかりました」

ギルバートの返事を聞く間もなく、ディミータはコリコパットと共に船室へと降りてゆく。
その後姿を見送り、ギルバートは重く暗い空を仰いだ。
酷く疲れた、そんな気がした。

「中に入りましょう。この雨はやはり、少々傷に堪えます」
「そうね。ランパス、行きましょう」

カッサンドラに促され、ランパスキャットは緩慢な動作で船室へと向かう。
その後ろについて歩きながら、ギルバートは辺りの気配を窺った。
突然の襲撃だ、いったいどれだけの隊員が対応できたのだろう


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2.最初の夜

2 最初の夜

 
最後に船室に戻ってきたギルバートは、むっとするような血の匂いに反射的に眉を顰めた。
船室は真っ暗で誰がどうしているのかほとんど見えない。

「ディミータさん、カーバさんはどうです?」

そこにいるだろう方向に向けてギルバートは尋ねた。

「これだけ暗いと治療にならない。怪我がどれくらいのものかもわからないし。
 息はあるわ、だけどたぶん意識はない。せめて明かりがほしい」

見当をつけた方から苛立ちと焦りの混じった声が返ってきた。

「船倉を見てきましょうか」
「いえ、無駄でしょう。真っ先に海賊どもに狙われているはずです。
 そういえば・・・あそこなら無事かもしれない」

出ていこうとしていたカッサンドラを制して、ギルバートは奥の部屋に続く扉に手を掛けた。

「非常庫に行きます、あそこならたぶん海賊に気づかれていません。
 すぐに戻りますので皆さんはここで待っていて下さい」
「俺も手伝います」
「ダメです、コリコ。僕ひとりで行きます、絶対に付いてこないで下さい」

強く言って、ギルバートは奥に扉を引いた。
軋みながら揺れる真っ暗な船の中を、壁に手を付きながら非常庫を目指す。
鍵など掛かっていない、ただ限られた者しか非常庫の存在を知らないのだ。

噎せ返るほど濃く鉄くさい匂いが立ち込めている中、慎重に足を運ぶ。
途中で何度も重く温かいものに躓き、ぬるりとした液体に足を取られそうになった。
唇を噛んで叫び出しそうになるのをこらえながら目的の場所に向かい、
手探りで必要だと思われる物資の入った箱を探し出して、来た時より慎重に引き返した。



「出血が酷いわ。傷は思ったより深くないけど、きちんとした治療が必要よ。
 でも、応急処置ができなければ命も危なかったかもしれない。よかったわ」

赤く染まった手を、脱いだ彼女自身の上着で拭いながらディミータは言った。
傍では獣脂がじわじわと燃えて明かりを作っている。

獣脂と薬、包帯、そして水。ギルバートが持ち帰ったものはそれだけだった。
今を乗り切るために必要なもの以外を持ってくる余裕はなかった。
そして、他の乗組員たちについては誰も何も口にしなかった。
戻ってきたギルバートが何も言わなかったことが、逆に雄弁に状況を物語っていた。

「どれくらい、ですか?あとどれくらいなら、カーバさんは持ちこたえられますか?」
「そうね・・・」

あまり考えないようにしていたディミータは、少し沈黙してから口を開いた。

「3日。それ以上は辛いと思う。カーバだけじゃないわ、みんなよ」

力仕事のできるカーバケッティとランパスキャットは怪我を負っている。
船は動かせない。
水はあるが食糧はない。
この嵐だ、一縷の望みをかけて他の船に救助を求めるしかない。
いつになるかわからない救助を待ち続ける精神力も3日くらいが限度だろう。

「充分です。生きて帰りましょう。3日の猶予があります、僕の言う事を信じて下さい。
 信じたことは不思議と現実になるものです。今から絶望する必要はありません。
 海の神が僕らを護ってくれます、必ず助かりますよ」

ギルバートは今にも泣き出しそうな表情のコリコパットの肩を叩く。
カーバケッティがあれだけ大けがだったにも関わらず、同じ場所にいた彼は無傷だった。
コリコパットは小さく頷いた。

「信じます。帰りたいから」
「そうね、私も生きて帰りたい」

カッサンドラが呟いた。

「そう、帰るんです。ひとまず今夜は体力の温存に努めましょう。
 カッサンドラさんとコリコは先に寝て下さい、交替で眠るようにします」

ギルバートが言うと、コリコパットもカッサンドラも困ったような顔をする。

「早くSOS信号を出さなきゃいけないわ」
「俺も船みないと。思いっきりぶつけられたし」

いいですか、とギルバートはふたりに目を向けた。

「この雨と風で航行する軍船はまずありません。甲板にいても波に攫われる危険もあります。
 信号はあまり意味をなしませんし、ぶつけられてからまだ沈んでないから暫く大丈夫です。
 不安は不安ですが、夜明けになってから動く方が賢明だと思いませんか?」

穏やかなのに有無を言わせない雰囲気に、コリコパットとカッサンドラは頷くしかない。
ふたりが硬い床で横になるのを確かめて、ディミータが小さく笑みを浮かべた。

「貴方は冷静ね、ギルバート。この状況でそこまで落ち着いていられるなんて」
「僕は隊長の位置に立たねばならない立場ですから」
「そこいらの隊長さんだってそこまでどっしりと構えちゃいないわよ。
 頼りにしているわ、ギルバート。私たちを導いて」

ギルバートはしっかりと頷くと、壁に寄り掛かっているランパスキャットを振り向いた。

「ランパスさん、次は貴方ですよ」

返事はない。それでも、少し身じろぎする気配はある。
ディミータが立ち上がって彼の傍に移動した。

「まだ止まらない?仕方ないわ、縫合するから我慢してね。とりあえず横になって。
 ギルバート、止血してあげて。やり方はわかっているわね?」

ディミータの指示に従って、ギルバートは治療の手伝いをする。
生温かいもので手が濡れる。
それでも不安は顔に出さない。

「このまま縫うのですか?」
「麻酔もないしね。あったところで使えないけど。カーバもそのまま縫ったし」

準備をしながらディミータは淡々と言う。
前線に行けばよくあることらしい。

「意識ある方が辛いのよね、これ。ランパスは何度も経験あるでしょうけど」
「だからといって慣れるものではないでしょう?」
「当然ね」

痛いはずだ、見ているだけで痛い。
それなのに、ランパスキャットは時折り小さく呻くだけで痛がりもしない。
何か不自然だ、とギルバートは何故だかそう思った。

「終わり、もう大丈夫だからゆっくり休みなさいね。後はギルバートが何とかしてくれるから」
「すまないな」

一言だけ零して、ランパスキャットは眠ってしまったのかそれ以降喋らなかった。
そんな彼を一瞬哀しそうな目で見やってから、ディミータはギルバートに手を差し出した。

「さあ、次は貴方の番よ。服脱いで、全部きれいにするから」
「お願いします」

今更遠慮も何もあったものではないので、ギルバートは言われるままに服を脱いだ。
小さく浅いものがほとんどだが、傷の多さにディミータは眉を寄せた。

「随分やられたのね。どこが一番痛む?」

手際よく治療してくれている軍医の手許を見ながら、ギルバートはふと呟いた。

「貴女がいるからきっとカーバさんやランパスさんは大丈夫でしょう。
 カッサは通信ができるし、コリコは船を整備することができる。
 充分です、この面子なら生きて帰ることができます」

ディミータは静かに微笑んだ。

「そうね。それならギルバート、貴方は何ができるの?」
「僕ですか?僕は・・・」

ギルバートは顔を上げた。
その目は、壁の向こうのどこか遠くを見ている。

「僕は、みなさんに希望を与えることができます」

躊躇いなく紡がれた言葉に、ディミータの手は一瞬止まった。
すぐに動き出した手が少し震えているのがギルバートに伝わってくる。

「ええ、お願いよ、ギルバート。私たちに希望をちょうだい。
 ここで生きている誰も失いたくはないから、私も頑張るから」
「帰れますよ。絶対に」

ギルバートは穏やかに微笑んだ。
びょうびょうと風が唸り、波が畝って船を大きく揺らしている。
それでもたぶん帰れるのだろうと、ディミータはその時何となくそう思った。


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3.そして夜明け

3 そして夜明け

 
雨は小康状態、風も強くはあるが少々ましにはなっている。
まだ暗い。暗いが闇ではない。
夜が明けたのだと判断し、ギルバートはカッサンドラとコリコパットを起こすと
そのまますぐに眠りに落ちた。

「ディミは寝なくていいの?」

起きてすぐ、通信に使う物の準備を始めたカッサンドラが尋ねる。

「私は数時間ほど眠らせてもらったから大丈夫。
 カッサこそ、まだ天気は回復してないけど外に出て大丈夫なの?」
「出てみないとわからないけど、危険だと判断したら戻るわ。
 とにかく救難要請の灯火と旗だけでも出さないとね。
 3日でしょう?3日もてばいい、出来る限りのことはするわ」
「私は通信がわからないからカッサに頑張ってというしかないの、頼りにしているわ。
 コリコも、あなたしかこの船を守ることができないの。だから、無理はしないで」

コリコパットは散らかった部屋の中を探し回り、整備に必要な道具をかき集めている。
声をかけられると何かの工具を手にしたまま振り返り、任せてよと言う。

準備が整ったカッサンドラとコリコパットは、一緒に甲板へと出て行った。
絶対に助かる。
ともすれば不安に押しつぶされそうになる己を奮い立たせながら。



ギルバートが目覚めると、ちろちろと燃える獣脂の傍にカッサンドラが座っていた。
ディミータは壁にもたれたまま眠っている。
昼頃だが、やはり外は薄暗い。
カッサンドラがずぶ濡れになっているということは、また雨が強くなってきたのだろう。
そう予測を付けて尋ねると、やはり雨足が強くとても通信はできないのだと返ってきた。

「コリコは戻っていませんか?」
「さっきから何度か甲板と行き来しているのは見たわ」
「そうですか。危険だったら戻ってくるでしょうし、大丈夫なのでしょう。
 カッサンドラさん、僕が起きてますので休んでおいてください」

疲れていたのだろう、カッサンドラは頷いてすぐに眠ってしまった。
あれからまだ半日くらいしか経っていない。
しかし、既にどうしようもない疲労感が身体の中に凝っている。
ギルバートはそれに気づかないふりをして小さく息を吐いた。

一度甲板に上がるも、雨が強くて結局何もできないまま部屋に戻ったギルバートは、
ただぼんやりと火の番をしながらコリコパットが戻るのを待った。
その間に起きたディミータは、外傷の所為か高熱に苛まれているカーバケッティを診たり、
異様に汗をかいているランパスキャットの状態を診たりしている。

夕刻になってコリコパットがようやく部屋に戻ってきた。
やはり全身から水が滴っていて、へたり込むように床に座り込む。

「お疲れ様です、コリコ」
「・・・やばいですよ、けっこうやばい」

床を睨みつけるように、コリコパットが呟いた。
いつになく険しい表情を見て、ギルバートも眉を寄せた。

「やばいっていうのはこの船のことですか?」
「そうです。危ないところは一応修理してきましたが、浸水は免れません。
 あと2日、もって3日、それくらいだと思います」
「あと数日というところですね、わかりました。数日もてば充分です。
 さあ、少し温まってからゆっくり休んでください」

よほど疲れていたのか、コリコパットは上着だけ脱いですぐに眠ってしまった。

「奇遇ね、あと数日だったら命のリミットと同じだわ。
 命尽きる前に船が沈まないことを祈るわ」

ディミータが近寄ってきて、コリコパットに己の上着を掛けてやりながら言った。

「助かって生き延びるか、船と共に沈むか。究極の二択ですね」
「私たちに選ぶ余地なんてないわ」
「僕らは生き延びますよ、絶対に」

そう言いながらギルバートは立ち上がった。
甲板を叩く雨の音は、先ほどよりも幾分かましになっている。

「ディミータさん、僕は甲板に出ますので何かあれば呼んで下さい」
「了解。雨がきつくなったら戻ってね。それはそうと、SOS信号知っているの?」
「いちおう習いますから、詳しくはわからないですがSOSだけなら大丈夫です」

ギルバートは隊長養成の学科にいたから、甲板と通信の業務は一通り習う。
SOS信号など、非常時の対策も仕込まれている。
手旗信号も習ってはいるが、この大しけの海で手旗信号は無意味に等しい。
近くに船はいないはずだ。
それならば、通信灯を使って少しでも遠くに灯りが届くことを願うしかない。
気を付けてというディミータの声を背に受けながら、ギルバートは甲板に上がった。
誰かが気付いてくれるのを待つしかない。
救難要請のSOS信号を繰り返しながら、ギルバートはきりっと唇を噛んだ。



宵の口、といっても空は相変わらず重そうな雲に覆われていて朝と夜の区別も曖昧だ。
いつの間にか夜になっていた、そんな感じでしかない。
目を覚ましたカッサンドラが甲板に出てきたので、ギルバートは船室に戻った。
獣脂が燃える脂っぽい匂いがこもっている。
コリコパットはまだ眠っているようだった。
ディミータも、やはり壁に凭れて目を閉じている。
眠ってしまわないように、火を見つめながらギルバートは明日の事を考え始めた。
まず、食糧が無いのが辛い。
非常庫にはあったはずだが、持ち出すことはできなかった。
もう一度あそこには行けない。行けば自分が保てなくなるような気さえする。
水はある、だが栄養にはならない。
空腹は我慢できるが、体力の落ちた自分たちが耐えきれるかどうか。
早い救助を願うしかない。
何をどう考えたって、導き出される結論は同じだ。

「ギルバートさん」

突然名を呼ばれ、大いに驚いたギルバートは零れ掛けた溜息を思わず飲み込んだ。
見れば、コリコパットが起き上がって目をこすっている。

「眠っていらっしゃらないでしょう?俺が火を見とくので寝て下さい」
「ありがとうございます。コリコはまだ寝ていなくて大丈夫ですか?」
「平気です、けっこう寝たので」

若いですし、と付け足してコリコパットはニッと笑った。
疲れは抜けきっていないのだろう、その笑みはどこかぎこちない。
しかし、それでもこの青年はしっかりと生きている。

「では、その言葉に甘えて僕は休みますので何かあれば起こして下さい」
「はい。ギルバートさん、きっと明日は晴れますよ。そしたら俺、まだ頑張れる」

天井の向こうの見えぬ黒い空の、そのもっと先にある青い空をコリコパットは見ている。
二つの紅い瞳がどこかずっと遠くを見つめている。

「晴れますか」

激しくはないが、雨の音は絶え間なく響いてくる。

「そんな気がします」

コリコパットの読みは当たる。
ずっと海とともに育ってきた彼にとっては、明日の朝ご飯のメニューよりも
明日の天気を当てる方が簡単なのかもしれないとギルバートは思う。

「晴れてほしいですね」

そうすれば多分、絶望に引っ張られてゆく気持ちを踏みとどまらせることができる。
そしてまた頑張れる。
そんなことを考えながら、ギルバートの意識は重く眠りの淵に引きずられていった。


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4.限界

4 限界

 
まだ暗いうちから甲板に上がっていたギルバートは、
東の方の空が僅かに白んできたことで今日は確かに晴れるのだろうとぼんやりと考えた。
コリコパットの読みはやはり正しい。
しかし、海はまだ時化ていて波も高い。船も断続的に大きな揺れに見舞われている。
欄干近くに立つのは少々危険だと判断し、帆柱に寄り掛かるようにして信号を送る。
夜が明ければ信号灯は使えないな、などと思いつつひたすら同じ動作を繰り返す。
その動作が途切れたのは、がたがたという音と足音がしたからだ。
コリコパットが甲板に駆け上がってきたらしい。

「どうしました?」
「すみません、ちょっと来てもらえますか?」

戸惑っているようなコリコパットの様子を怪訝に思いながら、
ギルバートは信号灯を柱に掛けてから船室へと戻って行った。
誰かの容体が急変したのだろうか、と悪い方向へ考えが行く。

「何かありましたか?」

船室の中は、夜明け前にそこを出た時と何ら変わらない。
カーバケッティは目を覚まさないまま、ずっと壁際に寝かされている。
カッサンドラは火の近くで小さくなって眠っていた。

「ああ、ランパスキャットさん、起きられましたか。具合はいかがです?」
「来るな」

座っている男のもとに歩み寄ろうとしたギルバートは、低く鋭い声に思わず足を止めた。
ランパスキャットの冷たく蒼い目に宿る憎悪の鈍い光を認め、それ以上は近づけずに
少し離れて座っているディミータの方に視線を巡らせた。

「そういうこと。傷の具合を診てあげたいんだけど、この調子だから困っているの」

ディミータは小さく息を吐いて哀しげに言った。

「彼も過去に色々あってね、たぶん極限状態だと記憶が混じるんでしょうね。
 でも、傷は放っておけないでしょう。何とかならない?」
「何とか、ですか・・・」

起き上がってはいるが具合が悪そうなのはすぐにわかった。
ひとまず、宥めすかすのは無理だということだけは確実だ。

「あまり気は進みませんが、もう一度眠っていただきましょうか」
「もう一度眠っていただくって、どうするつもり?」
「気絶させるんですよ。大丈夫、技は仕込まれていますから」

ディミータは、ギルバートとランパスキャットに交互に視線をやって、仕方ないわねと呟いた。

「気絶してくれたら治療もできるし。でも、あんまり身体に負担になるようなら」
「手加減はします。もしかしたら吐いちゃうかもしれませんが、せいぜいその程度ですよ」

ギルバートが言うと、ディミータは小さく頷いた。
コリコパットは不安そうに成り行きを見守っている。

「では」

胸の前で両手を合わせ、ギルバートは素早くランパスキャットに近づく。
その次の瞬間には、ランパスキャットの身体はどさりと床に崩れ落ちていた。
何があったのかわからずに、ディミータとコリコパットは目を瞠ったまま固まっている。

「・・・何をしたの?」
「手刀です。本来は暗殺術に使う技なので、強くすると頸が折れます」

気を抜けば襲われる山間部で暮らすギルバートの部族は、男女を問わず
幼いころから護身術を身に付け、稼業のために暗殺術も仕込まれる。
ギルバートの技の精度は、同じ年頃の仲間内でも抜きんでていた。

「涼しい顔して怖いこと言うのね」

苦笑交じりにディミータが呟いた。

「ディミータさん、コリコ。僕はもう少し甲板にいます。
 ランパスさんは数時間くらいそのままだと思いますが、何かあればまた呼んで下さい。」
「お疲れ様、無理はしないで」

ディミータの声を聞きながら、ギルバートは甲板に戻った。
鉛色の空が広がる向こうに白い光が見える。
あと数時間もすれば、久々に日の光を浴びることができるかもしれない。
太陽が出るということはそれだけ気温が上がるということで、それはそれで辛い。
でも、どんよりとした雲に覆われていた時が終わるというだけで少し元気になれそうだ。
そんな風に思いながら、ギルバートは少しでも光に近づこうとするかのように欄干に近寄る。
その刹那、まだ高い波にあおられて船体が大きく傾いだ。
何とか転ばぬように踏ん張る。
厳しい状況は決して変わっていない、改めてそんな風に思い知らされた。



「少し出てくるわ」

雲が切れ始めたのを見てからギルバートが船室に戻ると、カッサンドラが出ていこうとする。

「カッサンドラさん、あまり顔色が良くないですよ。体調が良くないのでは?」
「それを言ったら、みんな良くないでしょう?貴方たちもこう思っているのでしょう?
 自分はまだ頑張れるって。私もそう。早く帰りたいから頑張りたいの。
 私を庇ってランパスは傷ついたのよ。もうこれ以上、誰も失いたくない」

カッサンドラの意志は強い。
しかし、彼女の微笑みは痛々しいほどに力がなかった。足許もやや覚束ない。
だからと言って、ギルバートが甲板に立ち続けられるわけもない。

「わかりました、気を付けてくださいね。まだ時化てますし、気温が上がってきましたから。
 なるべく屋根の下に入っておくようにしてください」
「了解」

短く応えて、カッサンドラは甲板へと上がって行く。
少しふらつくその後姿を見送り、ギルバートはようやく床に座った。
気温も上がっている。扉を開ければ光も入ってくる。
もう火は要らないだろう、そう判断してギルバートは小さく燃えていた炎を掻き消した。
皆が眠っている傍に身体を横たえれば、急激に疲労と眠気が襲ってくる。
それに抗うことはせず、ギルバートは目を閉じた。
今日こそ帰れる。
そう自分に言い聞かせたのを最後に、意識はいったんそこで途切れた。




揺さぶられているのを感じて目を覚ましたのは昼過ぎだった。
重い瞼を無理やり持ち上げ何度か瞬きをする。
完全に晴れたのだろう、開け放たれた扉の向こうは随分明るい。
身体を起こすと、目の前にコリコパットの顔があった。

「起しちゃってすみません」
「いえ、かまいません。カッサンドラさんは戻ってますか?」
「そのことなんですが・・・」

コリコパットは眉を曇らせ、すっと目を横に向けた。
その視線を追って、ギルバートもそちらに目を向ける。

「カッサ、もう限界だったみたいです。さっき戻ってきてそのまま倒れてしまって」
「そうですか。ゆっくり休んでもらいましょう。大丈夫、僕がいます」

励ますようにコリコパットの肩に手を置いて、ギルバートは微かに笑みを浮かべた。
カッサンドラが倒れてしまえば、通信業務を行えるのはギルバートしかいない。
交替でSOS信号を出すことができないのは少し辛い。

「ディミータさん、カッサンドラさんはどうです?疲労が原因でしょうか」
「もちろんそれもあるわ。栄養不足もあるかもしれないわね。
 でも、最大の原因は雨じゃないかしら。熱が高いの、ずっと濡れていたせいだと思う」

カッサンドラの額に手を当ててディミータが言った。
雨にあたって体力が奪われたところにもってきて食糧がない。
替えの服なんてもちろんあるはずもない。

「早く助けが来てくれるといいんだけど。今は休ませてあげることしかできないわね」
「そうですね」

頷いてギルバートは立ち上がった。
身体は重い。疲労はどんどん積み重なっていく。

「甲板に出ます。これ、一応持っていきますね」

ギルバートが手に取ったのは幾種類かの通信旗。
普段この船室に置いてあるものではないから、操舵室にあったのだろう。

「よくわからない旗もありますねえ・・・」
「とりあえずSOS旗出しておけばいいんじゃないの?」
「SOS旗は既に出してあります。まあ、何とでもなります」

ともかくも、そこにあった全ての通信旗を持ってギルバートは扉に向かった。

「あ、俺も行きます」

コリコパットが整備道具を手にギルバートを追う。

「気をつけてね、ギルバート。コリコも、暑いから小まめに休みなさいよ。
 それから、さっきランパスが目を覚ましたわ」
「もう気づきましたか。何かダメージは無かったですか?」
「大丈夫だったみたい。ありがとう。ほんの少し、彼を楽にしてあげられたわ」

それは良かった、そう言ってギルバートは微笑んだ。
それぞれの限界は近付きつつある。
それでもたぶん、生きて帰るためにできることはある。
ゆっくりと甲板に出る階段を上りながら、ギルバートは己にそう言い聞かせた。


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5.選択

5 選択

 
「厭な音がする。船が鳴いてるんだ」

甲板に上がってきたコリコパットが呟くように言った。
いつも笑顔を絶やさない青年が、疲れと不安に顔を曇らせている。

「帰れますよね、俺たち」
「勿論。生きて帰りますよ、必ず」

穏やかにギルバートが言う。
ほんの少し、コリコパットの表情が明るくなった。
こんな状況でも、否、こんな状況だからこそ希望のある言葉は支えになる。

「俺、頑張って船の修理します」
「お願いします、コリコ。貴方が頑張ってくれているから僕も頑張れます」

コリコパットはしっかりと頷いて、きしきしと音を立てている柱にそっと手を置いた。

「どんなに傷ついていても、どんなにボロボロでも、この船が俺たちを守ってくれてます。
 この船があって、俺たちが今生きているんです。
 少しでも長くこの船が頑張っていられるように手助けすることなら俺にもできます」

この航海は、コリコパットにとって初めての任務だった。
こんなことになるなんて、考えてもみなかった。
どこか甘かった。戦闘部隊じゃないからと、どこか安心していた。
剣術も体術もそれほど得手ではない。
海賊に襲われ、剣を抜くこともできぬまま気づけばカーバケッティの背に庇われていた。
あれほど本ばかり読んでいるのに、カーバケッティは巧みに二本の刃を操っていた。
コリコパットが今無傷でいられるのはカーバケッティのおかげだ。
血に塗れ、意識を失ったカーバケッティを見て初めて恐怖した。
失うかもしれない。ただそれが怖くて、ディミータに助けを求めた。

「俺、たくさんみんなに甘えてた。たくさん、守ってもらったんです。
 だから、俺が頑張ることでほんの少しでもみんなへの恩返しにしたいと思っています」
「頼りにしていますよ、コリコ」
「はい。それじゃあ行ってきます」

道具を手に、コリコパットは船首の方へと歩いて行った。
それを束の間見送って、ギルバートは海の彼方へと目を向けた。
落ち着いてきた波の間に船影を探す。
まだ頑張れる。己にそう言い聞かせながら。



海は少しずつ穏やかになっていく。
また夜が明けた。助けは来ない。
船室に下りることはせず、ギルバートはずっと甲板にいた。
眠るのも甲板だった。
日が当たらない場所、波しぶきのかからない場所を選んで時折休んでいた。

再び船室に戻ったのはつい先頃、ディミータに呼ばれたから。
水を差しだされ、それを飲み干すと少し身体が楽になった。
疲労の所為か、座ってすぐに眠気が襲ってくる。

「ギルバート、コリコ。少し相談させてほしいの」

カーバケッティの傍に座り込んでいるディミータも、はっきりとわかるほど衰弱している。
それでも、彼女はずっと傷ついた仲間たちの介抱を続けていたのだろう。

「ここに薬があるわ。難しいことは説明しないけど、簡単に言えば栄養剤のようなものよ。
 でも、全員分は無い。効かないとわかって全員に投与するのも一つの選択肢ではあるけど」

それよりも、とディミータはギルバートに目を向けた。
彼女の手には、茶色の小瓶が握られている。

「もっと有効に使いたいと私は思うの。だから、選択肢は二つ」
「言ってみてください」
「一つは、これをカーバとランパスに与えること。
 ふたりはもう限界よ。このままでは今夜までもつかわからない」

今まで生きていたことが不思議なくらい、カーバケッティの傷は大きい。
ただ致命傷がなかったというだけで、重傷であることは間違いないのだ。
ランパスキャットにしても同じこと。
彼はすぐには意識を失わなかったけれど、やはり怪我は大きかった。

「もう一つの選択肢も聞いておきましょう」
「もう一つは、これを貴方たちに投与すること。
 誰かが生き残ることができるなら、この船に何があったか伝えることができるわ」
「念のために聞きますが」

ギルバートにはわかっていた。
ディミータが選びたいのがどちらなのか。

「貴方たちというのは僕とコリコのことですよね?
 そうするとディミータさん、貴女はどうするのです?カッサンドラさんは?」
「私は後少しなら大丈夫。カッサも、まだ大丈夫のはずよ。
 それにね、絶対失いたくないものがあるの。生きていたいけれど、
 大切なものを失うくらいならいっそのこと一緒に海に沈んだっていいわ」

平素から、生きることを諦めるのを絶対に許さないディミータをしてこの言葉は重い。
これは決して軍医としての言葉ではないはずだ。
大切な者を失うかもしれないことを恐れる、ひとりの女性の言葉なのだ。

「俺は」

黙っているギルバートの隣で、迷いながらも口を開くコリコパット。

「俺はせめて、ここで今生きているみんなと一緒でいたいと思う。
 誰かが先にいなくなるのはたぶん・・・耐えられない」

押し出すような声。
俯いたままで、その手はぎゅっと握られている。

「それでも、俺には何が正しい選択かわからないから。
 最後の判断はギルバートさんに任せたいと思います」

ディミータもコリコパットも知っている。
なぜ、ギルバートがここにいるのか。
遠い故郷からやってきた理由も、背負っているものの大きさも、その覚悟も。
全て知っていて、そして手を貸すことを約束していた。
だから、ギルバートには生きてもらわなければならない。
それでも、彼に生きていてほしいと思うのと同じくらいには生きたいと思っていたし、
仲間たちにも生きていてほしいと願っていた。

「ディミータさん、コリコ、僕は最初から言っているじゃあないですか。
 みんなで帰ろうって、そうでしょう?だったら迷う必要はありません。
 今一番それを必要としているおふたりにあげてください」

ギルバートは躊躇いなく言った。
ディミータとコリコパットの表情が和らぐ。

「ありがとう、ギルバート。そうね、一緒に帰りましょう」
「リミットまでまだ時間はあります。信じることです、僕らには竜神の加護があるのですから」

竜神は海の神。
かつて、ギルバートの祖先たちを守っていたと言い伝えられる。
祖先たちの乗った船は絶対に沈まなかったという。
その血を継いでいるのだから、きっとこの船も沈まない。
そう、船乗りたちが生きているうちは。

「ディミータさん、お疲れだと思いますがそちらはお任せします」
「ええ、わかったわ」
「コリコ、少しだけ休ませて下さい。ほんの数時間でいいです。
 それ以上は休めないので、数時間たったら必ず起こして下さいね」

ギルバートはそれだけ言うと、コリコパットの返事を聞くか聞かないかのうちに眠りに落ちた。
そして、夢を見た。
重くて哀しくて苦しい思いを抱えて、闇の中でギルバートは波打ち際に立っていた。
この思いは、遠い山奥の故郷からずっと抱えてきた仲間たちの苦しみだ。
これを手放すわけにはいかない。
これを解放せぬまま、海に沈んでしまうことはできない。
それでも。
ギルバートは振り返った。
そこには消えそうな灯が微かな風に揺られている。
ほんの少し、強い風が吹けばこの灯は消えてしまう。
立ち止まれば自分自身は、この思いとともに波に飲まれてしまうかもしれない。
しかし。
この灯がなければ、自分の足許を照らすものがなくなってしまう。
この思いの重さに負けて、道を誤り海に沈んでしまうかもしれない。
それならば。
ギルバートは立ち止まった。
己の足許を照らしてくれる灯を守り、共に夜明けの光を見るために。


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6.出会いと別れ

6 出会いと別れ

 
穏やかな夜だ。
うまく焦点の合わない目で遠くを眺めながら、ギルバートはふとそう思った。
そして、これが最後の夜であろうと。

夕刻、様子を見に船室に戻るとディミータもぐったりと床に伏していた。
もう、起き上がることも難しいだろう。
ギルバート自身、まだ動けることが不思議だとすら思っている。
隣にいるコリコパットも、時折ふらついている。
暗い海の向こうに向けて、ひたすら信号を送り続ける。

つうっと星が流れた気がした。
空を滑った星が、海の上でちかちかと煌めいている。

「ギルバートさん!」

唐突にコリコパットが声を上げた。

「船だ、船です!気づいてくれたみたいだ!」

コリコパットは、ちかりちかりと瞬く光の方を指差す。
ギルバートは緩慢に瞬きを繰り返すが、その視界は霞がかったまま。

「生憎と・・・僕にはわからないのですが」
「大丈夫、もう助かります」

少し元気を取り戻したコリコパットの声に励まされ、ギルバートは信号を繰り返す。



「どこの船だ?何かあったのか?」

半時ほどして、声が届く距離まで近づいてきた船はかなり大型だった。
その大型船の甲板から男の声がする。

「第一、フェンリル部隊です。海賊の襲来で動けなくなっています」
「よしわかった、すぐにそちらに行く。おい、梯子を渡せ!すぐに救出だ!」

指示を出す声がして、すぐに何名もの隊員が梯子を渡して船を移ってきた。

「甲板はふたりか?他の者はどこにいる」
「すぐ下に4名。あとは・・・わかりません」

答えたギルバートの身体から不意に力が抜ける。
白衣を着ていた男性が慌ててその身体を支えた。

「船室に4名だ!急いで救出だ!他に生存者がいないかもすぐに確かめろ!
それで、と。この子は気を失っただけのようだな、すぐに向こうに連れて行こう」
「よし。そら、君も行こう」

軍医と思われる別の男がコリコパットをひょいと抱え上げた。
急げ急げと指示が飛ぶ中、ギルバートとコリコパットは大型船へと移された。



幾日かぶりの白い布団はとても柔らかい。
何かの薬を与えられている間に、コリコパットはゆるりと隣のベッドに目をやった。
そこにはギルバートが寝かされている。
血と雨と波しぶきが沁み込んだ服は、ただの襤褸切れのようだ。

「君は学生かい?」

耳触りのよい声がして、コリコパットはそちらに視線を巡らせた。
ベッドの横に立っているのは、先ほど甲板で指揮を執っていた男性。
白衣を着ているから位はよくわからないが、それ相応の地位を持っているはずだ。

「船室にいた4名は既にこちらの船に移した。衰弱が激しくてね、少々危険な状態だ。
 だが安心していいぞ、この船は医師も設備も立派だから。
 それから、残念だが他に生存者は確認できなかった」
「そう、ですか」

恐らくそうだろうと、わかってはいたことだった。
それでもやはり、胸は痛んだ。

「ああ、まだ名乗っていなかったな。
 私はバーネットだ、この第七艦艇部隊の隊長だ」
「貴方、が?」

学生のコリコパットですらその名を知っている、バーネット少将。
有能な軍医と多くの衛生兵を率い、病院船と呼ばれる大型船を指揮する男。
戦場で傷ついた兵たちを救う特殊部隊の隊長。

「補給で南方司令部に立ち寄ろうと思っていたんだ。ところで君、名前は?」
「コリコパットです。整備士を目指す練習生です」
「そうか、君だったんだな。あの船、もう沈んでもおかしくなかっただろうに。
 かなり的確な処置をしてある、腕のいい整備士が生き残っていたんだろうってな、
 うちの整備士が言っていた。コリコパット、君の腕前は現役整備士顔負けのようだ」
暖かな笑みを浮かべてバーネットは言った。
その時、扉の向こうから準備ができましたと声が聞こえた。
わかったと返事をして、バーネットは少し眉尻を下げた。

「今から君たちがいた船を沈める。損傷が激しくて動かすことができないんだ。
 遺体は回収したが、他の物は何も持ってくる余裕が無かった」
「仕方ないことです。でも、最後に船を見ておきたいです」
「それはかまわんよ。立てるかい?」
「大丈夫です」

少しふらつきながら、それでも己の足でコリコパットは甲板に立った。
暗い海。月明かりにぽつんと浮かびあがる自分たちのいた船は、想像以上に傷ついていた。
満身創痍でいつ崩壊してもおかしくない中、それでも自分たちを守ってくれた船。

「ありがとう。俺、最高の整備士になってみせる」

守られてばかりだった自分がたった一つ守ったもの。
それが今、海の中に消えようとしている。

「大丈夫かい?」
「大丈夫かどうかもわからないんです。何だか現実感がなくて。
 でもたぶん、俺はまた船に乗ります。胸張って船を守るって言えるようになりたいんです」

学生のコリコパットを迎え入れ、見守ってくれた仲間たち。
今ここで弱い自分を悔いて船を下りるより、立派な整備士になることが彼らへの弔いになる。
何よりの弔いになる。そう思う。

「惨いことだな。こういうことも、海で戦い、海で生きる中ではありうるということか。
 亡くなった者たちが安らげるよう、君たちは精一杯生きることだ」
「はい。隊長たちの魂は、海の神様が安らかなところへと導いてくれるって俺は信じてます」

乗り手を失い、ただの空ろとなった船を見つめてコリコパットは呟いた。
ありがとう、それからごめん。一緒に帰ることはできない。
宿るべき身体を持たない仲間らの魂がまだ船の中にいる気がした。
胸の中で感謝と謝罪を告げると、頬を一筋涙が伝った。

「さあ、部屋に戻ろう。君は休まなくちゃいけない」

バーネットの温かな手に促され、コリコパットは小さく頷いた。
酷く疲れていた。
柔らかな布に包まれて、深く眠りに落ちて行った。

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