大切な存在へ
「マキャ、そろそろ食事ですよ」
突然操舵室に顔を出したギルバートに驚くでもなく、
マキャヴィティは海からゆるりと視線を巡らせた。
「航行は順調ですか?」
「すこぶる順調ですよ」
「そうですか、では暫く波に任せておいて大丈夫でしょうね。
この時期にしては海が穏やかですから」
そう言って、ギルバートはマキャヴィティの背後にある扉に手を掛けた。
扉の向こうは、見張りなどで貫徹する軍員たちが使う仮眠室になっている。
「ランパスはこの中ですよね?起こしてから行きますので
マキャは先に向こうに行っておいてください」
「畏まりました。帆は上げてありますか?」
「昨日の夜にあげたきりです」
「そうですか。それならさほど流される心配はないですね」
マキャヴィティは船の位置を確かめ、操舵室を後にした。
出入り口を頭を低くして抜けてゆく長身の男を、微かな羨望混じりの目で見送り
ギルバートは軽くノックしてから扉を引いた。
操舵室の出入り口には扉が付いていない。
雨は凌げるが風は通り抜け放題だ。
いくら温暖なシャム国とはいえ、冬の海は冷える。
それを思えば、この仮眠室には扉があるぶん幾分か暖かだった。
「ランパス、もうすぐ食事の時間ですよ」
そう言いながら、ギルバートは狭小な仮眠室に一歩踏み入れた。
息苦しいほどに狭い場所の、お世辞にも立派な造りとは言えない粗末なベッドで
背を向けて転がっている男に声を掛ける。
窮屈そうに長い身体を縮めてはいるが、それも慣れてしまって久しいのだろう。
「食べ物は逃げて行かないとランパスは思っているかもしれませんが、
この船の上ではそのような常識は通用しないんです」
後ろ手に扉を閉め、無造作に置かれた何かの箱に腰を掛けるギルバート。
寝転がった男は今のところ反応を示していない。
「いいですか?この船に限って言えば、食べモノは逃げます。
例えば僕の腹の中だとかマキャの腹の中だとか。
それはもう凄い勢いで逃げてしまいますが、かまいませんか?」
僕は一向に構わないですがとギルバートが言うと、
粗悪な簡易ベッドが抗議するようにぎしりと軋んだ。
億劫そうに身を起こし、ゆらりと振り返ったランパスキャットの目つきは
小さい子なら一瞬で大泣きしそうなほど凶悪だった。
寝起きはいつもこうだ。
さすがのギルバートも、慣れているはずなのに一瞬怯んだ。
「ああ、すみません。寝不足だったんですよね。寝ておきます?」
「いや、どうせ寝られない」
「そうですか。嫌な夢でも見るんですか?
体調が良くないんだとディミータが言っていましたけど」
枕もとのちびた?燭に火を灯しながらギルバートは訊いた。
「いえ、心配いただくほどのことではないので」
急に視界が明るくなったせいか、ランパスキャットは不快そうに目を細めた。
「眠れないなら睡眠剤でも処方してもらえば良いでしょう?
ディミならそれくらい持ち合わせているじゃないですか」
船という限られた空間にずっといればストレスもたまる。
戦闘での傷や病気に苛まれることもある。
そうすれば睡眠不足だって十分に起こり得る。
睡眠薬はどの船の軍医も持ち合わせているはずだし処方もできるはずだ。
「薬は嫌いだ」
「違いますね」
否定するところではないはずだ。
ランパスキャットはギルバートに目を向けた。
睨むような視線に臆するでもなく、ギルバートは穏やかに微笑んでいる。
「嫌いだとかそういう問題ではない、効かないのでしょう?
いえ、もしかすると逆に不調をもたらすのかもしれません。違いますか?」
「だったら何です」
肯定、とギルバートは捉えた。
「貴方は強い、滅多に大けがをすることも病気をすることもない。
だから僕は気にも留めていなかったんです。
でも、こないだのグロールタイガー戦の後少々おかしいと思いまして」
本当はもっと前から不自然だとは思っていた、とは言わない。
「ディミは傷ついた貴方に鎮痛剤も止血剤も投与している様子がなかった。
貴方が常日頃薬が嫌いだと言うのは、効かないことを隠すためでしょう」
「隠していたわけじゃない」
「では、なぜ言ってくれないのです」
穏やかな微笑みは消え、ギルバートの目つきが鋭くなった。
逆に、ランパスキャットの口元には嘲るような笑みが浮かぶ。
「言ったって仕方無いでしょう、それで薬が効くようになるわけじゃなし」
「心配くらいはさせてくださいよ。
貴方は僕のことを色々知っているしたくさん心配もしてくれます。
それなのに僕は貴方のことを知らないし心配もできない、不公平です」
「不公平も何もない、俺とあんたは対等の立場じゃない。
俺はあんたの部下だ。あんたが俺の心配をする必要などない」
とても部下が隊長に対して喋る口調には聞こえないが、
ギルバートがそれを気にする様子は微塵もない。
「本気で言っているのですか、ランパス。
確かに階級や書類上は僕が上の立場かもしれません。
それでも、僕と貴方の約束に立場なんて関係なかったでしょう?」
「こうしてここにいられるだけでも俺はあんたに感謝してるし、
あんたが目的を達するためなら剣にでも盾にでもなる覚悟は変わっていない」
「剣や盾じゃない、傍にいてほしいんです。言ったでしょう?
確かに目的を達するために貴方たちの力が必要なのは今も同じです。
それでも、それ以上に僕には貴方たちの存在が必要なんです」
故郷の者たちの大きな大きな怨恨を背負って海にやってきた。
ギルバートはそう言った。
独りだけでは、その重みに潰されてしまうかもしれない。
己の中が恨みだけで満たされてしまうかもしれない。
怖いのだ、と彼は打ち明けた。
自分を守るために、大切にするものが必要だと。
「貴方は僕が目的を達するための操り人形じゃない。
わかってくれていると思っていた、僕の思いすごしですか?
貴方の苦しみを少しでもわかりたいというのは傲慢ですか?」
「あんたは俺のこと構う必要はないのにな、甘い男だ。
でもな、あんたの傍にいるのはそれなりに心地いいと思う」
ギルバートの真っすぐな視線に耐えられなくなったのか、
ランパスキャットはただ扉の方を見つめている。
自嘲気味の笑みは消えない。
「カーバやカッサにも甘いと言われましたよ。
それでも僕は心から信頼し、大切にしあう仲間がほしいと思っています。
寂しさは大きな弱みになりうるのです」
かつて海の覇者と呼ばれた男でさえ。
大切な者を失った寂しさに付け込まれ命を失った。
彼は孤独ではなかったはずなのに。彼を愛する者はたくさんいたはずなのに。
それでも、喪失感を埋めることができないままその寂しさに付け込まれた。
ランパス、とギルバートはこちらを見ない男の名を呼んだ。
「己の中に負った傷は、自分で見つめることでしか癒せないんですよ。
目を逸らしていて辛いなら一度見つめてみてもいいんじゃないですか?」
「思い出したくない、吐き気がする。夢もそのうち見なくなる」
「やはり夢見が悪いんですねえ」
子守唄でも歌いましょうかとギルバートは言った。
ランパスキャットは珍妙な表情で上官を見やる。
「何です?僕だって子守唄くらい知ってますよ。
それともディミじゃなきゃダメですか?お望みなら依頼しておきますが」
「・・・そういう問題じゃない」
「知らないかもしれませんが、僕は大層歌がうまいんです」
知らねえよとランパスキャットが呟いた。
というか嘘だろうと、心の中では続ける。
ゆらゆらと頼りない小さな炎に目をやって、ふっと息を吐いた。
「炎天下での強制労働、拷問、ありとあらゆる薬や毒の生体実験。
場合によっちゃあ剣や槍の試し切りに使われたりもしたな。
毎日誰かが息絶えて、明日は自分だとみんな思っていたさ。幸い俺は生きているが」
噂ばかりが広がって、真相が一向にわからない敵国によるシャム国陸軍兵の虐待。
前線にも近い男ばかりの収容所に放り込まれた若い男が
どういう目に遭うかなんて言わずもがなでしょうと、ある時ディミータが言った。
彼女は何か聞かされているのだろう。
「貴方が捕虜になっていたことは以前聞きました。
捕虜の大半は陸軍兵、救いだしたのは海軍だったということで
捕虜になっていた陸軍兵は半ば放逐されたのでしょう」
「陸のやつらは妙にプライド高い。傍から見てれば滑稽なほどにな。
まあ俺は正規の兵じゃなかった、ただの陸軍養成学校の学生だった」
たまたま実家に戻っていたのが不運だったというべきなのか。
若くして陸軍大佐だった父が久々に家に戻るというから家族で集まったのだ。
そこに隣国の来襲があって、家族はほとんど殺された。
ランパスキャット自身は敵に捕まり捕虜にされたというわけだ。
「助けられたときは死にかけてたからな、よく覚えてない。
海軍に入らないかと言われて、行くあてもないからありがたく入れてもらった」
「それから後のことはだいたい知っています。
貴方はもっと大切もっと大切にされることを望まなければなりません」
陸軍将の嫡男というだけでも色眼鏡で見られ、
なまじ実力も素質もあったばかりに目をつけられた。
そしてまた彼には愛想というものがまるでなかったせいで余計に疎まれた。
何度も戦闘の前線に送られて、死地を見たのも一度二度ではない。
「大切にしてくれるんだろう?」
「勿論です。そういう約束ですしね。貴方はまだ心を閉ざしている。
いつか必ず、喜びに笑い悲しみに涙することができるようになれます」
「俺だって約束した。命懸けてでもあんたの決意を守り抜くってな」
相互的な約束じゃない。一方的に約束を取り付けあっただけ。
見返りは何一つない。元より見返りなど期待していない。
でも、その約束は今も生きているしこれからも生き続けるだろう。
「ランパス、僕は貴方を大切にしたい。この船の皆を大切にしたい。
ですから、これは隊長命令として聞いてもらいます」
「場合によっては承服しかねます」
「そう先回りをしないでください、何も難しいことじゃないんです。
今日から暫く、貴方は誰の親切も断ってはいけません。簡単でしょう?」
にこにことした笑顔で、ギルバートがずいと迫った。
全然怖くないのに、薄ら寒くなるのをランパスキャットは感じた。
「ひ・・・どく難しいことかと」
「そんなことないですよ。ただ、ありがとうと言っておくだけでいいんです。
自分から甘えろと言っても無理でしょう?」
ランパスキャットに皆の親切を断っているつもりはない。
始末に悪い話だが、無意識に拒否しているのだ。
ギルバートの指摘は正鵠を射ている。
「承服しかねま」
「せんよね?とても簡潔な命令です。
通常業務における隊長命令には絶対承服。これは基本的な事項ですよ」
「どう考えても通常業務じゃない気もするが」
ランパスキャットは口元を引き攣らせて言った。
そんなことはありませんとギルバートは答えて、元気よく立ちあがった。
「さあ、食事の時間です。行きましょう、ランパス。
きっとジェミマがあれも食べろこれも食べろと世話を焼いてくれますよ。
そういうのも、断ってはいけないですからね」
「そりゃ親切じゃなくて大きなお世話だろうに」
「やってる方が親切のつもりなら親切なのです」
蝋燭の火を吹き消したランパスキャットは露骨に顔を顰める。
ギルバートはご機嫌だ。
「ああ、それから食事の後に少々手合せ願いますよ。
食べたら動く、動けば眠くなります。眠くなってしまえば夢など見ずに快適に眠れます」
「え、嫌ですよ。隊長と手合せするのすごく疲れるんですから。
体格が違いすぎて、あ、いえ、何でもないです。
ほら、俺は夜の操舵があるから準備とか・・・」
ぐりんとギルバートがすごい勢いで振り向いた。
己の失言に気づいたランパスキャットは慌てて眼を逸らす。
「僕は小さくないんです、これでも部族内では平均身長なんですからね!」
目をぎらぎらとさせ、鼻息荒くギルバートは言い放った。
そんな小柄な隊長の頭をくしゃくしゃと撫でてランパスキャットは部屋を出た。
さっさと食事に向かう長身の男の後ろでギルバートはふるふると肩を震わせる。
直後、温和な隊長の怒声が船上に響き渡った。
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