胸に秘めた誓い
コツコツと、早くて硬い音がしてカッサンドラは書類から目を上げた。
ノックと言うものは、それをする者によってけっこうな特徴が出る。
扉を二回叩くか三回叩くか、早いか遅いか、
それだけで外に立っているのが誰か随分絞ることができる。
主のいない隊長室で、司令部に提出する決済書類をまとめていたカッサンドラは
紙の束を揃えて机に置いてから立ち上がった。
「どうしたの?」
引き戸を開けると、そこには予想通り細身の男が立っていた。
いつも硬い表情を、また少し強張らせて。
「少し話したい」
「急に改まって、何かあったの?貴方たしか甲板で見張りでしょう?」
「仕事片付けて見張りはバブに頼んだ。隊長は・・・いないのか」
明かり窓から差し込む光が届く範囲にはカッサンドラしかいない。
それを確認して、タンブルブルータスは表情を和らげた。
「入って」
「いいのか?」
「ええ。扉は閉めて」
カッサンドラの言葉に従い、スラリと扉を引いたタンブルブルータスは
意外そうに数回瞬きをした。
「これ、キィキィ言わなくなったのか」
「この間マキャに直してもらったのよ。彼、こういう修理は得意みたいだから」
「へえ。そういや、前に自宅の改修をしたとか言ってたな。
ドアの修理くらいお手の物ってわけか」
そう言って、タンブルブルータスは勧められるままに椅子に腰を落ち着けた。
隊長室はとても静かだった。
風も海も静かだから、波の音も船の軋みも聞こえない。
鴎の声も聞こえない。
隊員たちもまったりとしているのか、静かなものだ。
カッサンドラは、使っていた椅子の向きを変えて
タンブルブルータスの話を聞く体勢になった。
「何かあったの?」
「何か、というか・・・今更なんだが」
言いよどんで少し眉を顰めたタンブルブルータスは、
しかし、決心したように鋭い光を宿す目をカッサンドラに向けた。
「姉さん、何をしようとしているんだ?」
今更というより、あまりに唐突だ。
鬼気迫る目つきで見られても、カッサンドラはただきょとんとしていた。
暫しの静寂。
そして、カッサンドラはクスクスと笑い出した。
「久しぶりね、姉さんと呼ばれるのは」
戦火に家を焼かれ、逃げ惑う混乱の中一家離散の憂き目にあって。
優しかった両親も、大好きだった祖父母も、可愛らしい妹弟たちも、
みんなカッサンドラを残してこの世から去ってしまった。
悲しくて寂しくて仕方なかったけれど、ひとつだけ希望が残った。
ただひとり消息がわからなかったタンブルブルータス。
ずっと探したけれど見つからなかった。
それでも、死んだという話は聞かなかった。
その彼もまた、一家離散の末に遠い遠い親戚に引き取られていた。
たったひとり、生きている可能性のある姉を探し続けてきた。
「躊躇い、じゃないな。戸惑いと言うほうが正しいかもしれない。
姉さんは久々に会ったときにはもう立派な軍員だった。
俺の姉さんというよりはこの船の頼りになる副官で、親しげには呼べなかった」
「そうなの。それでも私は嬉しかったわ、タンブルに再び会えて。
生きていて良かったと思ったわ、心から良かったと思った」
カッサンドラは穏やかに微笑んだ。
タンブルブルータスがよく知っている優しい姉の笑顔。
しかし、それはすぐに消えて眼差しに真剣さが戻った。
「タンブル、あなたは何を聞きたいの?」
「さっき言った通りだ、何をしようとしているのか聞きたい」
まっすぐな視線を受けて、カッサンドラは躊躇うように口を噤んだ。
そして、躊躇いを含んだまま長身の弟に視線を返した。
「なぜ?」
口から出たのは答えではなかった。
いずれは話そうと考えていたけれど、今はまだ心の準備ができていない。
秘密ごとは大きな賭けでもある。
血を分けた姉弟でも、容易く口を割ることはできないのだ。
「なぜって、俺はただ姉さんを手伝いたいだけだ。
気のせいかもしれないけど、姉さんはカーバたちが抜けた頃から用心深くなってる」
「そう?そんなつもりはないんだけど・・・」
「気のせいかも知れないとは言っただろう?
でも、隊長やランパスと話し込んでる時間は絶対に増えてる」
きっぱりと言われ、カッサンドラは少々焦りを感じた。
タンブルブルータスが気付いているということは、マンカストラップ達も
何かしら変だと感づいているのではないかと思うからだ。
しかし、と思いなおす。
「カーバたちが抜けた頃からって言ったわね?」
「ああ。つまりマンカスたちが来た頃だってことだ」
返ってきた答えに少しだけ胸をなで下ろすカッサンドラ。
カーバケッティが抜ける前をマンカストラップ達は知らない。
となれば、タンブルブルータスが感じている疑問を彼らに抱かせることはないはずだ。
「全部は話してくれなくてかまわない。
俺にできることがあるなら力にはなりたいと思っている、それだけだ」
もどかしいのだと、タンブルブルータスの表情が語っていた。
「ありがとう、タンブル。今はまだ細かいことを話すことはできないの。
でもね、私が何をしたいのかを言うことはできるわ」
カッサンドラは、主が座っていないギルバートのイスに目をやった。
タンブルブルータスも、無意識のうちに彼女の視線を追う。
「隊長を守りたいの。隊長に思いを遂げてほしいから」
「そうか・・・」
静かに、タンブルブルータスは言った。
話が途切れ、静けさが部屋に戻ってきた。
じっと動かないカッサンドラの横顔に、彼は気持が少し重苦しくなるのを感じた。
「姉さん、まだいい。まだいいから、話せるときが来たら話してほしい。
姉さんのしたいことっていうのがどれくらい大変かはよくわからない。
でも、これだけはどうしても聞きたい」
ゆっくりとカッサンドラの視線が巡り、タンブルブルータスの瞳をとらえた。
無言で続きを促すように。
「姉さんはどうしてそれほど隊長を大切にしようとするんだ?」
「隊長が私を救ってくれたの。私がここにいることができるのは彼のおかげよ。
ねえ、タンブル。私は国を守りたいとかいう立派な思いで軍に入ったわけじゃないわ。
名誉を得て故郷に凱旋したいと思っているわけでもない」
「そう、だろうな」
「納得したかったの。どうして私は家族を失わなければならなかったのかをね。
戦うってどういうことか、軍の視線で見れば変わると思ったの。
一方的に降りかかってくる戦火に飲まれる理不尽さの理由を見つけられると思ったわ」
カッサンドラやタンブルブルータスが巻き込まれた戦闘は陸軍によるものだった。
軍に変わりはない、だが陸での戦いは何の関係もない命を無慈悲に巻き込む。
海軍を選んだのは、やはり無意識のうちに陸軍を拒否していたからなのだろう。
「でもね、やっぱり理由なんてわからなかった。
私たち軍員は当然の義務として戦闘に参加して剣を振るうわ。
命がかかったそんな状況で、普通に生活している多くの命を顧みる余裕なんてなかった」
戦乱に巻き込まれ、理不尽に命を奪われてゆく。
陸戦に比べれば、奪われる命の絶対数は少ない。
だけど、命はそんな多い少ないの物差しで測れるようなものではない。
気づけば、それは戦闘の結果として当然起きることの一つでしかなくなっていた。
理不尽な死に理由をこじつけてみても、決して悲しみは失せることがない。
それだけははっきりとわかったけれど。
「見つからない理由を探し続けても仕方ないから、私は考えたの。
そもそも、理由を探し始めたのは家族を失った苦しみから少しでも逃れたかったから。
だったら、その苦しみを再び味わうことがないようにすればいいとね」
船に乗った時から、そこにいる軍員たちは家族のようなものだ。
寝食を共にし、同じ危険に身を晒す仲間になる。
「失わないことが目標になったけど、そんなこと言ったって失う時はやってくるものね」
「あのことを言ってるのか?」
「ええ、そうね」
あのこと。
突然カッサンドラが仲間を失ったあの嵐の日の出来事。
彼女は、今のギルバート率いる第一艦艇部隊に所属する前も第一艦艇部隊にいた。
カーバケッティ、ディミータ、ランパスキャットもそこにいた仲間だ。
ギルバートとコリコパットは、正式な隊員でこそなかったが
海上研修の学生として同じ船に乗っていた。
生き残ったのはカッサンドラを含めたこの六名だけ。
「ギルバートが隊長に就任する時に私を副官にしたいと言ってきてくれたの。
私は仲間を失った喪失感が辛くて軍を去ることも考えていたわ。
でも、そのまま去ったら後悔だけが残ると思って引き受けたの」
惨劇を乗り切って生きて帰ってこられたのはギルバートがいたからだ。
彼の強さが、ぼろぼろになった船と身体での数日間を乗り切らせてくれた。
惨劇の始まりは他船舶との衝突だった。
通信員の彼女には、それを防げたかもしれないという悔みがこびりついていた。
「悔しさを秘め続けても過ぎた時は戻らないから。
とても哀しかった、だけどそれを乗り越えるために隊長は手を差し伸べてくれた。
私のことを必要としてくれたわ。前を向いて海に出るチャンスをくれたの」
「・・・そうだったのか、わかった」
タンブルブルータスは小さく頷いて立ち上がった。
「姉さんが俺にさえ詳しいことを語らないのは何か大きな理由があるからだろう。
でも、俺はいつだって姉さんの味方だから」
「ありがとう、タンブル。いつかあなたの力を必要とするときが来るかもしれないわ」
「俺がいるってこと、忘れないでいてくれればそれでいい。
俺は姉さんを追って海軍に来た、だから姉さんが無事ならそれでいいと思ってる。
力になれるならなおさらいいんだけどな」
ふっと口元を緩めるタンブルブルータスに、カッサンドラも微笑みを返した。
柔らかな笑顔を浮かべれば、ふたりはよく似ていた。
「行こう、姉さん。そろそろ食事だ」
「そうね。楽しみだわ」
カッサンドラも立ち上がり、椅子を元の場所に戻した。
心強い味方がここにいる。
もう二度と大切な命を失いたくはないと、改めて己の心を確かめて
カッサンドラは隊長室を後にした。
傍にいてくれませんか。
僕の大切な存在でいてください。
故郷の者たちを怨恨の苦しみから救いあげる。
その決意を聞いてカッサンドラは決めた。
ギルバートを守り、彼の覚悟を貫かせるのだと。
なぜ、だったのだろうか。
彼女は考えた。
ギルバートの存在。
彼は、恨みや悲しみ、憎しみの形そのものなのかもしれない。
そう思った。
彼女も心の奥深くには、深い悲しみと消えない怒りを持っていた。
彼の中に自分と同じものを感じていたことは否定できない。
だから、彼は彼女自身でもある。
ギルバートが負っているあまりに大きな故郷の者とその先祖たちの癒えぬ怨恨。
掛けるものは自分自身。己の命。
とてつもなく大きくて重いギルバートの決意。
それを守るに見合うのは、己の命を懸ける覚悟だけだとカッサンドラは思った。
傍にいてくれと言われた時は正直嬉しかった。
大切な存在でいてほしいと言われたことは、大きな戸惑いをもたらした。
彼女の覚悟は彼の決意の上に成り立っていた。
彼女の存在が、彼の決意よりも大切であってはならなかった。
だから、カッサンドラは言った。
「約束して、ギルバート。
もしもの時、私の存在とあなたの決意を天秤にかけたりはしないで。
一時の感情に流されてはいけないのよ」
それはきっと大丈夫でしょう、ギルバートはそんなことを言った。
カッサンドラは思う。
ギルバートは冷徹な一面も持っていながら、実に優しい男なのだ。
だから、ついていける。
だから、心配だらけなのだ。
だから、彼の傍にいようと決めた。
それが、今生きている意味だと思っているから。
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