海賊の掟
知っていますか?
ジンギスは深手を負っていながら、なお生きていたのです。
あの時ひとりでも。
ひとりでも傍に医学的な知識を持つ者がいれば、あるいは―――
傷ついて倒れこんだカッサンドラにしきりに声をかけ、応急処置を施しながら
ギルバートはいつか聞いた話を思い出していた。
あれは、変わり者の参謀が出会って間もない頃に言っていたことだったか。
だから医者を味方に引き入れるのだとか、そういうことだったように思う。
できうる限りの処置をしているギルバートの胸元で何かがきらりと夕陽を反射した。
さっき、屈んだ拍子に服の外に出てきた首飾りだ。
燻し銀のように鈍い光沢を持つそれは、ずっしりと重い。
竜と蛇が絡んだような銀細工。
「カッサ、頑張ってください」
カッサンドラの意識は朦朧としていた。
声だって届いていないかもしれない。
怖い、とギルバートは思った。
大切な存在を失いそうになるだけでこんなにも怖い。
ギルバートは小さく頭を振った。
今はこの場を切り抜ける方法を考えなくてはならない。
いくらランパスキャットが強いといっても、
あの海賊たち相手ではそれほど長い間持ちこたえることはできないだろう。
「・・・っこの、リーチ長すぎだっつの」
間一髪で刃をかわしたマンゴジェリーは、飛び退りながら毒づいた。
「まあ、あの長身であの武器だと仕方ないな。剣じゃ分が悪い」
「マンカス、冷静に見てるのはいいけどそろそろなんとかしてよ」
ミストフェリーズがじろりとマンカストラップを睨む。
その間に、今度はラム・タム・タガーが戦いを挑んでいる。
「大丈夫、策はある。そろそろあいつも疲れてきているみたいだし。
ミストフェリーズ、ちょっと耳を貸してくれ」
マンカストラップが何やら耳打ちをすると、ミストフェリーズはにやりと笑って頷く。
金色の目が、水平線に沈む太陽の残光にきらりと煌めいた。
小さな呻き声。
突然に消えた金属のぶつかり合う音。
ギルバートは顔をあげ、息をのんだ。
「ランパス!」
マンカストラップと向かい合ったままのランパスキャット。
その脇腹を、ミストフェリーズの持った細い剣が貫いていた。
それを見るや、ギルバートは剣を抜いて立ち上がった。
「随分手こずらせてくれたが、これでもう邪魔はできないだろう」
マンカストラップの口元に冷たい笑みが浮かぶ。
ミストフェリーズが剣を引き抜くと、ランパスキャットはその場に崩れ落ちた。
「大丈夫だよ、致命傷になるような傷にしたつもりはないから。
もっとも、早く手当てしてあげないと危ないと思うけど」
「邪魔したそいつが悪いんだから、何も隊長さんが気に病むことはない。
それにしても、リーチの長い奴は懐に入られると弱いものだな」
平然とそんなことを口にするマンカストラップを睨みつけたまま、
ギルバートはランパスキャットの傍に歩み寄った。
「借りますよ、ランパス」
力の抜けたランパスキャットの手から大薙刀を抜き取ったギルバートは、
手にしていた剣を叩きつけて刃の手前で柄の部分を折り切った。
ただの棒になったそれを拾い上げ、ギルバートは再び海賊たちと対峙した。
「お待たせしましたね。僕としては貴方たちと戦うのは忍びないのですが・・・」
ゆっくりと海賊たちを見回すギルバート。
少し驚いたように瞠目し、怪訝な表情を浮かべたのはスキンブルシャンクスだった。
「棒術かい?本当に君はジンギスに似ているなあ」
「ジンギス?そりゃあ、あの伝説の大海賊の?」
「そうだよマンゴ。海賊の中だとそれなりに言い伝えられてるんだ、知らないかい?
小柄で群青の瞳と風変りな毛色を持った棒術使いだったのさ、ジンギスは」
そっくりだよね、とスキンブルシャンクスは言った。
「この状況だから目の色までは見えないけどさ、金とか薄い色じゃないでしょ?
シャム国の海軍じゃ棒術は教えてないんだよ。ジンギスの技だったからだろうね。
君、一体何者なんだい?」
「博学な海賊どのもいたものですね、僕が色々言う手間が省けました。
何者と言われても僕は僕です、見たまんまですよ。
ただ、今の話の流れからいくとこう言う方が正しいのでしょう」
ギルバートはすうっと目を細めた。
その眼は確かに群青を湛えている。
「僕はジンギスの嫡流なのです。似ていてもそう不思議はないでしょう。
海に暮らしていたのに山に追われ、水はない、土地は痩せ、作物は枯れる、
そんな苦しみ負い、ジンギスを奪われ国を失った部族の末裔です」
「胡散臭いなあ。ジンギスの血筋は徹底的に潰されたって聞いたけど」
「まだ生れ出ていない子供までは手を回せなかったのでしょう。
僕らの部族が負っている恨みや怒りは、幾年経とうとも消えなかったのです。
だから、故郷の者は皆僕が成長するにつれ喜んだのです」
ジンギスの再来だ。
ようやく恨みを晴らす時が来た。
「わっかんねえな。おめえさん、つまりここには仇打ちに来たってこったろ?
誰に向かって仇討すんだよ。ジンギスを奪ったやつなんてもういやしねえだろうが。
それとも何だ?そやつの子孫でもいるってのか?」
「いますよ」
「は?えらくうまい話じゃねえか」
タガーは眉を寄せている。
何とも因果な話ではないか。
「まあ、その子孫云々はあまり関係がないんです。
僕らが恨みをぶつけるべき相手は海軍そのものですから。
ただ、組織全部全軍員と戦うわけにはいかないでしょう」
だから、とギルバートはにやりと口元を歪めた。
「この海軍の頭を潰します」
はっきりと、ギルバートは言った。
「貴方たちならわかるでしょう?そうすることの意味くらい」
恨んでやる。
憎んでやる。
許しはしない。
怨恨や憎悪は幾星霜を経てもどろどろと体の奥深くに渦巻き続け、
それなのに誰に、何に向かって恨み憎んで怒っているのかわからなくなっていた。
確かに、山に追われたことで生活は一変した。
しかし、海にいたときだって生活はさほど豊かではなかった。
だからこそジンギスは海賊などという行為を行っていたのだ。
生活の苦しみだけを恨んでいるのではない。
山に追いやられたこと自体を怒っているのではない。
負けた者は常に貧しくなるものだ。
だったら何だ。
卑怯な作戦でジンギスを奪われた。
国を奪われ住む場所を追われた。
ジンギスは、シャム国に刃向った逆賊として悪しざまに罵られた。
部族の誇りであるジンギスが、国中から悪だと見られる。
屈辱と怒り。
許せない、許さない。
誇りを取り戻すまでは。
「海賊の掟か」
低い声で呟いたのはマンカストラップ。
「その通りです。同害報復。目には目を、歯には歯を。
僕らはかつての国で海を統べていたジンギスを殺された。
それならば、今この国の海を統べる海軍のトップを討つ」
「なるほどね」
スキンブルシャンクスがおもしろそうだと呟いた。
「そのトップっていうのが、ジンギスを討った参謀の末裔だろう?
偶然だねえ、出来すぎの感が否めない」
「偶然ですよ。さて、僕はそういうわけでここでくたばるわけにいかないんです。
別に僕のことを慮って引いてくれとは言いません。
でも、僕は大きな野望を抱いていて、それに貴方たちは少なからず興味を抱いた」
違いますか、とギルバートは海賊たちを見回した。
海賊たちはそれぞれに何ともいえぬ渋い表情を見せる。
「僕の命なんてちっぽけなものです。
こんなものに拘るより、貴方たちはもっと大きな仕事でもしたらいい」
「都合のいい話だな」
マンカストラップが鼻で笑った。
それからザクリと剣を砂地に突き刺した。
「だが、俺はそんな都合のいい話に乗ってみるのも悪くないと思っている」
「待ってくれるのですか」
「残念ながら、俺はそんな優しい男じゃないさ。
お前がその大きい野望を叶えられるくらいの大物なら、
そうとわかってから改めて首を貰い受けに来る」
その方がやりがいもあるしな、とマンカストラップは言った。
ギルバートはふっと笑って、ミストフェリーズに目をやった。
「僕は正直不満なんだけど。でも、マンカスがやる気ないみたいだし。
運がいいよね。失敗したら大声で笑ってやるからね」
「それは困りますね」
苦笑して、ギルバートの目はスキンブルシャンクスに向いた。
「僕は君みたいな生き方が嫌いじゃないよ。
君は確かに故郷のみんなに突き動かされてここにきたのかもしれない。
だけどここに立っているのは君自身の意志でもあるわけだろう?」
「もちろんですよ」
「僕らは海に戻るよ。やりたいことをやるのが僕らの生きかたさ。
今の海軍のトップは一筋縄じゃいきそうにないけど、頑張りなよ」
強かで冷徹な一面も持っているが、何とも穏やかな笑顔を見せる海賊だ。
スキンブルシャンクスに敬礼をし、ギルバートはまた視線を滑らせた。
その先にはラム・タム・タガーが立っている。
「俺はおめえを倒す気満々だがどうやら手が壊れちまったから無理だな!」
なぜか偉そうに胸を張ってその男は言った。
「手が壊れたって?義手が壊れたって言うのか?」
「そうだよ、何か文句あんのか」
「いんや。でもさ、手が壊れたって言ったって
タガーが剣を使うのは右手だろう?別に支障ないじゃん」
「うっせえんだよマンゴ!」
タガーはぽかりと赤毛の男を殴りつけた。
壊れているはずの左手は自在に動いているようだ。
「とにかく壊れてんだよ、いいな!」
「わかりました」
ギルバートはそう言うと、涙目で頭を押さえているマンゴジェリーに目を移した。
「俺は何も言うことねえぞ、隊長さんよ。
あんたを討てなくて残念だと思ってるさ、そんだけだ」
ギルバートは頷いた。
「それじゃあ、俺たちはもう行く」
「お別れですね」
「俺たちは俺たちでいつか掟を果たしに来るつもりだ。覚悟していろ」
マンカストラップは砂に刺さった剣を引き抜くと歩き始めた。
ミストフェリーズが追う。
ラム・タム・タガーとマンゴジェリーも無言で従った。
スキンブルシャンクスだけが、まだそこに佇んでいる。
そしてギルバートの胸元を指差した。
「君のその首飾り、本物かい?」
「本物ですよ」
代々受け継がれてきた一族の長の印。
青い眼の海賊は嬉しそうに目を細めた。
「お宝だね。今度はそれをもらいに来るよ。
船長だってそれをずっと欲しがってたんだしね」
「これは渡せませんよ、大切なものですから」
「そういうものこそ僕らが欲しいんだよ、わかるだろう?」
さあ、どうでしょうね。
そんな風に呟いて適当にお茶を濁してから、ギルバートは敬礼をした。
「もう二度とお会いしたくないですね」
「どうだろうね。君が海軍で僕が海賊である限りはまた巡り合うかもしれないよ。
どうあれ、僕はまた君と勝負してみたいと思っているけどね」
小さく微笑んで、スキンブルシャンクスは小走りに仲間たちを追った。
最後の残光が水平線の向こうに消える。
青があたり一面を覆い尽くしてゆく。
昼の終わりとともに、ひとつ戦いが終わった。
夜の訪れとともに新たな挑戦が始まる。
第弐章 了