04:姉妹 -姉の決意と妹の覚悟-
ステンドグラスの嵌った高い窓から薄暗い月光が落ちてくる礼拝堂に祈りが満ちる。
揺らめく月明かりの下でオールドデュトロノミーの歌が厳かに、静かに響く。
頭を垂れ、目を閉じたままディミータは祈りの歌に耳を傾けていた。
街の猫たちの想いが一つまた一つと美しい音色に変わってゆく。
こうして長老猫が猫たちの願いを清める場に立ち会うことはディミータにのみ許されていた。
そしてそれは彼女の務めでもある。
ひたすらに祈りの儀式に心を寄せるこの時だけは、ディミータの心は凪いでいた。
そのはずだった。
それなのに、この夜のディミータの胸には小さなさざ波が立っていた。
安らかなはずの一時にさわさわと不安をかき立てる何かがあまりに不快で、
ディミータは無意識の内に小さく呻いた。
不意に歌声が止む。
「・・・何か、合ったのかね?」
振り向いた長老猫がゆったりと問いかける。
ハッとしたようにディミータは顔を上げた。
「申し訳ありません、お祈りを乱してしまいました」
長老猫の祈りを止めてしまった理由は彼女にはわからなかったが、
集中できていなかったことは事実だった。
「謝ることなど無い。そなたは立派に役目を務めているではないか。
望まぬ役割だったかもしれんが、それでも立派に生きるそなたに励まされる者も多かろう」
長い毛並みの向こう側で、優しく目が細められるのがディミータにはわかる。
誰よりも一番長くオールドデュトロノミーの傍にいるのだから。
「ありがとうございます。そのお言葉だけで、私は顔を上げて生きていけます」
鮮やかな橙の毛並みが彼女の血筋を物語っている。
重くも名誉ある祭司という役目は、この血筋の最年長の雄猫が負うことになっている。
生まれた仔猫が役割を果たせる年頃になったと判断すれば、
それまで祭司だった者から役目を引き継がれることになる。
ディミータは勿論雄猫ではないし、同世代の最年長というわけでもなかった。
祭司の重責は、ある日唐突に彼女の双肩にのし掛かってきたのだ。
彼女には拒む権利などなかったし、拒めない理由もわかっていた。
「ディミータ、もう少し続けよう」
「はい」
雑念を振り払い、ディミータは再び響き始めた清らかな祈りの歌に耳を傾ける。
穏やかな一時の中、それでもディミータの心には虚ろが消えなかった。
彼女は代役なのだ。
本当の祭司は別にいる。
否、いたというのが正しいのかも知れない。
役目を厭っているのではない。
何故、という気持ちが消えない。
誰も答えを知らない問いかけを何度繰り返したところで虚ろは埋まらない。
*
オールドデュトロノミーを部屋まで送り、ディミータは教会を後にした。
欠け始めた月が西よりの空にいる。
彼女自身の寝床の前を素通りして、夜更けのひっそりした住宅街を歩いて行く。
祈りの儀式に立ち会った後は誰かの温もりが欲しくなる。
もう相手を持って子をなしても良い頃だったが、彼女はそうすることを拒んでいた。
はっきりした理由はあるものの、それは誰にも言えない。
血の繋がらない姉猫であるボンバルリーナを除いては。
まるで血のつながりはないけれど、同じ母から乳を飲んで大きくなった。
街の要のディミータが唯一弱いところを見せられる相手がボンバルリーナだった。
いつもの儀式の後と同じように、ディミータは今日も姉猫の所に向かっている。
早足で暗い道を歩いていたディミータは、横目に一軒の家を見て反射的に眉を顰めた。
何の変哲もない一軒の住宅だ。
昼間に見れば煉瓦色の屋根だとわかるその家で、彼女は幼い頃の一時期を過ごした。
活発でやんちゃだったディミータは、幼い頃はしょっちゅうトラブルを起こしていた。
他愛もない喧嘩がほとんどだったが、小さな怪我は耐えたことがなかった。
そんなある日、余所の街の猫と喧嘩して傷を負ったディミータをあろうことか人間が拾ったのだ。
それが煉瓦色の屋根に住む一家の娘で、そのままディミータは飼われることになった。
幸いにして家は住み慣れた街にあったし、首輪は不満だったが飢えることはなかった。
家族はみんな猫好きでディミータは大切にされたし、窓ガラス越しには他の猫たちにも会えた。
人間に飼われていた一時期は決して悪い想い出ではない。
ふいと目を逸らして、ディミータは前を向いて歩き続ける。
もう、あの頃の家族はいない。
あの頃窓に掛かっていたディミータと同じ色の茜色のカーテンも、
今では落ち着いたワインレッドのどっしりとしたものに掛け替えられている。
共に暮らしていた家族はある時引っ越してしまった。
ディミータも共に行く予定だった。
ケージに入れられ、車に乗せられた。
街を離れたくはなかったが小さな彼女は人間の前には無力で、心の中で街に別れを告げた。
それなのに、気付いた時には彼女は教会の前に立っていた。
首輪は残ったけれど、彼女を閉じ込めるものは何一つ無かった。
その日ディミータは街の猫に戻った。
時を同じくして彼女の兄猫が姿を消した。
彼女の兄こそ、祭司の血筋を引いた雄猫だった。
ディミータは檻から解放されて自由を手に入れた。
同時に、兄が継ぐはずであった祭司の役割を背負うことで自由な生き方を失ったのだ。
*
ジャンクヤードの少し手前に小さな公園がある。
その近くにわかりにくい入り口があって、ディミータはそこで脚を止めた。
「リーナ、いる?」
覗き込んで中に居るはずの猫に声を掛ける。
「お帰りなさい、今日は少し遅かったのね」
そう言いながら姿を現したボンバルリーナは笑顔でディミータを招き入れる。
ここはディミータの住処ではないが、「お帰りなさい」というのが姉猫の常だった。
「疲れているでしょう?何か食べる?それとも先に寝る?」
「少し休みたいわ」
ディミータは、彼女のために用意されている焦げ茶のクッションに落ち着くと
小さな溜め息を一つ零した。
「リーナも一緒にどう?」
「そうね」
気安く誘っているような口ぶりだが、ディミータの目は縋るようにボンバルリーナを見ている。
ただの誘いは、その実隣にいて欲しいという願いだとボンバルリーナは知っている。
ディミータは誰かに甘えることをよしとせず、だから甘え方が下手なのだ。
だからこそ、重い責務を負う妹を精一杯甘やかし、
求められ時には傍にいてやりたいとボンバルリーナは思っている。
「あのね、少し気になる話を聞いたの」
ボンバルリーナが隣に行くと、ディミータは重そうに瞼を持ち上げて呟くように言った。
「聞いたって、長老から?」
「いいえ、ジェリーよ。少し前の話なんだけど。
不思議な力を持った猫たちが南下しながら近づいてきてるって」
「私は初耳よ。ジェリーが言ってくるくらいだから影響が出そうなのかしら」
ディミータと親友のジェリーロラムはなかなかに賢い隠密で、
伝えるべき事とどうでもいいことを見事に切り分けてくれている。
そのジェリーロラムから報告が上がっているということは問題になる可能性があるのだ。
「探りを入れているところだと言っていたから杞憂に終わればいいけど、
何故だか胸騒ぎがするのよ」
「不穏な噂でもあるの?」
「噂は色々あるらしいけど、現段階だと何も確かなことは言えないわ。
でも、話の通り不思議な力を持っていたとしてもそれはどうでもいいの。
マキャだって不思議な力があるし、たぶん長老もそう」
でも、と呟いてディミータは目を伏せた。
「噂以上の何かが迫っている気がするの。
根拠は何もないわ。自信がないからそう思うだけかもしれないし」
「自信って何の?」
「この街を守ることよ」
ディミータの気持ちを表すかのように、彼女の尻尾がぱたりと揺れる。
ボンバルリーナは小さく笑みを浮かべてディミータを抱き寄せた。
「街を守るのはディミだけの仕事じゃないでしょう?
どんなに不安でもディミは絶対に今の役目から逃げようとしないのだし、
どうせならどっしり構えておきなさいよ。大丈夫、ディミなら街を守れるわ」
「うん、ありがとう。そう言って欲しかったの」
姉猫の温もりに抱かれながら、ディミータは目を閉じた。
すぐに寝息を立て始めた彼女を見てボンバルリーナは笑みを深めた。
ディミータが街を守り、猫たちの想いを守ると決意したその時、
ボンバルリーナはディミータの心が折れないように彼女を守ると決めた。
ディミータが伴侶を得ずに、兄猫がどこかで生きていることを信じて彼の帰りを待っている
せめてその間は彼女が寂しくないように。