13:気になる -あの子のことが-
疲れたように夜明け前の街を歩いて行くディミータの姿を、
マンカストラップは涼しげな青のカーテンが掛かった家の屋根から見下ろしていた。
凶暴で得体の知れない力を持つと言われていた彼らを目の前にして、
怯えも軽蔑も見せなかった猫などこの街に来るまではいなかった。
仕方のないことだとマンカストラップはずっと思っていた。
ずっとミストフェリーズの傍にいたマンカストラップはその力の強大さを知っているし、
ランパスキャットの凶暴さもタンブルブルータスの冷酷無比な部分も見てきている。
「なんて勇敢なんだ」
この街に彼がやって来てからそれほど経っていないが、
同じ感慨が沸き上がるのはもう何度目かわからないほどだった。
その時、マンカストラップが零した僅かな声に反応したのかディミータがぱっと上を見た。
「マンカストラップね、何をしているの?」
凛とした声は高くも低くも無い。
ただ目が合ったから声を掛けたというだけなのか、
彼を咎める色合いも問い質そうというような響きも無かった。
「散歩だ、この辺を見て回っていた。朝は気持ちが良いな」
そう言って、マンカストラップは木や手摺りを伝いながらディミータの隣に降り立った。
「身軽なのね」
「重そうに見えるだろう?大方この毛並みの所為なんだが、実際よりごつく見られる」
「実際より貧弱に見えるより良いと思うわ」
僅かに笑みを浮かべたディミータは、ふと何かに気付いたように目を細めた。
「あなたも首輪をしているの?」
「仔猫の頃は飼われていたんだ、これでも血統書付きだからな」
「驚かないわ、綺麗な模様の毛並みだと思っていたの」
マンカストラップは少し驚いて目を見開いた。
彼の見た目ことを綺麗などと言う人間はいなかったのだ。
まるで雑種のような毛並みだと言われても全く気にしてはいなかったが、
それ故にまるで可愛がられないまま野良猫になった記憶は決して愉快なものではない。
「・・・ディミータの方が綺麗だ、これほど美しい猫を見たことはない」
「変わっているのね、あなたは。ヴィクトリアは同じ雌猫の私が見ても美しいわ」
「そりゃあヴィクは綺麗だ、月の下で彼女とダンスをした時は息を飲んだものだ。
でも、ディミータ、貴女はとても勇敢で気高い。
覚悟を決めて生きる者が持つ誇りと痛みを知っている、だから美しい」
生来、マンカストラップは饒舌な猫では無い。
雌猫に面と向かって美しいなどと言うことも無い。
それでも伝えられずにはいられなかった理由は、彼にはまだわからない。
「ありがとう。あなたがそう感じた理由はわからないけれど、
そう思ってくれるならあなたも必ずこの街で幸せになって。それが私の望みよ」
「幸せか、幸せって何なのだろうな?」
「答えなんて無いと思う。自分以外の誰にも何が幸せかなんてわからないから」
ディミータは首を振って呟くように言った。
「この街で誰かに必要とされるようになる日がきっとあなたにも訪れるわ。
私だってそうだったもの。ここであなたの中で何かが変わっていくはずよ。
時々自分に問いかけてみて、幸せって何なのかとね」
「ディミータは、その答えを見つけたのか?」
その問いかけには応えず、ディミータは僅かな笑みを湛えて道の向こうへ目を向けた。
「そろそろ行くわ、少し眠いの。長老への伝言などがあるなら聞いておくけど」
「いや、引き止めて悪かった。良い一日を」
「あなたもね」
マンカストラップは振り向くことなく歩いて行くディミータの後ろ姿を見送った。
彼女の住処は向こうではない。
ボンバルリーナの所へ行くのだろうという情報は手に入れている。
「俺相手じゃ気も休まらないか。誰かじゃなくて、貴女に信用されたいものだ」
ふっと溜め息を吐いて踵を返したマンカストラップは、
前日にようやく場所を定めた寝床に向かって歩き出した。
突然やって来た悪魔と噂の集団をあっさり受け入れはしても、警戒はすぐには解けない。
それは仕方のないこととマンカストラップは思っていたし、
時折感じる気配や視線などは害意が無いので気にしないことにしていた。
しかし、さすがに現在背後から近づいてくる気配を無視するわけにはいかない。
「マンカス!」
「何だランパスか、朝から騒がしいな」
「呼んだだけだろうが!」
声がでかいんだとマンカストラップは呆れたように言った。
「そんなことより、例の鉄道猫が今朝着いてるはずだってさ。会いに行こう」
「ミストが言ってたのか?そんなこと昨日は一言も口にしなかったが」
「シラバブだ、仕事帰りだとかでさっきばったり会ったんだ」
シラバブは本気でランパスキャットを気に入ったようだ。
こんな強面でごつい雄猫を、あんな愛らしい子供が気に入るなど不思議なことだが、
昼行灯のランパスキャットを捕まえては連れ回しているのを見かける。
「仔猫なのに仕事とは感心だな。で、お前は逃げてきたのか?
それともその鉄道猫にそんなに会いたかったのか?」
「ちゃんとあの子の寝床の近くまで送った、文句ないだろう?
それに、鉄道猫はわりとどうでもいいけど何とかの特殊スキルには興味がある」
「なるほどね」
それはについては多かれ少なかれ、マンカストラップも興味を持っていた。
「どこにいるんだ?」
「教会に行けば会えるんじゃないかって言ってたな」
「そうか、すぐそこだな。じゃあ行くか」
ランパスキャットは頷くと、マンカストラップの隣に並び
朝のミサを告げる鐘の音を聞きながら教会の方へと歩き出した。
*
獲れたてのネズミの皮を丁寧に裂いていたコリコパットは、思い出したように口を開いた。
「俺、バブが心配なんだけど」
当たり前のように居座っているが、ここはジェリーロラムの住処だ。
隠密のリーダーの彼女が住んでいる場所は、自然と連絡基地となっていた。
色々な場所に出掛けては情報を仕入れてくるコリコパットは、
自分の住処よりもジェリーロラムの住処に居る時間の方が長い。
「どうして?」
家主が振り返って問えば、コリコパットは作業を続けながら眉を顰めた。
「あの白黒ぶち猫のどこが良かったんだろう。
ミストみたいな力は無いらしいけどやっぱり普通の気配じゃないし」
「そう?でも、悪そうな猫じゃないわ」
「そうなんだけど」
ジェリーロラムは、いつになく歯切れの悪いコリコパットをじっと見つめ、
ある一つの仮定に思い至った。
「コリコはバブが気になるのね。そう、貴方も年頃だものね。
まあ確かにバブは可愛いし、将来は綺麗になること間違いないわ」
「え?そんな話したっけ?」
顔を上げたコリコパットは呆然として訊いたが、
納得したように幾度も頷いているジェリーロラムには聞こえていないようだ。
「俺はただ純粋にバブの向こう見ずなところが変に相手を刺激しないか心配で。
それに俺はバブじゃなくて気になる女の子いるし」
「あらそうなの。どう?私に話してみない?」
「無理、絶対無理」
ぶんぶんと首を横に振るコリコパットを見てジェリーロラムはクスッと笑うと、
青年の手許から捌きかけの夕飯をするりと抜き取った。
「これは私が捌くわ。コリコに任せていたら終わらないしね」
「あ、ゴメン」
「いいのよ、コリコはその辺り片付けておいて。
そこのは舞台衣装だから爪立てて破かないように気を付けてね」
コリコパットが言われるままにさして広くない空間を片付けている間に、
ジェリーロラムは慣れた手つきで獲物を捌き石版の上に並べて置く。
「さっすがジェリー。食べていい?」
「どうぞ。ちゃんと恵みに感謝してからね」
「うん、わかってる」
コリコパットは仄かに温かな肉にむしゃぶりついている。
薄い肉片を一切れ口に含み、それを咀嚼しながら
ジェリーロラムは朧気な記憶を辿っていた。
「もしも、力が暴走したら」
「うん?」
夢中で食べていたコリコパットは顔を上げて口の周りを幾度か舐めた。
「もしね、ミストフェリーズやシラバブの力が暴走したら」
「バブの力?そういうの持ってるのか?」
「持っていないわ、今はね。とにかくね、そういう物理的には説明の付かない力は
私たちのような猫には止めようがないのよ」
ジェリーロラムが真剣に喋るので、
引っかかりを覚えつつもコリコパットは黙ったまま続きを聞いた。
「前にね、そういう不思議なお話を舞台で演じたことがあるの。
この世界を乗っ取ろうとした異界の生命体に立ち向かうの」
「おもしろそう。それ、もう再演しないのか?」
「わからないわ。評判は良かったからガスの気分次第じゃないかしら。
それでね、異世界の生命体というのはとても強力で最初は太刀打ちできないの。
でも、私たち個々の力では勝てなくてもこの世界が持つ力なら勝てるの」
ジェリーロラムがまた一つ薄い肉切れを飲み込んでいる間、
コリコパットはじっと座ったまま話の続きを待っている。
一つのことが気になると別のことはできないタイプだ。
「この世界が持つ力って何だ?重力?」
「力というのは適切でないわね。この世界が備えている全てというべきかしら。
風や水、火に土、そして私たちが持つ心。そんな全てのものよ。
その全てが異世界の侵略者に立ち向かったら相手はひとたまりもないでしょう?」
「完全追放だな。でもさあ、風とか水とかが意志を持ってるわけじゃないだろう?
俺たちだったら頑張ろうぜって言って団結するけどさ」
眉を寄せるコリコパットに、鋭いわねとジェリーロラムは微笑んだ。
「確かにそうね、でも考え方次第よ。私たちに心があると考えるのと同じ。
風にも水にもきっと心があるの、普段は感じないだけ。
その心に語りかけるの、共に闘いましょうとね」
「それ、本当にできたらいいのに。風の心と語り合うとか絶対楽しいし」
「そうね。私たちが聞いたこともないたくさんのことを知っている筈だもの。
私は舞台の上でしか語りかけられないけれど、そのための祈りの言葉は本物よ。
昔々から言い伝えられてきた祈りの言葉で風や水に語りかけるの」
長い台詞ではなかったけれど、俳優たちはみな覚えるのに苦労したのだ。
言い回しが古風でなかなか馴染めなかったせいかもしれない。
ジェリーロラムも何度も台詞に詰まっては稽古を止めてしまった記憶がある。
それだけに、他の部分とは違い苦心しつつ覚えた台詞は未だに記憶の中に留まっている。
「ナンジ ヨアケニカザオキヲシタマフモノ
カグワシキカゼヲサシマネキタマヘ」
「それが、祈りの言葉?」
「その一部よ、風に語りかけるための一節なの。全体はもっと長いわ。
あれだけ唱えれば効きそうな気がするから不思議ね」
まだ駆け出しの女優だったジェリーロラムが唱えたのは風を招く台詞だった。
火と水と土の台詞にはそれぞれ別の俳優が割り当てられていた。
四つの要素と全ての心が一つになった時、起こりえないことが起きるのだ。
「あの舞台はとても気持ちが良かったわ。本当に全てと一つになれたような気がしたの。
台詞は難しいけれど内容はヒーローものに近いから若い世代にウケが良かったわ」
「ジェリーがそんなに言うなんて珍しいよな。俺だって見たい」
「ガスは古典が好きだからどこまで乗り気になってくれるかは疑問ね。
コリコが良い働きをしたらご褒美に考えてくれるかも知れないわ」
それなりに優秀なコリコパットだが、先達に言わせればまだまだだ。
しょげたように耳を寝かせ、コリコパットは小さく呻き声を漏らした。
それを見たジェリーロラムは、新鮮な肉の一番おいしいところを切り取って
青年の目の前に差し出した。
「これ食べて頑張りましょう」
コリコパットの顔がぱっと明るくなる。
すぐに沈むが浮上も早い。
「大丈夫、俺が守る。俺は長い祈りなんて覚えられないし、これ食べて強くなる!」
「その心意気はとても大切ね」
煌めく双眸を微笑ましさと少しの頼もしさを感じながら見やり、
ジェリーロラムは柔らかな内臓を器用に取り出してまた青年に方に押しやった。
「ジェリーもちゃんと食べないと大きくなれないぞ」
「私はこれ以上大きくならないわ。なるとしたら横に大きくなるくらいね。
舞台があるから常に体重はコントロールしているの、だからそれはあげる」
「わかった。今度も舞台見に行くからいつか決まったら教えてくれ」
和やかに談笑しながらコリコパットとジェリーロラムは肉を平らげてゆく。
夜が明ければまた新たな一日の始まりだ。