18:彩られた世界 -悪徳と悪魔と-
東の空に赤い月が浮かぶ。
それを見つめる山吹色の大きな猫にはどんな表情も浮かんでいない。
ただ、緋色の双眸は鮮血を注ぎ込んだかのように不気味に煌めいていた。
時は宵の口。
長い間心を奪われたかのように月を凝視していたその赤い眼は、
どこかから聞こえて来た犬の遠吠えを合図にしたかのように瞼の向こうに消え、
再びその瞼が開かれたところを見た者は無い。
なぜならば、その時既に二つの瞳は仮面の向こうに隠れていたのだから。
「行くか」
呟いた声は太く低い。
仮面に隠されない口許が、先の無表情が嘘のように弧を描き、
硬く長い爪が埃だらけのマントとシルクハットを拾い上げる。
満月を見上げてほくそ笑んだその猫の名を知らぬ者はいない。
彼こそが犯罪王マキャヴィティ---ナポレオン・オブ・クライム。
「あれは、ファントムの仮装か何かか?」
「ファントム?」
物陰から様子を窺っていたタンブルブルータスとランペルティーザは、
僅かな気配も残さず消えた犯罪王が、先ほどまで立っていた場所を見上げていた。
「オペラ座の怪人、そこに出てくる怪人があんな格好だった筈だ。
人間たちの間では有名なミュージカルなんだろう、宣伝されているのをよく見かける」
「そうなの?あたしは知らないなあ。マキャってそういうの好きなのかしら。
帰ってきたら聞いてみるわ」
「・・・帰ってくるのか?」
狂気じみた笑みを浮かべていたマキャヴィティの姿を思い出しつつ、
タンブルブルータスは疑問を零した。
勿論よとランペルティーザが応じる。
彼女にとって、これは定期的に訪れるイベントに過ぎない。
「とりあえずあまり関知するなって昼間コリコが言いに来たわ。
あたしもその方がいいと思うし、気にせずスキンブルのお土産話し聞きましょう」
「ああ、そうだな」
マンカストラップやランパスキャットが犯罪王暴走防止作戦に加わるのは聞いていたが、
マキャヴィティと普段仲の良い猫や彼が好意を抱いている猫たちは参加を許されていない。
犯罪王の精神を刺激して事態を余計に厄介なことにしかねないという。
そういうわけで、ランペルティーザとタンブルブルータスにできることと言えば、
事が大したこともなく収まってくれることを祈るくらいだ。
*
「もう一度確認する。犯罪王を見つけたらすぐに警戒を発するように、手は出すな。
但し注意は引くように。できるだけ南へ誘導する、駅の方だ。いいな?」
カーバケッティが言うと、そこに円座になっていた猫たちは一斉に頷いた。
「下手は打たないように。ヤバイと思ったら全力で逃げることだ。
方面は間違えるなよ、誘導だろうが逃避だろうが駅の方に向かえ。
もし誰かの警戒が聞こえたらフォローに向かってくれ」
「みんな慣れているから犯罪王がどんな挑発に乗ってくるかはわかるわね?
あまり調子に乗って痛い目を見ないように気を付けて。
それから、誰がどこの位置にいるかは把握しておいてちょうだい」
ディミータはカーバケッティやマンカストラップと話し合って決めた場所を、
今夜の捕り物に参加する猫たちに細かく指示していった。
彼女ら以外には、隠密チームのジェリーロラムとコリコパット、護り手のギルバート、
そしてマンゴジェリーとランパスキャットだ。
護り手見習いのジェミマは何かあった時のために教会で待機している。
「わたしは!?」
真剣に配置場所と哨戒範囲を確認していた猫たちの会議を、突然幼い声が遮った。
不満そうに口を尖らせているのは隠密として参加していたシラバブだった。
「バブ、あなたにはまだ危険なの。ね?もっと速く走れるようにならないと」
「でも、みはりくらいならわたしにもできます!」
参加させてくれと主張するシラバブに、ジェリーロラムは眉を顰めた。
頑固なところのある少女だけに説得するのは一苦労なのだ。
困っている隠密のリーダーに助け船を出そうとディミータが口を開こうとしたが、
それより先にあっけらかんとした声が割り込んだ。
「いいんじゃねえの?何事も経験した方が早い」
声の主はランパスキャットだった。
ぱっとシラバブが顔を輝かせたが、他の猫たちはそれぞれに渋い表情を浮かべる。
「黙れマンカス、お前の言いたいことはわかってる。無責任だって言うんだろう?
俺もそこまで考え無しじゃない」
「俺は何も言ってないし、お前はだいたい考え無しじゃないか」
呆れたようなマンカストラップに同意するように、マンゴジェリーが密かに頷いた。
「うるさい、俺がこいつの面倒を見る。それならいいだろう?
危なくなったら首根っこ咥えて逃げる。どうだ?ジェリーロラムの姐さん?」
「うーん・・・正直、貴方の力も未知数だから私はやっぱり反対だけど。
ディミータやカーバはどう思う?」
最終的な判断はディミータが下すのが一番良い。
納得しようとしまいと、それには従うしかないのだから。
「こいつなら仔猫一匹いても逃げ切るくらいはできる筈だ。
少なくとも、仔猫一匹逃がすくらいの時間を稼ぐくらいの力はある」
「マンカスがそう言うなら」
ディミータは少し考えて、シラバブとジェリーロラムに目を向けた。
「バブはランパスキャットと組んで。但し、条件があるわ。
誰かの警戒が聞こえたらフォローに入るのはランパスキャットだけ。
バブは教会に向かって次の指示を待つこと。いいわね?」
「・・・わかりました」
これ以上は我が儘を通せないことくらい、聡いシラバブにはわかったようだ。
「ジェリーに負けないくらい速く走って、冷静に判断が下せるようになったら
その時はたくさん働いて貰うわね」
ディミータはシラバブに微笑みかけて、さっと話しを本題に戻した。
犯罪王は月が高くなった頃に厄介事を起こすことが多い。
しかし、今夜は少し早めから警戒を始めることにしていた。
街の猫たちにも不必要に出歩かないように言ってある。
ほとんどの猫たちがスキンブルシャンクスの話しを聞きに集まるというから、
不用意にふらりと外に出る猫はいないだろうと考えてよい。
「よし、腹ごしらえしたら配置につこう。長い夜になるかもしれないが、よろしく」
カーバケッティが締めて、会議は解散となった。
赤い月が浮かぶ夜、捕り物は始まったばかりだ。
*
夕刻にディミータからお達しがあった。
月が南に達するまでには、一部の猫たちを除いてはどこかに身を隠しておくようにと。
手を貸すのはやぶさかではないとミストフェリーズは申し出てみたが、
必要だったら呼ぶと言われてあっさり引き下がった。
もとより、犯罪王と対峙したいなどとミストフェリーズは望んでいないし、
今夜はスキンブルシャンクスの旅の話を聞く予定なのだ。
「ヴィク、そろそろ行こうか」
「ええ。楽しみね」
塒にしている廃車の屋根にいたミストフェリーズの隣に、
軽い足取りでやって来たヴィクトリアが並んで立った。
今夜は一緒に鉄道猫の土産話を聞けると無邪気に喜んでいる可憐な白猫は
当然、対犯罪王要員ではない。
「マンカスとランパスはもう出掛けたの?」
「うん、今頃最終の打ち合わせでもしてるのかもね。
まあ、話しを聞く限り事前に策を立ててもさほど効果的ではないみたいだけど」
「被害を無くすのではなく、被害を減らすのが目的ならばきっと有効よ。
あら?あれ、ランパスかしら。シラバブと一緒みたいだけど」
ジャンクヤードの方へと走っていく姿はすぐに見えなくなったが、
ミストフェリーズの目にも弟と少女のように見えた。
「シラバブは確か隠密チームの一員だし、伝達の役目でも負っているのかもね。
ランパスは差し詰めその護衛といったところかな」
「すごいのね、シラバブは。あんなに小さいのに犯罪王を追うなんて」
「勇敢なのと無謀なのは紙一重だけどね」
「あんな幼子にも手厳しいのね。可愛い弟君を取られて妬いている?」
くすくすと笑うヴィクトリアに、まさかと言下に否定したミストフェリーズは、
その話題は終わりと言わんばかりに地面に降り立った。
すぐにヴィクトリアもその後を追う。
人々は家で寛いでいる時間帯だ、通りにはヒトや車の影はほとんど無い。
ジャンクヤードを抜けて北に向かっても特に危険は無いし、それが一番近い。
家々が並ぶ通りを、黒猫と白猫は軽く駆けてゆく。
「本当に素敵な満月ね。星も綺麗だし、踊ることができればいいのに」
「そうだね、いつかそうできるといいけど。
でも、今夜ばかりはディミータの方針に従わないと。
ルールを破って追い出されることは避けたいからね」
ディミータから提示された唯一の条件。
それは街の秩序を乱さないこと。
何度か遭ったラム・タム・タガーはかなり自由な男だったが、
追い出されていないということは、彼の生き方は許容範囲なのだ。
どこまで何をしてもいいのか、ミストフェリーズたちにはまだわからないのだから、
指示されたことを故意に反故にすることはできない。
「犯罪王と言ったって、実態はあのマキャヴィティなんだし。
僕と違って普通の猫だからね、たぶん封じ込めるのに苦労はしないよ」
「私もそう思うけれど、そうは言ってもその名も轟く犯罪王だもの。
普段は隠れている力があるのかもしれないわ」
「まあね。力がある程、無闇にその能力を晒したりはしないかな。
後でマンカスたちの話を聞いてみよう、何かわかるか・・・も?」
ジャンクヤードを横切りながら話していたミストフェリーズは、
突然視界に飛び込んできた黒い影に驚いて立ち止まった。
ヴィクトリアも同じように驚いた表情で動きを止めている。
「私の噂か?黒猫よ」
低い声だ。
大柄だが隙のない所作。飛び降りてきたときも物音一つ立てなかった程だ。
禍々しいオーラを放っているにも関わらず、目の前に立たれるまで
ミストフェリーズもヴィクトリアも気配を感じてすらいなかった。
「犯罪王かい?」
怯えるヴィクトリアを背後に庇いながら、
ミストフェリーズは驚きを隠して犯罪王の仮面の奥へと目を向けた。
「まさしく」
「こんなに早くお出ましなんて聞いてないんだけど。
僕は君の相手をする予定は無くてね、通して貰えないかな?」
挑発するでもなく、平静を装ってミストフェリーズは首を傾げてみせた。
お願い事なんて犯罪王に有効なのかはまるでわからないが、何もしないよりいい。
「かまわんよ」
これでダメなら次の手段をと、脳内を忙しく働かせていたミストフェリーズだが、
犯罪王はあっさりと通れと言う。
「そりゃどうも」
「ただし」
犯罪王の口許が不敵に歪む。
ミストフェリーズは僅かに眉を顰めた。
「そこの白猫は置いていけ。私は美しいものに目がなくてね」
背後でヴィクトリアが息を呑むのがわかり、
ミストフェリーズは目を険しくして犯罪王を真っ向から見据えた。
「できるわけないだろう?」
「簡単なことではないか」
「ヴィクに少しでも触れてみろ、容赦はしない」
「面白い」
犯罪王は太い爪を舐め、仮面の向こうから黒猫へと目を据えた。
「良い度胸だ。はったりではなさそうだが」
「言っておくけど、あんたごときでは僕に歯は立たないよ」
「自信があるようだな。そんなにそこの白猫を好いているのか」
嘲るような犯罪王の口ぶりにも、ミストフェリーズは表情を変えない。
白と黒の奇妙なオッドアイが静かに煌めくのみ。
「好きとか嫌いとか、そんなのどうでもいい。
僕にはヴィクが必要なんだ、それだけだよ。どう解釈しようと自由だ」
「ミスト、力は抑えて。言って通じる相手じゃないわ」
目の前の大きな雄猫に怯えながらもヴィクトリアが囁く。
ミストフェリーズは返事をしなかったが、その声は確かに聞こえていた。
彼女の声が波立つ感情を少し穏やかにしてくれるのだ。
「まあいい、置いていかないというなら連れて行くまでだ」
「あんたも怖いモノ知らずだね、それに分からず屋だ。
ヴィクに手出しすることは許さないよ、それ以上近づいたら吹き飛ばすからね。
力の加減を間違えると木っ端微塵だ、気を付けた方が良い」
仮面に隠れないマキャヴィティの口許は余裕の笑みを浮かべている。
ミストフェリーズは犯罪王がどう出るか、じっと待った。
ここ暫く、世間が魔術と呼ぶような力を使ったことはない。
加減ができるかどうか、術者である彼自身にもわからなかった。
「それで私が怯むとでも思うか?」
犯罪王が躊躇うことなく一歩を踏み出す。
後ろでヴィクトリアが怯える気配を感じて
ミストフェリーズの中で何かが音を立てて切れた。
「わからないね、あんたも!」
激昂と共に、ミストフェリーズの白と黒の双眸が急激に色を持ち始める。
「ミスト!」
名前を呼ぶヴィクトリアを振り返り、ミストフェリーズは微笑んだ。
「ヴィクのことは僕が護るよ、心配ない」
「私は大丈夫、大丈夫よ。だから力は抑えて」
色を取り戻して金色に輝く二つの目を見つめ、ヴィクトリアは縋るように言った。
黒猫の微笑みは消えない。
「そうもいかないんだよ、ヴィク」
静かにそう言うと、ミストフェリーズは正面を向いて犯罪王を睨め付けた。
すっと息を吸い込み、身体の奥底にある力を感じて口を開いた。
「イム・ナーメン・フレイヤ!」
犯罪王の口許から笑みが消える。
悪魔の血を引く黒猫の爪の間から輝く光が溢れ始め、それは段々と強くなる。
ぱりぱりと乾いた音がやけに大きく響く。
とん、と軽くミストフェリーズが地を蹴った。
その小柄な身体は驚くほど高く宙に舞う。
「言ったはずだ、犯罪王。容赦はしない」
「待て、兄貴!」
逃げようともしないマキャヴィティの前に影が一つ飛び込んで来る。
同時に、黒猫の光り輝く掌から雷のような衝撃が放たれる。
「ドロックウェル!」
衝撃音と共にゴミの山が崩れる。
どんなに猫たちが飛び乗ろうと崩れなかった重量のある本までもが
雪崩を起こしたかのように崩れ落ちてゆく。
それを見ながらミストフェリーズは地に戻った。
「莫迦なことを」
ぽつりと呟いたミストフェリーズの目はまだ金色を湛えている。
その目が見つめるのは、流石に立っては居られなかったようだが
ゴミ山が崩れる程の衝撃を受けたとも思えないほど平然としている犯罪王。
そして、彼を庇うかのように立っている白黒のぶち猫。
「ダメだ、兄貴」
「ランパス、許しちゃいけないこともあるんだ」
そこをどけと無言で迫るミストフェリーズに怖じ気づくこともなく、
四肢を踏ん張るようにしてランパスキャットは兄猫を見据えた。
「ミスト、ランパスまで攻撃してしまうわ。もう終わりにしましょう」
「ヴィク、知ってるよね?ランパスに僕の攻撃は利かない」
そうでなければ今の衝撃波を受けて無事でいられる筈が無い。
まだ、ミストフェリーズの中には鎮めることのできない憤りが渦巻いている。
そして、こうして力がわき起こるときだけ、彼の世界は色を取り戻すのだ。
「力を使うのも久々だから心が震えるよ」
白と黒の目で見る世界はモノクロ。
金色の目で見つめる世界は色に溢れている。
月も星も美しい。
そして、満月は力を最大限に引き出してくれる。
「解放してしまいたいよ、全部ね」
薄く笑みを浮かべ、ミストフェリーズは崩れていないジャンクのパイルを駆け上がった。
「みんな言うんだ、僕が喉を鳴らすと雷が鳴り出すってね」