08:邂逅 -君が気に入らない-
遅くまで走り回っていた子ネズミたちを寝かしつけ、
ジェニエニドッツは穀物の匂いが籠もった地下の貯蔵庫から這い上がってきた。
ここは、いくつかある彼女の寝床のうちの一つで、
夏はひんやりと涼しく冬は暖かいという優良物件だが、ネズミが多いのが玉に瑕だ。
ここの持ち主の人間も辟易しているらしく、
勝手に住み着いたジェニエニドッツネズミ駆除を期待しているのか、
寝てばかりの彼女を見ても追い出そうとしたことはなかった。
「全く、今度の子たちは元気が良すぎるったらないわね」
そこが可愛いのだけれどと胸の内で呟いきながら、
ジェニエニドッツはぐいっと身体を伸ばした。
だが、何かに気付いたかのように丸い耳をぴくりとさせて動きを止めた。
街の猫たちはおばさんだと言うが、まだまだ感覚は衰えていない。
背後に気配を感じ、ぱっと身体を翻す。
「誰だい?」
警戒するように睨め付ける視線の先で、しなやかな肢体の雄猫がゆるりと尻尾を揺らす。
姿形はカーバケッティに近いようだが、朝の薄明かりに映える毛並みはもっと鮮やかだ。
見慣れない猫だった。
しかし、その雄猫が纏う気配には何故か覚えがあるようにジェニエニドッツには思えた。
「俺だよ」
雄猫の声は低く、さほど大きくも無いのに静けさに満ちた夜明けの庭によく響いた。
ジェニエニドッツは目を眇めて見知らぬ筈の雄猫を見やっていたが、
すぐに驚いたように瞠目した。
「・・・生きて、いたんだね。そうだとは思っていたけどね。
一体今までどこにいたんだい?どうして今になって戻ってきたの?」
「話したいことはいっぱいある。けど、まずはディミに会わないと」
「待ちなさいよ。あの子に会ってどうするつもりだい?」
咎めるような目を向けられた雄猫は、ふいと目を逸らして幽かに笑みを浮かべた。
口許を歪めるようなその笑みには酷く暗い影が漂っている。
「どうするのが、いいんだろうな?
最初から全部説明するつもりだけど、聞いてくれるかはわからない」
「聞くだろうさ。どう思うかは、わたしにもわからんけどね」
「だったらやっぱり話すだけ話してみるさ。それでもう一回ここに来る」
それならさっさと用を済ませて後から来れば良かったのに、とジェニエニドッツは思う。
その考えはあっさりと相手に伝わったのか、雄猫は苦笑を零した。
「やっぱりさあ、懐かしかったんだ。早く会いたかったんだよ、母さん」
*
うとうとと微睡んでいたディミータは、突然やって来たジェリーロラムに起こされた。
隠密の頭である彼女がこんな時間に来るなど、緊急事態以外の何者でもない。
親衛のカーバケッティやギルバートが飛び込んで来るのとは訳が違う。
他所の街の猫といざこざを起こしたり、街の猫たちが大げんかをしたり、
そんなありがちなトラブルではジェリーロラム自身が動くことは無い。
「何?」
素早く身を起こしたディミータに、ジェリーロラムは困惑したような表情で向き合った。
「黒猫たちが来たわ」
「もう?」
訝しがるように目を細めたディミータに、
ジェリーロラムの後ろに立っていたコリコパットが頷いた。
「黒猫はどこにいるかわからないけど、仲間らしい猫を見かけた。
よく似た毛並みで小さいのと大きいのがペアだった、あと銀縞の雄猫も見た」
「まだ調査中だったけど、黒猫の仲間と思われる猫たちの特徴と一致するわ。
特にペアの猫は黒猫の護衛というのが私たちの見解よ、
ならば黒猫も近くにいたって不思議じゃないわ」
噂が届いてから短期間でジェリーロラムたちはよく調べてくれていた。
ディミータがその情報を疑う理由は無い。
「不思議な猫たちね。まだまだ遠くにいると思っていたのにもうここに来るなんて。
何にしても、勝手に街に入り込んだ猫たちを放置するわけに行かないわね。
行きましょう。何が目的なのか、会って話す方が早いわ」
ディミータの決断は早い。
受け入れるのか拒否するのか。
もう彼女に悩んでいる時間は無い。
「ひとまずジャンクヤードに行きましょう。コリコはカーバとリーナに声を掛けて。
もし途中で他の誰かに会ったら、見知らない猫とはトラブルを起こさないように、
スルーしてくれぐれも敵意は見せないようにと言っておいて」
「了解」
返事するや否や、コリコパットは身軽に駆け出した。
「行きましょう、ジェリー」
ディミータが先頭を切って飛び出していく。
ジェリーロラムがそれに続き、シラバブはその後を懸命に追った。
すっきりとしない朝靄の街をジャンクヤードに向かう。
そこが作戦基地にようなものだ。
*
「あ?」
「ん?」
整った顔を顰めてラム・タム・タガーがジャンクヤードのゴミ山を見上げれば、
そこでくつろいでいた黒猫がそれに気付いて目を丸くする。
「誰だオマエ」
「そっちこそ。初対面でオマエなんて、礼儀がなってないね」
むっとしたラム・タム・タガーが言い返す前に、黒猫が彼の前に飛び降りてきた。
そんなモーションはまるで無かったのに、稀に見る身体能力の持ち主だ。
「僕はミストフェリーズ。念のため言っておくけど、勝手にここにいるんじゃないよ。
そこのギルバートとタントミールにここまで案内してもらったんだ。
ところで君は?随分と趣味の良い格好をしてるね」
「どっちが失礼だと思ってんだこのガキが!オレ様はラム・タム・タガーだ!」
「ガキだって?僕が?そんな風に言われたのは100年ぶりくらいだよ」
ミストフェリーズは満面の笑みを浮かべるが、対象的にタガーの表情は歪んだ。
「頭おかしいんじゃないかコイツ、とか思ってるでしょう?」
「当たり前だっつの。妄想癖のある仔猫ちゃんかよ、面倒くせーな」
「全然信じてないね」
「信じる方がどうかしてるんじゃねえの」
噂の黒猫と街一番の捻くれ者が言い争っているのを、
ギルバートとタントミールは不安な面持ちで見守っている。
「大丈夫かしら」
「さっきの感じからして、あのミストフェリーズとかいう猫はそこそこ口達者のようです。
タガーが突っかかってくるのを楽しんでいるだけだと思いますよ」
「だったらいいけど。何だかちょっと、あの黒猫は苛立ってるみたいに見えるのよね」
タントミールの褐色の目が黒猫と派手な豹柄の猫を交互に見ている。
ギルバートがよくよく見ていると、ミストフェリーズの尻尾は不規則に揺れていた。
苛立っているのかはわかりかねるが、落ち着かない状態なのは確かだ。
「あまり刺激しないでほしいですね・・・」
「だったら止めればいい」
ぽつりと呟いたギルバートの背後から低い声が割り込んでくる。
同時に振り向いたギルバートとタントミールは、反射的に警戒する体勢になった。
静かに佇んでいるのは長身痩躯の雄猫で、切れ長の双眸が冷たい印象を与える。
「そう警戒するな。俺はあのミストフェリーズに付き従ってきただけだ。
誰とも揉める気はないし、厄介事は御免だ」
「で、僕に止めろと言うわけですか?残念ながら僕の手には負えない相手です。
あの男自体がが厄介事そのものですからね」
「ふうん、ならば放っておけ。ミストもそうそう爆発はしない」
細身の雄猫は興味も無いようにそう言うと、軽々とゴミ山を登っていった。
彼を待っていたかのようにゴミ山の上から小さな雌猫が顔を覗かせる。
そっくりな毛並みだが、雰囲気はいくらか柔らかい。
その雌猫がギルバートに向けて微笑みかけた。
「ごめんなさいね、ちょっと事情があるのよ」
「事情?」
「ええ。また後で説明するわ」
そう言うと、雌猫は一方的に頭を引っ込めてしまった。
自分が追及しても仕方ないかとギルバートは溜め息をついて、
諍いをしているミストフェリーズとラム・タム・タガーにちらりと目を向けた。
「・・・って、そもそもオマエが突っかかって来たんじゃねえかよ」
「別にそういう意図はないよ。ただ君の顔が気に入らないんだ」
「知るか!そりゃオレの所為じゃねえよ!」
傍から聞いていれば子供の喧嘩のようで不毛な言い争いだ。
それは当事者たちにもわかっていたのか、どちらからともなくそれは止んだ。
「意味わかんねえ。あいつら誰だ?」
ラム・タム・タガーは乱れたファーを整えながら舌打ちをしている。
「噂の黒猫ですよ」
「噂?何の噂だ?」
「こないだボンバルが伝えたでしょう?聞いていなかったのですか?」
「聞いてねえな」
本当にボンバルリーナが伝えていなかったのか、
それともラム・タム・タガーがまるで聞いていなかったのか、それはわからない。
「不思議な力を持つと噂の黒猫一派で、通称はディアボルス。
色んな街を彷徨ってここまで辿り着いたみたいです」
「何だその舌を噛みそうな通称は。それに何が目的なんだ?
あんなトチ狂ったガキが何でふらふらしてんだよ」
「その目的がわからないから僕らも困っていたんですよ。
変に警戒したり刺激したりしない方がいいかと思っていたのに」
ギルバートは何度目かの溜め息を吐くが、ラム・タム・タガーはまるで納得していない。
「取りあえず、ディミータが来るまでは変なことしないで下さいよ」
「しねえよ。あいつらに用はねえし、オレ様は帰る」
不機嫌丸出しのまま、派手に金属ベルトの音を響かせてラム・タム・タガーは去っていく。
その後ろ姿を見送って、ギルバートは再び黒猫の方に注意を向けた。
ミストフェリーズは何故かラム・タム・タガーの去っていった方を見つめている。
「ミスト?」
固まっている黒猫の隣に、ふわりと白い猫が降り立った。
見事に白い毛並みは、弱々しい太陽の光にすら銀色に輝いて見える。
首輪に付いているターコイズブルーの飾りがさらに目を引く。
「ああ、ヴィク。何でもないよ」
ぎこちない動きで美しい雌猫を振り返ったミストフェリーズはそのまま目を伏せた。
「何だかね、とても似ているんだ。あの色男の何がどう似ているか僕も不思議なんだけど。
でも、彼を見た途端に僕の盟友を思い出したんだ。何でだろうね」
「似ているのが気に入らなかったの?」
「まあね。似ていると思ってしまったことが気に入らなかったのかも」
はにかむミストフェリーズを見てヴィクトリアはクスクスと笑う。
「不思議な街ね。貴方と子供みたいに喧嘩する猫が居るなんて」
「そうだね。ちょっと気に入ったな」
ミストフェリーズが笑みを浮かべながら目を上げると、
その視界の端に走ってくる猫たちが目に入った。
ギルバートとタントミールも気付いたのか道の方に顔を向けた。
「ディミータです。彼女がこの街のリーダーですよ」