16:信じられる時を待つ -困惑の朝-
外はすっかり明るくなっている。
身体を起こしたボンバルリーナは、まだ眠っているディミータの頬にそっと触れた。
規則正しい寝息は途切れることもなくゆっくりと繰り返され、
ディミータがまだ深い眠りの中にいることを告げている。
「すぐ戻ってくるわ」
聞こえていないとわかっていながら、ボンバルリーナはそう言い置いて塒を出る。
小鳥が鳴き交わす声があちこちから聞こえ、人々の家からはベーコンの焼ける匂いがする。
「どうせなら、新鮮なお肉といきたいわね」
寝起きの身体をぐっと伸ばして準備を整え、ボンバルリーナは獲物を探して歩き始めた。
その辺りを歩けば残飯などの餌はいくらでも手に入る。
でも、今朝はディミータのためにおいしいものを持って帰りたいのだ。
混乱した様子でディミータがボンバルリーナの塒に飛び込んできたのは夜明け前。
犬の襲撃に遭おうと、仲間が大怪我を負おうと、何時も冷静に対処してきた妹猫の
そんな様子はいつも近くにいるボンバルリーナさえほとんど見たことがなかった。
ディミータは何も言わず、ボンバルリーナの腕の中で震えていた。
すぐにでも泣き出すのではないかというような表情だったが、
結局ディミータは涙一つ見せることはなくいつしか眠りに落ちていった。
「あら、美味しそう」
ボンバルリーナの目を引いたのは地味な色合いの鳥。
どこにでもいるような鳥だが、普通のサイズよりは随分大きい。
体勢を低くし、機を窺う。
「ボンバルリーナ?」
突然背後から呼ばれ、ボンバルリーナは文字通り跳び上がって驚いた。
当然、発育の良い鳥は捕食者に気付いて大慌てで逃げていく。
「あ、すまない。もしかして狩りの途中だったのか?」
「見ればわかるでしょう!?良い獲物を見つけたのに・・・」
ボンバルリーナは溜め息を吐いて、やってきた雄猫を軽く睨んだ。
思いがけない来訪者はマンカストラップだった。
「悪い。腹が減っているならこれを持っていってくれ」
申し訳なさそうに、マンカストラップは足許に置いてあった鳥を彼女の方に押しやる。
大きな鳩だ、ボンバルリーナが狙っていた獲物の倍以上はある。
大柄な身体に見合うだけの力はあるということだ。
「これ、貴方が獲ったの?」
「ああ、そこの公園にはたくさんいるからな」
「凄いわね。これは貰えないわ、貴方のご飯でしょう?」
他にもたくさんいるし、というボンバルリーナの言葉にマンカストラップは微笑んだ。
「いや、これはボンバルリーナのところに持っていこうとしていたんだ。
というか、その、ディミータにと思って・・・いるんだろう?」
「ディミなら確かに私の所にいるけど、どうして貴方が?」
ボンバルリーナは怪訝そうに眉を顰めた。
街の猫たちは、ボンバルリーナのところにいるディミータを訊ねたりはしない。
緊急事態であれば話は別だが、ディミータにとっての安息の場所だと皆知っているのだ。
マンカストラップはそれをまだ知らないのかもしれない。
「彼女がジャンクヤードに戻らなかったから何かあったのかと心配でな。
よくここに来るという話だったから来てみたんだが、手ぶらもどうかと思って」
「ディミへの贈り物?そう、だったら付いてきて。
私が持っていくのもおかしな話だものね。ディミが受け取るかはわからないけれど」
結局、ボンバルリーナは何も獲らずに塒へ引き返すことになった。
彼女はさほど空腹ではない、食事はいつでもかまわなかった。
「ここで待っておく」
ボンバルリーナの塒の前で、マンカストラップは立ち止まった。
「入っていいのよ。ディミはいつ起きるかわからないし」
「いや、さすがにレディの住処に立ち入るのは気が咎めるからな」
「紳士なのね。タガーなんて平気で入ってくるわ」
くすっと笑ってボンバルリーナは自分の塒に入った。
入り口からの光だけしかないこの場所はいつも仄暗い。
ディミータはまだ眠っていた。
「本当にすぐ戻って来ちゃったわ」
連れ戻ったのは小鳥一羽ではなく雄猫一匹だが。
囁き声だったが、ぴくりとディミータの耳が動いた。
「・・・リーナ?」
「ごめんなさい、起こしちゃった」
「いいの、変な夢を見ていたからちょうど良かったわ」
うっすらと目を開けたディミータは、おはようと言って微笑んだ。
おはようと返して、ボンバルリーナはディミータの額にキスをした。
ディミータは甘えるように喉を鳴らす。
「ディミ、起きたばかりで悪いんだけどお客さんがいるの。貴女に会いたいそうよ」
「お客さん?誰?」
怠さが残る身体を持ち上げ、ディミータはお気に入りのクッションに座り直した。
ボンバルリーナがいつものように毛繕いを始める。
「マンカストラップよ、外にいるわ」
「マンカストラップ?何かあったのかしら」
「そうではないみたい、逆に彼が何かあったのかと心配していたわ。
ディミ、ジャンクヤードに戻らなかったのでしょう?」
ディミータは小さく頷いた。
「まだ出られないなら私から言っておくけど、どうする?」
「少し目眩がするの。でも、心配させたままにはできないから会ってくるわ」
「そう。無理しちゃダメよ」
心配そうなボンバルリーナに、ディミータは大丈夫よと言う。
「リーナ、変な寝癖付いてない?」
「問題無いわ、いつもと同じように綺麗よ」
「ありがとう」
ふふっと笑ってディミータは立ち上がり入り口に向かおうとした。
足許が覚束ないなとボンバルリーナが思ったのとほぼ同時に、
ディミータはバランスを崩してクッションから転げ落ちた。
「ディミ!?」
思わず声を上げたボンバルリーナだが、ディミータは苦笑を浮かべてすぐに立った。
別に高いところから落ちたのでもない、寝起きで身体が言うことをきかないだけだ。
しかし。
「何があった!?」
転んじゃった、とディミータがボンバルリーナに言ったのとほぼ同時に
逆光を背負った大きな雄猫が勢いよく中に飛び込んできた。
ディミータとボンバルリーナはビクリとして動きを止めた。
「大丈夫か?」
シルエットになった雄猫がまた一歩中へと進む。
固まっていたディミータがふっと息を吐いた。
「・・・吃驚した」
ディミータがぽつりと呟くと、ボンバルリーナも同意するように頷いた。
「何か起こったのかと思ったんだ。勝手に入ってすまない」
「心配してくれてありがとう」
勢いよく入った割にマンカストラップは居心地が悪そうだ。
ディミータとボンバルリーナはその様子を見て小さく笑った。
「謝らなくていいじゃない、私は入っていいと言ったもの。
ディミータに用があるならここで話したら?私はいない方がいい?」
「いや、そんな内密な話じゃないんだ。何かあったのかと心配になっただけだから。
ああそうだ、ディミータ。美味そうな鳥を持ってきたんだ、受け取ってくれないか?」
「どうして私に?」
首を傾げるディミータにマンカストラップは至極まじめに返した。
「だって、捧げ物を贈って信頼を受けるのが猫との付き合い方だと」
「それは、ヒトと猫との話じゃないの?」
「そうなのか?だが、俺は確かにそう聞いたんだ」
その整った顔を顰めてマンカストラップは呻くように呟いた。
「それ、誰に聞いたの?」
「ラム・タム・タガーとかいう派手な奴だ。ここに来る前にジャンクヤードで会った」
「マンカストラップ、彼の言うことは話半分に聞いておいた方が良いわよ。
貴方は真面目そうだからからかわれやすそうだし」
気の毒にと思いながら、ボンバルリーナは今となっては遅すぎる忠告をした。
からかわれた当のマンカストラップは、しかし、怒ることもなく目を丸くした。
「俺を平気でからかう奴には初めて会ったな。面白い奴だ」
「厄介な男よ、気を付けてね」
「そうなのか?まあ、付き合ってみないとわからないからな。
おっと、早く持ってこないと誰かに攫われてしまうかもしれない。
ちょっと待っていてくれ」
さっと身を翻したマンカストラップは出て行ったと思ったら戻って来た。
手土産の大きな鳩を置いた銀縞の雄猫は、ぽかんとしているディミータに微笑んだ。
「口に合うかわからないが、貰ってくれないか?」
「受け取る理由は無いけど・・・貴方も一緒に食事するということならいただくわ。
リーナも、せっかくだから一緒にいただきましょう」
「ええ、そうするわ」
まだ仄かに温かくやわらかな鳥を割いて、三匹の猫たちは豪華な朝食を楽しんだ。
大きな獲物を捕まえる時のコツをマンカストラップが語れば、
ディミータは興味深そうに聞いて、犯罪王の捕獲に活かせないかと真剣に言った。
食事時とも思えないような話を聞くとも無しに聞きながら、
ボンバルリーナはディミータの穏やかな表情を見て安堵を覚えた。
マンカストラップは不思議な魅力を持った猫だ。
なかなか他の猫に心を許さないディミータが、悩みの種である犯罪王の話をする程に。
「美味しかったわ。ご馳走様」
「それは何よりだ、獲ってきた甲斐があった。俺は狩りしかできないからな。
こないだジェニエニドッツがご馳走してくれたんだが、
作り手の腕一つでいつも食べている物があんなに旨くなるんだと驚いたもんだ」
そうねとボンバルリーナは頷いたが、隣にいるディミータは笑みを消した。
「ディミ?どうしたの?」
「夢・・・夢を、見ていたの」
目を伏せて、ディミータは呟くように言う。
「夢って、さっき言っていた変な夢のこと?」
「そう。マムがいて、私がいて、リーナとマンゴジェリーがいたわ。タガーもね。
小さい頃みたいでしょう?でも、夢では私もリーナもおとなだった」
「タガーは随分垢抜けたわね。マンゴも小さい頃はあんなに可愛らしかったのに」
変わるものねとボンバルリーナは微笑んで言ったが、ディミータの表情は暗い。
「マンゴジェリーが戻って来ていることを知らなかったの。
ここに来る前に偶然会ったの、マムのところで」
「そうだったの?マンゴが避けていたのかもしれないわね。
しきりに貴女のことを気にしていたから、なぜ直接聞かないのか不思議だったの。
きっと貴女に重責を追わせて出て行ったことを気にしているのね」
「どうなのかしら。動揺しちゃって、結局話さずに出てきちゃったから」
夜更けにやってきたディミータが取り乱していたわけをボンバルリーナは理解した。
生死すら不明だったマンゴジェリーが黒猫と共に街に戻って来たと知ったときは、
ボンバルリーナも驚いて何と言って挨拶したかすら覚えていない。
記憶の中の彼とは違い、マンゴジェリーはボンバルリーナよりも大きく、
細身ながら立派な雄猫へと成長していた。
悪戯な光を湛えていた双眸は落ち着いて穏やかになり、笑顔も控えめだったことは、
彼と共に育ってきたボンバルリーナには少し寂しいことでもあった。
でも、もう一度生きて出会えた歓びはそんなものを凌駕していた。
「突然だったものね。彼に関しての情報は一切聞かなかったから」
「マンゴは昔この街にいたそうだな、ミストから聞いた。
不思議な奴だよな、あいつにはくだらないことも真剣なことも、何でも相談できる。
別にアドバイスをくれるわけでもないし、親身になってくれるわけでもないのにな」
マンカストラップはディミータの反応を訝しがりながら言う。
彼にしてみれば、マンゴジェリーは飄々としているが実は頭の切れる面白い仲間だ。
飾り気の無い性格で付き合いやすく、よく愚痴などを聞いてもくれた。
黒猫と共にいた仲間らがぽつりと悩み事を零した時には、
ただそれをじっと聞いていたマンゴジェリーは「わかった」と頷き、
どこか遠くを見つめながら何事かを呟いていることがあった。
何を呟いているのかマンカストラップにはほとんど聞き取れなかったが、
「どうぞお聞き届け下さい」というようなフレーズを一度だけ聴いたことがある。
「彼の生まれ持った役目だから」
「何が?」
マンカストラップは、呟くように言うボンバルリーナに目を向けた。
「歓びや哀しみ、悩み、願い、そんな想いを聞き届けるのが彼が負った役目だったの。
街を離れてもそんなことをしていたのね」
「その役目、聞いていれば今のディミータと同じじゃないか」
「そりゃね。彼がいなくなってしまったから妹のディミータが祭司を継いだわけだし」
溜め息を吐くボンバルリーナを見たまま、マンカストラップは何度か目を瞬いた。
「妹?」
「ええ、ミストから聞いたのでしょう?」
「いや、初耳だ。そうか・・・確かに、似ているな」
顔立ちは似ているとは言い難いが、ディミータもマンゴジェリーも茜色の虎猫だ。
ちょっとした仕草が似ていることにもマンカストラップは気付いていた。
ただ、彼の目には圧倒的にディミータの方が美しく映っている。
なぜだろうかと目を向けた先で、朱色の雌猫は唐突に立ち上がった。
「リーナ」
「どうしたの?」
「ちょっと外の空気を吸ってくるわ」
わかったわというボンバルリーナの返事も待たず、
ディミータは素早く入り口の方に向かって行ってしまった。
「ディミータはマンゴジェリーが嫌いなのか?」
追いかけるタイミングを完全に逃し、マンカストラップはボンバルリーナに訊ねた。
「そんなこと無いわ。ディミはマンゴが生きて戻ってほっとしているはずよ。
ディミが耐えて悩んでようやく立派な祭司になった後だとしてもね」
「これでディミータの祭司としての立場が揺らぐわけじゃないだろう?
マンゴはここの街に帰りたがっていた、今になればそうとわかる。
あいつは愛する者のためにミストと契約したと聞いた、ディミータの事じゃないのか?」
「経緯はどうあれ、マンゴは結果的に役割を捨てたのよ。
彼が街を離れてディミが街に戻ったらどうなるか、わかるでしょう?」
ボンバルリーナは入り口の方を見つめたまま言う。
ディミータの気配はまだ近くにある。
「私はディミが戻って来てくれて嬉しかった、マンゴとミストに感謝してもいいわ。
でも、ディミータが本当に幸せだったのかは知らない。
祭司はあまりに重い役目よ。兄の代わりとは言え女の子が背負うには辛すぎる」
「確かに、あれだけ毎日働いていれば体力的に相当キツイだろうな」
「それもそうだけど、それだけじゃないわ。
長老に仕え、皆の想いを聞き、平等に街の猫たちと接していなければならないの。
ディミは器用じゃないから最も大切なものを作ることをやめたのよ」
漸くボンバルリーナはマンカストラップの方に目を向けた。
ディミータを案じるような、何かを憂えるような表情をしている。
「マンカストラップ、ディミは伴侶を得ることを拒んだのよ。
家族を深く愛するのではなく、祭司として街のみんなを愛し護るために。
誰もがそれを当たり前のように思っているわ、ディミですらね」
「彼女を、役目から解き放ってやることはできないのか?」
「ディミータが望むなら祭司の役割を手放すことはできるわ。
でも、あの子は街のみんなを愛しているの。
長老とみんなの間に立つ祭司がいないことがどれだけ皆を不安にするかわかっているわ」
「だったら誰か代わりに祭司になれないのか?街にはたくさん猫がいるじゃないか。
なぜディミータじゃなければいけないんだ?」
マンカストラップは詰め寄るように勢い込んで問うた。
ボンバルリーナは小さく息を吐いて首を振った。
「誰でも良いわけじゃないの、血筋があるから。
私はね、マンゴが帰ってすぐディミのところに来てくれれば良かったと思うのよ。
"よく頑張ったな、お疲れ様。後は俺に任せておけ"とか言ってね」
ディミータがずっと待っていたのだ、正統な祭司が戻ることを。
マンゴジェリーの生死が不明の間、ディミータはずっと代役だった。
少なくとも彼女自身はそう考えて過ごしてきたのだ。
「ディミータは怒ったでしょうし、街のみんなも簡単には受け入れられないでしょうけど。
それでも、最終的にディミが望むなら祭司の役割はマンゴに戻すことができるわ。
マンゴもディミに重責負わせた引け目があるのでしょうけど、潔くないわね」
「そうか。マンゴはそういう血筋というわけか、どうりでただ者でない雰囲気なんだな。
タイミングは外したみたいだが、あいつが祭司になればディミータは俺が幸せにできる」
「え?」
思わずボンバルリーナは間の抜けた声を零した。
何かの聞き間違いかと彼女は銀縞の雄猫を見たが、彼は至って真面目な表情だ。
「彼女は、俺が誰かに必要とされる日がきっと来ると言っていた。
誰かじゃなくて、俺はディミータに必要とされたい。そう思ったんだ。
ボンバルリーナ、これはおかしなことだろうか?」
ボンバルリーナは唖然として真剣な縞猫の言葉を聞いていたが、
一つ咳払いをしてマンカストラップの目を見据えた。
「・・・おかしなことというより、貴方ディミータに惚れているのね?」
「そうなのか?それは拙いな、カーバケッティから惚れるなと言われたのに」
「貴方、もしかして天然なの?それともただ鈍いだけ?」
眉を顰めて問うボンバルリーナに、
マンカストラップは心外だと言わんばかりの表情で答えた。
「いや、鈍くはないぞ。敏捷性には自信がある」
この縞猫は完全に天然ボケだとボンバルリーナは断じた。
「おもしろいのね、マンカストラップ。ディミのこと、見守ってあげて。
あの子はまだ貴方たちに完全に心を許してはいないわ。
まずは信頼関係を築くことね。何事も時間がかかるのよ、あの子はね」
「そうだな。せっかく俺たちも住む場所を見つけたんだ、時間はあるからな」
「マンゴのことはデリケートな問題だからディミの前ではあまり話さないで。
あの子とマンゴが望むまで、外野は見守っておく方がいいと思うの。
それと、貴方が惚れた話は私たちだけの秘密ね。わかった?」
艶やかでいて愛らしい表情でウィンクしてみせるボンバルリーナに、
マンカストラップは重々しく頷いた。
「ディミを連れ戻してくるわ。ゴミは纏めて隅に寄せて置いて」
軽やかな足取りで出て行くボンバルリーナを見送って
マンカストラップは言われたとおりゴミを纏め始めた。
そして、自分に問うてみた。
「幸せって何なのだろうな」