15:帰るところ -母と兄妹-
つい最近生まれたばかりの子ネズミたちが走り回っている。
その物音で目を醒ましたジェニエニドッツは大きな欠伸をして身体を起こした。
そろそろ子守唄でも歌って寝かしつけなければならない。
彼女が住み着いている家の人間たちは皆寝静まっているのだから。
地下の貯蔵室につながる階段を下りようとしたその時、
一匹の猫が音も立てずに勝手口の隙間から滑り込んできた。
「こんばんは、マム」
ぴたりと動きを止めたジェニエニドッツは振り向いて笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、こんな時間に来るなんて珍しいわね。どうしたの?」
庭木の向こうにある街灯の仄暗い光の中でも、
突然の訪問者の毛並みはジェニエニドッツと同じ鮮やかな茜色をしていた。
「用事じゃないの、ただ何となく顔を見たくなっただけ。
もしかして、今から何かする予定だった?」
「ちょっと子ネズミたちをしつけようかと思っていただけよ。
ほら、いらっしゃい。おいしいものがあるから食べておいき」
いつ訪れても、どんなに久々でもジェニエニドッツはいつもお腹一杯食べさせてくれる。
かつてそうだったように、それが今でも自分の役目だと言わんばかりだ。
それも当然なのかもしれない。
ジェニエニドッツは血の繋がったディミータの母親なのだから。
「ありがとう」
ディミータは微笑みを浮かべて礼を言った。
どんなに立派に成長しても、時々こうして甘えることは一つの親孝行だ。
「今夜の見回りはカーバに頼んだの?」
地下へと階段を下りながらジェニエニドッツが訊ねる。
「いいえ、もう終わったわ。トラブルも無いし、犯罪王は満月まではおとなしいもの。
ジャンクヤードにはマンカストラップたちがいるから見張りの必要もないし」
「あら、随分と信頼しているのね。そのマンカストラップのこと」
「そうね」
何気なく言われたことに、ディミータはそう言えばと考えた。
今までは彼女自身が見張りに立つか、カーバケッティが交代してきた。
昼夜関係無く、見張りの役目には些細なことに気付く注意力と
いざという時のためにそれなりの腕っ節の強さがなくてはいけない。
それを両方持ち合わせているのはカーバケッティかスキンブルシャンクスくらいだった。
鉄道猫は仕事で居ないことが多く、必然的にカーバケッティを頼むことが多かったのだ。
「ミストフェリーズやマンカストラップはとても賢いわ、カッサンドラもね。
ランパスキャットやタンブルブルータスはすごく強いのを感じるわ。
彼らがもし特殊な力を持っていなくても、恐れられていたのはわかる気がするの」
「そんな子たちが街に居てくれるなら安心ね。うまくやっていけそう?」
色んなものを取り出しては皿に載せながら、
ジェニエニドッツはちらりとディミータをうかがった。
「ええ。時間を掛ければもっと打ち解けられると思うわ」
屈強な彼らは、街に足りなかった強さを補ってくれる筈だ。
歓ぶべきだ、それなのにディミータの鋭い感覚が僅かだがずっとぴりぴりしている。
複雑な表情を浮かべるディミータを見て、ジェニエニドッツは苦笑を零した。
「あんたは昔から付き合い方は上手くないからね。
でも、あんたが望むならきっとあの子たちも打ち解けて力になってくれるわ」
「そうあってほしいわ」
目の前に用意された皿に食べきれないほどの食べ物が載せられている。
ジェニエニドッツはいつも保存がきく料理をたくさん作り置いているから、
どんな時でもさっと食べ物が出てくる。
「こんなものしか出せないのよ。前もって言ってくれれば準備もできるけど」
「いいの、こういうのは懐かしい味がして好きだから」
ディミータの口許に淡い笑みが浮かぶ。
餌を口にしても警戒を続けなければならない外での食事と違って、
ここに居るときは彼女も懐かしい想いに浸ることができる。
彼女が食事を口にしようとしたまさにその時、誰かが階段を下ってくる足音が聞こえた。
はっと顔を上げたディミータは、耳を動かして警戒するように身体を強ばらせる。
ジェニエニドッツは警戒することもなく、もう一つ皿を用意しようと立ち上がった。
「あー疲れた。お、良い匂いがする」
暢気な声が聞こえてくる。
ディミータは身体ごと階段の方に向いて警戒していたが、
聞き慣れない声の主はまるで家に帰ってきたかのような気軽さだ。
何者かと目を眇めるディミータの視界の端に赤い毛並みが揺れた。
「母さん、何かあるなら貰っても・・・」
最後の一段を下りようとした体勢のまま、赤毛の猫は凍り付いたように動きを止めた。
そして、その雄猫を見ていたディミータも瞠目したまま固まった。
「お帰り。随分埃っぽい匂いだけど、何をしてきたの?」
振り返って問いかけたジェニエニドッツは、漸く様子がおかしいことに気付いた。
「マンゴ、ディミータ、見つめ合ってどうしたの?」
お互いを凝視したまま瞬き一つしない息子と娘を見て、
何事かとジェニエニドッツは訝しがるように訊ねた。
「マンゴ・・・ですって?マンゴジェリー?本当に?」
先に凍結から解けたのはディミータの方だった。
独り言のように呟いた彼女の表情は消え、少し青ざめている。
「ああ、そうだ。本物のマンゴジェリーだ」
観念したように、マンゴジェリーは階段を下りてその場に座り込んだ。
「何て言えばいいのか、まだ考えている途中だったのになあ」
「考える?何を?どうして・・・生きていたなら何故」
混乱したように早口でディミータを見て、マンゴジェリーは眉を顰めた。
彼にしても、まだ会うつもりは無かったのだ。
「理由があった、それは確かだ。すげえ自分本位な理由だ、とても言えない。
帰ってきたのは状況が変わったからだ。元は帰るつもりも無かった。
でも、ここしかもう残っていなかったんだ。俺たちにとっては」
「俺たち?」
「もう会っているだろう?ミストたちだ。俺は黒猫と契約をした、奴等の仲間だ」
力なく首を振るディミータと、哀しげに溜め息を吐くマンゴジェリーを見て
ジェニエニドッツは眉を寄せた。
「あんたたち、今まで顔を合わせていなかったの?
マンゴが帰ってきてもう随分経つじゃないの」
「わからないわ、どうして?自分の立場よりも重要なことだったの?
貴男が消えたから私は」
困惑の中で疑問しか出てこないディミータがふと言葉を切った。
そのまま床を睨むように下を向いて暫く沈黙したかと思えば、
何かに思い至ったのか微苦笑を浮かべて目を上げた。
「もしかして、私のため?」
問うてはいたがディミータはほぼ確信していた。
「私を街に残すために、私の自由のために、そうでしょう?
私は確かに車に乗せられたの、それなのに街に戻るなんてあり得ないもの」
マンゴジェリーは少し驚いてディミータの目を見つめた。
彼が知っていた妹は感覚の鋭い少女ではあったが切れ者という分けではなかった。
生来頭の良かったマンゴジェリーとは違い感情的で快活な少女だった。
それが、今では理路整然としかも素早く物事を考えられるようになっている。
そうあらねばと考え、誰に知られるでもなく彼女は努力してきたのだ。
全ては、突然消えた兄の変わりに祭司の役割を果たすために。
「・・・ごめんなさい、マム。これをマンゴジェリーにあげて。
私、オールドデュトロノミーに会いに行く予定だったの。そろそろ行くわ」
呟くように言って立ち上がったディミータにマンゴジェリーは何か言いかけたが、
結局は言葉を紡ぐことなく目を逸らした。
「また食べにいらっしゃい」
「ええ、そうするわ」
ぎこちない笑みでジェニエニドッツに答えると、
ディミータはマンゴジェリーの横をすり抜けて足早に階段を上がっていった。
溜め息を吐いてその後ろ姿を見送ったジェニエニドッツは、
険しい表情を浮かべているマンゴジェリーに向き直った。
「早く何とかしなさいよ。こういうのは時間が経つほどこじれるからね」
「そうだな。なあ、母さん、どうすればよかったのかな。
俺はディミータが寂しくないようにと思っただけなのに・・・上手く行かないよな」
「あの子がここに戻って来てくれてあたしは嬉しかったけどね。
でも、ああいう立場に立つというのはどうしても孤独な部分があるものよ。
大丈夫、あの子にはボンバルやカーバ、ジェリーも付いているわ」
マンゴジェリーがディミータを自由にするために取った手段は、
結果的には多くの猫たちを歓ばせたが祭司の血筋を背負う兄妹には重荷となった。
「他に手段は無かった。でも、その手段が正しかったかはよくわからない」
「もう過ぎたことだよ。そんなにディミータのことで気に病むなら
あんたがもう一回祭司になったらいいじゃない」
「簡単なことじゃない」
全く簡単ではないのだ。
しきたりもそうだが、それぞれの猫たちの想いもある。
「とにかく、早くそれを食べてしまいなさい。今日は一階で寝ておくれ。
子ネズミたちを躾けないといけないからね」
「わかった」
一つ頷いて、マンゴジェリーは黙々と食べ物を口に入れては咀嚼する。
祭司でありリーダーでもあるディミータに、
今更何をしてやることができるのか、彼にはわからなかった。
*
割れた板の隙間から幾筋も朝の光が差し込んでくる。
スクラップされてもとが何かもわからないがらくたの山には、
雨風をしのげる空間が幾つもあった。
その一つに潜っていたランパスキャットは、欠伸をして身を起こした。
隣ではクリーム色の仔猫が光と戯れるかのように手を伸ばしている。
「止んだか?」
「あ、おはようございます。すっかり晴れたみたいですね」
突然の雨に遭ってここに潜り込んだのは夜も更けた頃だった。
ランパスキャットだけであれば、多少危険を孕んだ場所を通ってでも寝床に帰ったが、
傍にいたシラバブを連れて物騒な場所をすり抜ける気にはなれなかったのだ。
「まったく、付いてくるなと言ったのに。
お前と夜を明かしたなんて知れたら何を言われるやら」
「でも、私はランパスキャットさんといるのが楽しいです。
色んなところを冒険できるし、狩りをする時なんかは本当に格好良くて!」
「あのなあ・・・」
きらきらと大きな目を輝かせる仔猫相手には強く出ることもできず、
諦めたようにランパスキャットは目を逸らして身体を伸ばした。
「それにしても、お前の保護者はよく俺なんかと一緒に出掛けるのを許すよな」
「ジェリーロラムさんですか?」
「そう。あの喰えなそうな女優猫だ」
毛並みこそ地味な色合いだが、あふれ出るオーラがやはり普通ではない。
女優業をしながらコリコパットとシラバブを仕事ができるように育て、
なおかつ自身も隠密としてリーダーのディミータを支えているのだ。
半端なバイタリティではそこまでできる筈もない。
「俺は兄貴みたいに力はないけど、お前たちが悪魔と呼んでいるものの血が入っている」
「だったら私は皆さんが天使と呼ぶものの血が入っていることにします。
そうしておけば中和されてちょうど良い感じじゃないですか?」
「いや、そういう問題じゃ無いと思うが」
無邪気で愛らしいシラバブだが、その幼さに似合わず
口論でおとなたちを言い負かすほどの知識と賢さが備わっている。
これがジェリーロラムに育てられた結果なのだとしたら、やはり彼女は凄い。
「ランパスキャットさんと一緒なら犬に襲われても大丈夫とみんな知っていますし」
「俺が襲ったらどうする?」
「そこは問題無いとミストフェリーズさんが言っていました。
そんな甲斐性も無いし、分別は一応あるし、とか何とか」
ミストフェリーズが言いそうなことだとランパスキャットは溜め息を吐いた。
そもそも、そういう話を幼い子に聞かせること自体少し間違っている。
「まあ安心しろ、俺が相手にするのは喧嘩して手応えのありそうな奴だけだ」
その血の所為なのかは判然としないが、
ランパスキャットは争い事に好んで飛び込んでゆく傾向にある。
相手が猫でも犬でも躊躇というものがない。
戦闘センスの良さもさることながら、体格差があっても当たり負けしない。
身体の大きさが倍以上ある犬とぶつかっても平然としているのだ。
そこまでいくとさすがに普通の猫では無いと、周りの猫たちも警戒する。
「それにしても、お前といると何だか眠くなる。
もうちょっと寝ておけ、俺はそもそも朝と昼は嫌いなんだ」
「そんな、私は朝と昼が大好きなのに。光が煌めいてとても綺麗じゃないですか。
雨も止んだしお散歩しましょう。昼行灯は良くないですよ」
「猫は夜行性だ!」
ランパスキャットは唸ったが、シラバブはきゃっきゃと喜ぶだけだ。
「悪魔の血でも日の光に当たったからといって燃え尽きたりはしないでしょう?
大丈夫です、お日様の元なら私が護ってあげますから」
「おー・・・心強く無いな」
「失礼ですね、私だってちゃんと体力作りしているんですよ」
むっとして頬を膨らませるシラバブを見て、ランパスキャットは小さく笑った。
体力作りなんて、日々餌を探して走り回っていればいやでもできてしまう。
それでも、外の世界を知りたいが故に健気な主張をしてくる仔猫はいじらしい。
「わかった、俺の負けだ。行こうか、帰らないとさすがに心配させるだろう」
「はい!あ、今日はあの盛り場を通りたいです」
「ダメだ、ああいう所は明るい時でもお子様にとっては物騒だからな」
ゴミ山から抜け出たランパスキャットは、色んなものに興味を示すシラバブを連れて、
家となったジャンクヤードに向けて歩き始めた。
それは、静かな早朝のこと。