05:悪魔との契約 -自由を護り自由を捨てる-
黒い夜だった。
星は出ていたのかもしれない。月も浮かんでいたかもしれない。
雲など無く、透き通った夜だったのかもしれない。
ただ、煌く夜空の輝きも、橙の光を放つ街灯も、
必死に街を走り回る華奢な赤毛の少年の目には映っていなかった。
胸に渦巻く不安が溢れ出て彼を覆ってしまったかのように、光など見えていなかった。
「何をしているの?」
闇にも浮かぶ白い壁を持つ人家のバルコニーに飛び移ったマンゴジェリーは、
唐突に聞こえてきた柔らかな声に驚いて脚を止めた。
「誰だ?」
「旅の途中なの、ただの野良猫よ」
高くも低くもない声の持ち主は、庭木の葉陰から現れた。
縞模様の毛並みだが、全体的に黒っぽい小柄な雌猫。
マンゴジェリー自身が持つような鮮やかな毛色ではなく、夜に溶けてしまいそうだった。
「この家は万全のセキュリティが施されているわ。
そこの窓を開こうものならけたたましい警報機が鳴ることは確かね」
「忍び込んだことがあるのか?泥棒には見えないけど」
「いいえ、忍び込んだことなどないわ。でも、何となくわかるのよ。
信じる気にはなれないでしょうけど。試したっていいわよ、止めないわ」
わざわざ警告したわりには突き放すような言い草だが、
落ち着いた声はマンゴジェリーの焦燥を僅かながら和らげた。
「人様を起こす趣味はねえよ。あんた本当に何者だ?
そこにいるのに気配が無い。そうだな、夜そのものって感じだ」
「それいいわね、詩的で気に入ったわ。それに感覚も鋭いし。
私はカッサンドラ、闇に愛された悪魔の僕よ」
あまり耳に馴染まない、というよりも物語でしか聞かないような言葉だ。
訝しがるように眉を寄せたマンゴジェリーに、
カッサンドラと名乗った雌猫は幽かな笑みを向けた。
「・・・なんて、言ってみたかったの」
「案外冗談ってわけでもないんだろう?少なくとも普通じゃない」
「私自身は普通の猫よ、多少の予知能力はあるけれど」
猫であれば特殊な能力の一つや二つ、持っていてもおかしくない。
しかし、マンゴジェリーが感じるのはそんなものではない。
決して馴染めないぞっとするような何かを感じるのだ。
感じたことのない大きく畏るべき力。
そして、それこそが今のマンゴジェリーが求めるものだ。
「カッサンドラ、だっけ?俺はマンゴジェリー、清き力を護る者の血筋だ」
「難しい肩書きね、聞いたことがないわ」
「けっこう貴重な血なんだぜ。まあそれはそれ、折り入って頼みがある」
マンゴジェリーはカッサンドラの反応を慎重に窺いながら続ける。
「連れ戻したい奴がいる。血縁の者だ」
「どうして私にそんなことを言うの?」
「あんたの背後に大きな力を感じる。あるべきでない力だ。
もうそういう力に縋る以外に無いところまできている」
そうしなければ、何より大切な存在と永遠に切り離されてしまう。
ここに留まらせることが幸せなのかはマンゴジェリーには判りかねたが、
それでもこのまま手が届かなくなることは耐え難かった。
「愛しているの?」
「愛している、心から」
「だったら、私が仕える悪魔に会わせてあげる。
貴方が望むような力を彼が持っているかどうかは私も判らないし、
仮にあったとしても何の対価も無しには望みは叶えられないことは理解してね」
「ああ」
その日、マンゴジェリーはミストフェリーズと契約をした。
望みを叶える代わりに、黒猫はマンゴジェリーの自由を欲した。
「別に普段の生活を制限するつもりは無いよ。
ただ、長い間傍を離れるのは契約違反になるから気を付けてね。
君は素晴らしい力の持ち主だ、呪術使いになれるよ」
「遠慮しておく」
何かとご機嫌なミストフェリーズは、その後何を要求するでもなく、
マンゴジェリーを仲間に加えて色んな街を彷徨った。
「マンゴが仲間になるとは思わなかったな」
そう言ったのは桁外れの強さを持つランパスキャットだった。
「なりたくてなったわけじゃねえよ」
「いや、兄貴が仲間にするって言えば相手の意向なんてお構いなしだから。
そんなことより、見て見ろよ。みんな白黒だろう?マンゴだけ色付き」
「頭の悪そうな言い回しだな。うわ、怒るなよ。
俺だって不思議だっつうの。ミストが何考えてんのかさっぱりわからねえ」
ぼやくマンゴジェリーに、ランパスキャットは珍しく真剣な表情を見せた。
「わかるわけがない。ずっと一緒にいる俺にだってわからないのに。
でも、こうして彷徨い続ける生き方を望んではいない。
ホームと呼べる場所がほしいだけ、終の棲家になる場所を探しているだけだ」
「ふうん。でも、俺なんか仲間にしてもなあ」
「兄貴は無意味なことはしない。マンゴは役に立っているから仲間なんだ」
盲目的にミストフェリーズを信じているランパスキャットに少し感心しつつ、
マンゴジェリーは無意識に教会のある街の方に目を向けた。
街は遠く彼方で何も見えやしないが、もうそれは癖のようなものだった。
「マンゴはいつも何か探しているな」
「そうじゃねえよ」
マンゴジェリーは自嘲気味に乾いた笑いを零した。
「何をすべきか考えてんだ」
契約を結んだ日から、マンゴジェリーはずっと考えていた。
どれくらいの月日が流れたか彼にはもうわからなかったが、
それでもずっと考え続けていた。
教会のある街の、大切な存在のことを。
そこに帰る日のことを。
*
そして漸く、マンゴジェリーは教会に辿り着いた。
夜明けの清々しい光の中に佇む教会は、記憶にある姿と何一つ変わらない。
「夜の内に清めがあったのか」
静謐な空気の中にある清らかさを感じて、マンゴジェリーはぽつりと呟いた。
悪魔と称するミストフェリーズと契約する彼の存在はあまりに異質だ。
それなのに何者も彼を拒絶しない。
「・・・俺の故郷はここだ」
知っていたことだ。
事実なのだから。
溜め息を吐いたマンゴジェリーは、ふと誰かの気配を感じて振り向いた。
眩い光が降り注ぐ道を二つのシルエットが近づいてくる。
知っている猫かとマンゴジェリーは僅かに首を傾げて目を凝らしたが判然とはしなかった。
「いったん戻るか」
喉の奥で呟いてマンゴジェリーは身体を翻した。
教会の敷地を通り抜けてそのまま仲間のもとへと走る。
ここなら、とマンゴジェリーは確信した。
この場所ならば、と。