07:来訪 -噂の黒猫-
「スキンブルって凄いのね。列車で仕事をしているのでしょう?」
タントミールとギルバートはつい今し方、
北に向かう夜行列車でにこやかに出掛けて行ったスキンブルシャンクスを見送ったところだ。
飼われていた頃は列車を間近に見ることなど無かったというタントミールは
興奮気味に尻尾を揺らしている。
「そうですね。スキンブルはうんと小さな頃から列車に乗っていたそうですよ。
今では彼も立派な乗務員ですし、彼がいないと列車は出発できないんだとか」
「素敵、できる男なのね。あんなにキラキラ笑顔だからてっきりマスコットなのかと」
「それも仕事の一つだと思いますけどね。そこ、右でしたっけ?」
どうしても駅に行ってみたいと言ったタントミールに付き添ったギルバートだが
これから見回りの仕事が控えていた。
カーバケッティはせっかくだからデートを優先しろと甘やかしてはくれるが、
役割を負った雄猫として甘え続けるのはプライドが許さないのだ。
「そう、右。でも、ここまででいいわ。行かなきゃいけないでしょう?」
「それはそうですけど、せめて最後まで送らせて下さいよ。
途中で独りにしたなんて言ったらカーバやジェミマにも怒られますし」
「カーバは優しいのね。面倒見が良いというべきかしら」
「フェミニスト、という言い方もできますね」
タントミールは小さく吹き出し、ギルバートも笑みを浮かべる。
出発の遅い夜行列車を見送った後だ、夜も遅い。
大型の動物は大抵夜に活動するし、人間の運転する車など危険も多い。
何より、ギルバートはタントミールを護りたいのだ。
「ねえ」
「何です?」
呼びかけられてギルバートは愛しいタントミールに目を向けた。
「え?何?」
「今何か話そうとしませんでした?」
「いいえ、ギルが何か言おうとしたんじゃないの?」
小さな頭を傾げるタントミールと僅かに眉を寄せたギルバートは不思議そうに見つめ合う。
「ああもう、何見つめ合ってるのさ。声を掛けたのは僕だよ」
声が降ってきた直後、声の主が塀の上から降ってきた。
音もなくギルバートたちの目の前に降り立ったのは、月夜よりも黒い小柄な猫だ。
「誰?」
まだ会ってなかった猫がいただろうかとタントミールはギルバートに囁きかけた。
しかし、既に警戒態勢に入っているギルバートからの返事は無い。
「ここらのリーダーに会いたいんだ。おっと自己紹介がまだだったね。
失礼、僕はミストフェリーズ。お嬢さん方、お名前は?」
ミストフェリーズと名乗った突然の来訪者は品良くお辞儀してみせた。
見知らぬ猫と初対面でこれほどにこやかに、馴れ馴れしくできるものかと
ギルバートは黒猫の余裕ある笑顔を訝しがるように睨め付ける。
「そんなに睨まないでよお嬢さん、何も襲撃に来たわけじゃないんだからさあ」
あくまで笑みを崩さない黒猫だが、ギルバートは戸惑ったように一歩後退った。
ギルバートの背に庇われるような格好になっていたタントミールも
困惑したように「お嬢さん?」と呟いた。
「僕は」
言いかけてギルバートは硬直したかのように息を呑んで動きを止めた。
得体の知れない違和感が背筋を走り抜ける。
彼の目の前にいる黒猫には色彩がない。
「あなたが・・・噂の黒猫ですか」
問いかけでなく、確信を持ってギルバートは言葉を押し出した。
「噂?あ、ジェリーが言ってた彷徨える黒猫族?」
タントミールにはあまり緊張感が無い。
ずっと飼われていた所為で鋭敏な感覚が鈍っているのか、
黒猫が持つ得体の知れない力に対抗できる力を持っているのか、
今のところギルバートにもジェリーロラムやディミータにもわかっていない。
「ああ、もしかして三毛の君は雄猫なの?ごめんね、三毛は女の子と思っていたんだ」
「あながち間違ってはいないですが、ひとまず礼儀として自己紹介しておきましょう。
僕はギルバート、こちらはタントミールです」
「初めまして、ギルバートにタントミール。やっぱり噂はここまで流れているんだね。
今更隠し立てするつもりも無いよ、その通り僕が噂の黒猫だよ。
そっちの君は雌猫だよね?僕、あんまり目が良くなくてね」
ミストフェリーズがにっこりとすると、タントミールは一度己の身体を見て溜め息を吐いた。
「これでも女よ。胸は無いし声も低いって言われるけれど」
「スレンダーな女の子は好きだよ、低い声も心地よくて落ち着くしね。
怖い顔しないでよギルバート。本当に、僕はリーダーに会いに来ただけだから」
「何のために?」
探るような視線を向けて、ギルバートは短く問うた。
黒猫率いる一団が近くまで来ているのは彼も聞いていた。
だが、話では来るとしてももう少し先のことだろうと言うことだったのだ。
目的もわからなければ、噂の真偽も不確かなままだった。
「話すためさ。ここに来たのもまずリーダーに会って話したいからだよ。
どんな噂を聞いたかは知らないけど、僕らは争いを仕掛けたことなんて無いよ。
話を聞いて欲しいんだ、君に話したって埒は開かないでしょう?」
「・・・まあ、その通りです。僕に重要な事項を判断する権限はありません。
ディミの、リーダーの居場所は定かでは無いのでジャンクヤードに案内します。
少し待ってもらうことになりますが、リーダーは必ずそこに来ますから」
「ありがとう、ギルバート」
どこかツンとした印象の黒猫だが、存外素直に礼を口にした。
全く敵意を感じない相手に、ましてやディミータを探しているという相手に、
問答無用で出て行けと言うほどギルバートは短絡的ではない。
「こっちです、付いてきて下さい」
ギルバートが先に立って歩き出すと、すぐ後ろをタントミールが追い、
その後ろを優雅な足取りでミストフェリーズがついて行く。
「ねえ、ギルバート、タントミール」
「何です?」
「ここは良いところだね。清々しいものを感じるよ」
機嫌良くハミングしている黒猫をちらりと見やって
こんなことで警戒を緩めるなんてまだまだだと、ギルバートは微苦笑を浮かべた。
*
眠そうにしているシラバブを抱いてジェリーロラムは子守唄を口ずさんでいた。
今夜は随分と寝付きが悪い。
時と場所を全く選ばず眠れる仔猫だけに珍しいことだ。
「バブ、まだ寝ないの?」
「ねむれないです」
「何か気になることがあるの?」
優しく問いかけるジェリーロラムを、幼子のとろんとした目が見上げる。
深く吸い込まれそうな翡翠の色は、天真爛漫な仔猫にはどこか不釣り合いだ。
「ちかくにいる気がするんです」
「いる?誰?」
「黒いつばさの、わたしのヒーロー」
時々シラバブはよくわからないことを言う。
それがこの幼子の出自に関係しているのかは判断が付きかねたが、
既にジェリーロラムはこんなことに慣れていた。
「そう、珍しいヒーローね。ヒーローはマントの方が似合いそうだけど。
そうだ、ちゃんと寝たら夢で会えるかも知れないわ」
「でも、きっとこの近くにいるんです」
「わかったわ。見かけたら起こしてあげる、約束するわ」
淡いクリーム色の毛並みを梳くように撫でてやりながら、ジェリーロラムは微笑みを浮かべた。
黒い翼と言えばカラスしか思い浮かばないジェリーロラムには
黒い翼のヒーローを思い描くシラバブの想像力が微笑ましい。
再び子守唄を歌おうとジェリーロラムはゆっくりとと息を吸った。
「ジェリー!」
「わっ」
吸い込んだ息は歌ではなく、小さな悲鳴になってジェリーロラムの口から出ていった。
「ごめん、驚かせた?」
「大丈夫、どうしたの?」
シラバブを抱えたままジェリーロラムが振り向けば、
肩で息をしているコリコパットが住処の入り口付近に立っていた。
「例の黒猫一味のことだ」
「何かわかったの?」
「全然よくわからない。わからないけど、どうやらもうこの街に来てる」
「何ですって?」
ジェリーロラムはがばりと立ち上がった。
その拍子にシラバブを落としたが、そこは幼くても猫だ。
しっかり着地したシラバブは、眠気も飛んだのかコリコパットに目を向けている。
「だって、随分離れた場所にいるって報告してくれたのは数日前のことでしょう?」
「そうだ、それは間違いない。でも、奴等の仲間を見かけたんだ」
「信じられないわ。そんなに早く移動してくるなんて。
まるでこの場所に狙いを定めていたかのようね」
動揺を隠しきれないジェリーロラムだが、切り替えは早い。
「ディミータに会いに行くわ」
「今日は何も無いし、今の時間帯だと住処で休んでると思う。
ところでジェリー。聞きたいことがあるんだ」
コリコパットは躊躇いがちに一度床に視線を落とし、
そろりと窺うようにジェリーロラムを見上げた。
「ディミは、さいしであることをやめられるの?」
*
「おー、良い天気」
どんよりとした朝の空を見上げ、ラム・タム・タガーは呟いた。
自他共に認める捻くれ者である。
「こんな朝は散歩に限るぜ」
軽快な足取りに金属でできたベルトがチャラチャラと鳴る。
お前のチャラチャラしたところがよく顕れていると皮肉混じりに言ったのは、
ディミータと共に街の安全を預かっているカーバケッティだったはずだ。
「まずは飯の調達だ」
鼻歌交じりに歩き出す色男が向かう先は、勿論ジャンクヤードだ。