始まり
海と同じ群青の目を持っていてね
それは彼らが海の神様の遣いである証なんだよ
ずっと伝えられてきたものさ
彼らを乗せた船は沈んだことがないとね
――― 龍神<ロンシェン>
彼らは神の遣いでありながら守り神そのものでもあるわけだ
乳白色の柔らかな月光。
頬を弄る夜風。
濃紺の海に突き出した岩の上に立つ海軍の長はまるで月を背負っているかのようだ。
泰然として揺るぎない。
ギルバートは手にした棒を構えることなく、腰に佩いた剣を抜くこともなく、
ただ静かにジョージの正面に立った。
表情はまるで見えない。
それでも、躊躇いや怯えはそこに僅かにすら存在しない。
「少し話をしよう」
そう言って一歩、ジョージがギルバートとの距離を縮める。
剣の柄にあった手は放されている。
それでも、ギルバートは僅かに身体を緊張させた。
話しをするということ。
それは言葉を交わすこと。
言葉はジョージが持つ最大の武器。
「誑かすつもりはない。ギルバート、君とは必ず正面から向き合わなくてはならない」
「貴方は僕に嘘を吐いたことがない。その言葉を信じます」
ギルバートはジョージの聡明さと器の大きさには尊敬の念すら抱いていた。
そしてジョージもまた、ギルバートの才能を高く評価してくれていた。
互いにその魅力に惹かれていたのかもしれない。
かつて、偉大な祖先たちがそうであったように。
「私はずっと考えていた。こうして向き合った時、私は誰であるべきなのだろうと」
「貴方はここの海を統べる者でしょう」
「そう。私は海軍の総司令官だ。私自身の想いや考えなど君には関係ないし必要ない。
今この場に必要なのは、海軍の統括者としての私と
かつての覇者の血を継ぎ無念を晴らす使命を負った君だ」
一歩を踏み出したままの姿勢で、ジョージは淡々と言葉を紡ぐ。
感情などは一切読みとれない。
「だが、ギルバート。これは総司令官としての言葉ではなく、私自身の言葉として
聞いてもらいたいと思う。今伝えておかなければならない。
私の双眸が君の姿を映し、この声が君に届く間に」
「聞きたいと思います、貴方の想いを。貴方がなぜ、ここにいるのかを」
この時が来ることを願っていた。
その実、この時が来ることは無いとさえ思わずにいられなかった。
「私がここにいる理由は簡単なこと。君らロンシェン族と解り合いたいと望むからだ」
「我らをロンシェンと呼ぶのですか。 潮の流れを知り、風を読んで船を操る術など
とうの昔に忘れてしまい、山の奥で貴方がたを許さないと叫び続ける我らを?」
「聞こえていなかったのだ、その許さないという声が。
それが聞こえた今、少しばかり遅かったようだが、何とかしたいとは思った」
ジョージの手が不意に動いた。
その手は剣に掛ることもなく、月夜の下に黒々と聳える峻厳な山々を指した。
ただ、二つの瞳が逸らされることはない。
「あの山々の中で君たちは生きているのだろう。
あそこは海軍の管轄ですらなく、正直なところ私は君らの存在すら知らなかった」
ギルバートは、目だけを動かしジョージの手が示す先を辿った。
かつて英雄を育んだ一族が、その存在すら忘れられている。
解っていたことだが、正面からその事実を突きつけられれば苦々しい想いがこみ上げてくる。
「シャム国海軍は知っての通り数多の国と部族を取り込んで大きくなってきた。
怨まれてもいよう。陸海軍とも、大小問わず内乱は繰り返し起きている」
「我らのような小さな部族の声など届かなくても仕方ないということですか」
「そうではないのだ」
手を下ろしたジョージは、憂いを帯びた声で否定の言葉を口にした。
「やはりロンシェンは特別なのだ。あのジンギスを生んだ者たちだからな。
誰かは気付いて当然のはずだが、誰もが目を逸らし続けて来た。
今ではジンギスという名ばかりが残り、部族の存在はほぼ知られていない」
「そうでしょうね。我らの声がもっと早く海軍に聞き届けられていれば
僕が今ここにいることも無かったのでしょう。
だからこそここで貴方に全てを伝え、我らの願いと誓いをやり遂げようと思います」
海を追われ、船を失ってさえ。
「僕らは海賊の血を汲む者。奪われれば、同じものを奪って報いなければなりません」
「海賊の掟とは厳しいものだな。奪われたものがジンギスの、海を統べる者の命。
時を越えても復讐を果たそうと願うなら、やはり私の命が必要なのだろうな。
とはいえ、私はそれを受け入れるわけにはいかない」
「そう、だから奪うのです。貴方ならもしかしたらこの状況ら打破するかもしれないと
考えなかったわけではないのです。でも、そうはならなかった」
ジョージはギルバートを通して、その向こうにある部族とその怨恨を知った。
知りながら、何もしないわけにはいかないはずだった。
なぜなら、ジョージはジェームスの血を継いでいるのだから。
そして彼は、今までできないことが無かったほどに優れた将なのだから。
「貴方の力量を持ってしても、管轄外でしかも大悪党を輩出した部族を気に掛けることを
海軍という組織が許さなかったのでしょう」
「そうだな。確かに、今ですら根絶やしにしておけば良かったものをという者もいる」
行動が早く的確なジョージのこと、打てる手は打ったはずだ。
それでも、いくら海軍の長とは言え巨大な組織を相手に簡単に口説ける問題ではない。
「信じるものも食べる物や着るもの、暦や話す言葉すら違う国とそこに住まう者たちを
一気に呑み込んでもそう簡単に交わることはできない。
いつまでも抵抗するなら潰してしまえばいい。これが海軍の判断だ」
「貴方自身の想いは?」
「私とてシャム族として生きて来た。異なる価値観を持つ者たちと互いを完全に
理解できるのかと問われれば、その自信はない」
また一歩踏み出すジョージの足許で、細かく砕かれた岩の欠片がざりざりと鳴る。
それほどの巨躯ではないにも係わらず、月を背負う男の影がぐんと大きくなったようで
ギルバートは木の棒を握る手に無意識に力を込めた。
「貴方も、僕らの怨嗟を知りながら聞こえないふりをしようというのですか?」
「それなら私がここにいる必要はない。
例え解り合うことができなくとも、信ずるもの、誇るものは同じように持っている。
我々の誇りのために、君らの誇るものを傷つけてきたのは誤りであったと思う。
ただ一言告げたかったのだ。すまなかったと」
もっと前の時代にこの男がいたならば。
ギルバートは目を伏せ、胸元に鈍く輝く白銀の竜をじっと見つめた。
貶められ、顧みられることのない故郷の者たちの面影がちらつく。
「その言葉、故郷の者たちのところに届けてほしかった。
それでも海軍の統括者としての貴方は、その言葉を口にはできないのですね」
「例え誤りとわかっていても、それを押し通さねば成り立たないこともあるのが国だ。
綺麗事だけで何もかもがうまくいくわけではない」
「それならば」
何も変わらないのであれば。
ギルバートは目を上げた。
「やはり僕はこの武器を置くわけにはいきません」
武器をとって何かが変わるかと聞かれれば、それはわからない。
それでも、もう他の選択肢はない。
今ここで誓いを果たすのだ。
奪われれば、同じ価値のあるものを奪う。
傷つけられれば、同じだけ深い傷を与える。
そうして生きて来た。
「貴方がいれば、もう一つの道が開けるかもしれないと思ったこともあります。
しかし、僕の目の前にあるのはやはり復讐の道のようです」
「かまわない。覚悟はしてきた」
ジョージが剣を抜いた。
無駄のない所作が美しい。
よく磨かれた刃が、月の白い光を受けて白く煌めいている。
「落ち着いたものですね」
不気味なほどに。
ギルバートは息を吸って、木の棒を構えた。
「二つ、訊かせてほしい」
「何でしょうか」
互いに手にした武器を構えたまま、言葉を交わす口調は先と変わらない。
「ギルバート、君はなぜここに来た。故郷の者たちに願われたからか?」
「そうだと思っていました。故郷では幼いころから、お伽噺の替わりに
海に生きた我々の祖先の話しを聞いて育つのです。だから僕は、故郷の皆に言われるままに
恨みを晴らし悲願を達成するためにここに来たのだと思っていたのです」
故郷のためだと信じて閉じた山の生活から海へと出て来た。
ジンギスが悪者である世界に踏み込んで、そしてわかった。
「けれども、それは口実で本当にここに来ることを望んだのは僕自身でした。
怨みに苛まれる故郷のために願いを叶えたいのです。
内に抱えるこの怒りを解き放って鎮め、全て終わらせたいと望んだのは僕です」
「そうか。それは私も同じこと。だが、それでもここに居るのは君自身ではなく、
ロンシェンの若者、ジンギスの末裔、部族を背負う者としてのギルバートだろう」
「おっしゃる通り」
それならば、とジョージは体勢を変えぬまま幾分か低い声で続ける。
「ロンシェンの者に訊く。君たちは海軍を怨み、海軍を滅ぼしたいと願うか」
「まさか」
言下に否定の言葉を口にして、ギルバートは薄く笑いを浮かべた。
「海軍を滅ぼしたいなどと願ったことは一度としてありませんよ。
許せないのはシャムのやり方であって、海軍そのものではない。
ジンギス死して以降、一度として我らの誇りが顧みられなかったことを憤るのです」
「そうか」
ジョージは頷き、深く剣を構えなおした。
月は南の空を少し越え、海からの風はとどまる事を知らず波は白く泡立っている。
「待たせてしまったな。始めようか」
「はい」
判者はいない。
勝敗はいらない。
勝つか負けるかではないのだ。
木の棒で軽く地を打つ。
それが仕掛けの合図。
岩と木が硬く乾いた音を響かせる。
相手まで目測でおよそ三間。
ギルバートは地を蹴り、棍棒を振りかぶった。
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