願い事一つ
あの夜から五度目の朝を迎えた。
ギルバートが高熱を出して寝込んだせいで出航は延期になっていた。
これぞ鬼の霍乱かと、事情を知らない隊員たちは大いにうろたえたが、
今はただ淡々と日々の鍛練と船の整備に精を出している。
「隊長大丈夫かな」
「隊長が寝込むなんて考えてもみなかったわ」
食堂を掃除していたコリコパットとタントミールは、
洗ったばかりの刺繍が入ったクロスをテーブルに広げていた。
そこに、カランカランと乾いた金属音が聞こえてくる。
錆びて使い物にならなくなった呼び鈴をつい先日マキャヴィティが付け替えていたが、
どうせならもう少し涼しげな音が良かったとタンブルブルータスが言っていた。
「誰か来たのかな」
ぱっと身を翻してコリコパットは扉の方に駆けて行く。
「どなたですか?ここはギルバート隊の宿舎ですが」
「そう。それならここであっているわ」
扉を押しあけたコリコパットの頭上から声が降ってきた。
背の低い彼はそんなこと慣れっこだが、思いがけない制服の色に驚いて相手を見上げた。
すると、なぜか相手も驚いたように瞠目して固まってしまった。
「コリコ、どうしたの?お客様ではないの?」
後から来たタントミールが訝しがって顔を覗かせる。
その瞬間、彼女の顔色がほんの少し青褪めたのは致し方のないことだった。
「し、司令官・・・あの、何かご用ですか?」
タントミールは、見つめ合って固まっているコリコパットと司令官に恐る恐る声を掛けた。
はっとしたように、総司令部の白い制服に身を包んだ司令官が目を上げた。
「総司令部司令官のメグです。ギルバート隊長にお話があって来ました。
面会は可能でしょうか?」
「は、はい。取り次ぎますので少々お待ち願います」
緊張に声が裏返らない様にするのが精いっぱいだったタントミールは、
司令官を中に通すことすら忘れて慌てて走って行った。
唖然とその背中を見送ったコリコパットは、改めてメグに向き直った。
「司令官、どうぞ上がってお待ちください」
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
上がってもらっても食堂にある椅子に座って待ってもらうしかないが、
扉の所で立たせておくよりは随分ましなはずだ。
総司令部の司令官で、しかもジョージの右腕と名高い女性が訪ねてくるなど
普通ならば考えられないことだった。
普通じゃないのだ。コリコパットには勿論、普通じゃない理由はわかっている。
「こちらにどうぞ」
「ありがとう」
すとんと腰を下ろしたメグは、手を組んでテーブルの上に置いてふっと溜め息を吐いた。
その疲れたような横顔からなぜか目を離せずに、コリコパットは暫くそこに突っ立っていた。
それに気付いたメグは、僅かな微笑みをコリコパットに向けた。
「何か付いているかしら?」
「いえ、そういうんじゃないです。すみません」
ずっと見つめていたことは確かだが、その意図はコリコパット自身にも解っていなかった。
謝って立ち去ろうとしたが、メグが彼を引きとめた。
「貴方、コリコパットでしょう?」
「そうですが・・・なぜ、名前を御存じなのです?」
「私の顔を見て何か思わなかったかしら。私は貴方の顔を見て思うところがあるのだけど」
コリコパットは思わず司令官の顔をまじまじと見つめた。
ジョージの右腕と言われる女性司令官は、評判通り恐ろしい程に整った顔立ちをしている。
確かに、コリコパットはこの司令官の横顔に何かを感じていた筈だった。
しかし、それがどういった感覚なのかは彼にはわからない。
コリコパットの戸惑いを感じ取ったのか、メグは笑みを深めた。
「家族はいるの?コリコパット」
「俺は孤児院で育ちました。覚えていないだけで血を分けた家族はいるかもしれません。
でも、海で拾われた俺を育ててくれた孤児院とこの部隊が俺の家族だと思っています」
「そう。私はやたらと兄弟が多い家に生まれたの。長女でね、末の弟は随分と年下なの」
メグはコリコパットから逸らした視線を窓の外に向けた。
そこから見えるのは精々砂浜とまばらに生えた木々くらいだが、
メグの目は何か懐かしいものに向けられるかのように遠くを見ていた。
「顔も知らない、名前もわからない、生きているかもわからない弟がここにいたらね、
私はその弟の願いを一つだけでも叶えてあげたいと思うの」
ほとんど独りごとのようにも聞こえるメグの言葉に、
コリコパットは漠然とした話の着地点を見出そうとしていた。
「なぜ・・・そう思われるのでしょうか」
「命なんてすぐに消えてしまうものかもしれないと、ふと思ってね。
ジョージ総司令官のこと、あなたは本当のことを知っているのでしょう?」
視線すら向けられていないのに、コリコパットは無意識に身体を硬くした。
「どんなに近くに居たって、大切なものはいとも簡単にこの手から離れてしまうんだと
失いそうになってようやく気付いたの。
だからね、せめて血のつながった弟や妹のお願いや我儘を一つでも聞いてあげたいの。
一つも姉らしいことができなかったって、手遅れになって後悔したくないからね」
「もしも・・・」
反射的に言葉が口から飛び出して、コリコパットは自分で驚いていた。
それでも、言葉は止まらなかった。
「俺の願いが聞いてもらえるなら、俺は一つ確証が欲しいと言います」
「確証?」
予想と大きく違ったのか、メグは疑問の言葉と共にコリコパットの方を見た。
「はい。海の神は教えてくれました。俺たちはまた、揃って海に出られると。
でも、隊長はまだわからないと言うし、カッサンドラたちも大丈夫とは言わない。
だから俺は、誰も欠けずにまた船に乗れるという確証が欲しいんです」
「なるほどね。貴方は面白いわ」
メグはふっと笑って組んでいた手を解いて服の内から書簡を二つ取りだした。
「総司令官は私に最後の決定権をくれたのよ。選択肢は二つ。
一つ言っておくと、ギルバート隊長は規則に従えば死罪よ」
コリコパットは海軍の刑罰に関する規則などとんと興味が無く勉強もしていないが、
深く考えずとも、総司令官に武器を向けるなど即死罪を言い渡されて不思議はない。
今日で全てが終わるかもしれないとわかるから、ギルバートは明日の話をしない。
「但し、これは海軍に対する罪ね。
総司令官はあくまで私的な判断で今回の結果を招いたのだからこれは適用されない」
「死罪は無いと?」
「海軍では私刑は禁じられているからね。ただ、それも総司令官の匙加減一つよ。
彼が反逆罪だと言えば反逆罪になるわ。でも、彼はギルバート隊長を買っていて、
それ以前に死罪にするならとっくにヴィクター准将が斬っているわ」
思いがけない名前が出てきて、コリコパットは目を丸くした。
その反応が意外だったのか、メグは小さく首を傾げる。
「聞いていないの?隊長が総司令官にとどめを刺す前にヴィクター准将が止めたこと」
「いえ、隊長が寝込んでいるので詳しいことはあまり」
「そう。総司令官は事前に言ってあったのよ、隊長を斬るなって。
それでも、もしも隊長が総司令官の命を奪うことになっていれば
准将は躊躇い無く隊長を切り捨てたでしょうけど」
薄く笑いを浮かべて、メグは書簡を一つコリコパットに差し出した。
「私にできるのは、総司令官が出した司令を整えて伝えることだけ。
隊長を咎める権限などありはしないわ」
「あの、これは?」
「この書簡は二つの選択肢を文章化したものよ。総司令部司令ね。
隊長に会って話してから取捨選択しようと思っていたけれど、
私はたった今貴方に渡した方の司令を捨てたの」
総司令部司令は、総司令部から直接下りてくる司令のことで
他のどんな司令よりも効力を持っている絶対的な命令だった。
書簡を手に戸惑うコリコパットに、それは好きにしていいわとメグは言った。
読んでも良いし焼いても良いという声に、慌ただしい足音が重なる。
その足音と共にタントミールの声が聞こえて来た。
「お待たせして申し訳ございません。隊長はすぐに下りてくるとのことです」
「できれば隊長の部屋に行きたいのだけど、無理かしら?」
「そ、それでしたらそのように申し伝えます」
素晴らしいスピードで去って行ったタントミールはすぐに戻ってきた。
「司令官、隊長の部屋にご案内します。どうぞ二階へ」
「わかったわ」
頷いたメグは書簡を一つだけ服の内側にしまって立ち上がった。
「コリコパット、私は正直なところギルバート隊長を暫く許せないと思うの。
だけど、ジョージの背負うものの重さを隊長なら理解できるのかもしれないわ。
だから私は隊長を憎み続けることだってできない」
女性にしては随分と背の高いメグは、コリコパットは見下ろして微笑んだ。
「私の持っているこれは、貴方の欲しかった確証というやつかもしれないわ。
そうそう、明日から忙しくなるからよろしくね」
コリコパットは敬礼をしたものの、最後に笑顔で付け加えられた言葉のせいで
言いたかったことも聞きたかったことも音にできないまま
長身の女性司令官の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「シャムの海軍総司令官が倒れたらしいよ。働き過ぎだってさ」
短剣の鞘をくるりと回してミスとフェリーズが言った。
「相変わらず耳が早いな」
水深を測っていたマンカストラップが顔を上げる。
随分沖まで来ているというのに、陸地の情報には事欠かない。
「あの総司令官が?信じられないな。過労で倒れるとは思えないよ」
一時とはいえ、共に働いていたスキンブルシャンクスはしきりに首を捻っている。
「あの男は自分がどれだけ重要な位置にいるかよくわかっているし、
それこそ襲撃でもされない限り倒れるなんてありえなさそうだけど」
「襲われたのかもな。表沙汰にできないだけで」
欠伸をしながらタガーが甲板に上がってくる。
「いや、ギルバートだよ」
「なんだマンゴ、何か知っているのか」
「勘だ」
木箱に腰掛けて剣を研いでいる赤毛の男をちらりと見て、
マンカストラップはふうんと小さく呟いた。
「まあ、お前の勘は当たるからな」
「そうだったらすごいことだよ」
スキンブルシャンクスが見えない陸地の方に顔を向けて目を細める。
「大それたこと口にしてたけど、本当にやるとは正直思えなかったし」
「失敗したら笑ってやるつもりだったのに」
つまらなさそうに頬を膨らませてミスとフェリーズが呟くと、
マンカストラップは苦笑を浮かべて海の彼方に目を向けた。
「あいつは二度と会いたくないと言っていたが、俺は会ってみたい。
純粋に勝負をしてみたいと思える男だ」
「へえ。俺はそうは思わねえけど」
ラム・タム・タガーは柵に凭れかかって、フンと鼻を鳴らした。
「あのすかした面は一発殴らねえと気が済まねえ。
船長のこともあるんだ、会ったらただじゃおかねえ」
「俺も。絶対に俺たちのことに気付いてたのに平然としてたのが気に食わないし」
マンゴジェリーは手を休めずに呟くように言う。
「会いたくなくてもそのうち会っちゃうんじゃないかな」
スキンブルシャンクスは、見えぬ陸地を見つめながら言った。
「彼らは海軍、僕らは海賊。海に居る限り、僕らと彼らは決して相容れない筈だから」
「でもさあ、総司令官倒しちゃったら海軍にいられないんじゃない?」
ミストフェリーズの意見は尤もで、そうだなとマンカストラップも頷いた。
「あいつならしぶとく居つくだろうよ」
磨いた刃を日に翳してマンゴジェリーは言う。
「特例でもあるのか?」
「そんな特例は聞いたことがないよ」
マンカストラップの問いは、総司令部で働いていたスキンブルシャンクスに否定される。
眠そうな目を赤毛の男に向けて、ラム・タム・タガーは面白くもなさそうに訊いた。
「勘か?」
「勘だ」
それぞれに想いはある。
「ああ、ひと雨来そうだな」
「またかよ。最近多いな」
「マンカス早く中に入りなよ。あんまり働きすぎるとはげるよ」
ミストフェリーズの軽口で甲板には笑いが広がる。
渋い顔をしたマンカストラップは、手にしていた道具を甲板の端に放って船室に向かった。
「ギルバート、お前が生きるなら俺はいつかお前を倒しに行く。せいぜい大きくなれよ」
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