生きてゆく
シャム国屈指の大きな祭礼、誕生祭が国中で盛大に祝われ、
その直後から年末に向けての決済で軍の者たちは大抵睡眠不足になる。
そんな年末も過ぎ、比較的穏やかに年が明けて暫く。
これもまた大きな祭礼の新年祭がつい先日催されたばかりだった。
「ただいま戻りま・・・」
買い出しから戻ったランペルティーザは隊舎の扉を開けて、数回瞬きをした。
「・・・せんでした」
入ることなく木の扉を閉じて、彼女は自分自身を隊舎から閉め出した。
後ろに続いていたタンブルブルータスとコリコパットは怪訝そうに眉を寄せる。
「ランペル、重いんだが」
「早く開けてくれよ」
不可解な行動を取ったランペルティーザがくるりと振り向いて
大きな荷物を抱えているふたりに訴えた。
「誰かいる!」
タンブルブルータスとコリコパットは顔を見合わせる。
「当たり前だろう?講義がなけりゃみんな今日は隊舎だと言っていたし」
「むしろ居ない方が驚くよな」
「そうじゃなくて、何か知らない服が見えたのよ!しかも割と派手目の!」
ランペルティーザは興奮気味だが、大きくて重量のある荷物を抱えている
タンブルブルータスにとっては誰かが要ることよりも早く荷を置く方が重要だった。
「カーバじゃないのか?あいつ、新年祭で実家に戻ってただろう?」
「そうかも。カーバとこの伝統衣装も派手だった気がするし」
ふたりに言われ、ランペルティーザもそうかもしれないと思いだしたその時、
隊舎の扉が内側から勢いよく開かれた。
「何をしているのです?」
「あ、隊長」
呆れたように立っているのは隊長のギルバート。
珍しくきちんと制服を着込んで正装をしている。
「買い出しご苦労様です。総司令官がお見えですので失礼のないようにしてください」
「総司令官!?隊長、何かしたんですか!?」
「ランペル、声が大きいですよ。大丈夫です、お喋りに来られたようですから」
総司令官はお喋りに来るような立場の者ではない。
言いたいことも訊きたいこともぐっと飲み込んで、ランペルティーザが隊舎に入る。
同じタイミングで、背を向けて座っていた総司令官のジョージが振り向いた。
「ご苦労様」
「おっ、おお、お疲れ様です!」
微笑む総司令官にどぎまぎと敬礼をしたランペルティーザと荷物を運ぶ男性隊員らは、
そそくさとその部屋を通り抜けて姿を消した。
「この衣装では驚かせてしまうようだな」
「いえ、単純に総司令官がここにいらっしゃることに驚いていたのだと思います」
ふらりと出歩くのが好きなジョージは、様々な場所に前触れなく現れては
そこに居た隊員たちの度肝を抜くようなことがしばしばある。
先ほども、ギルバートが久々に部屋でくつろいでいた時にジョージは突然やってきた。
対応に出たのがたまたまカッサンドラだったから混乱は避けられたものの、
隊員たちは驚いて自室に籠り、ギルバートは大急ぎで身支度を整えるはめになったのだ。
まともに顔を合わすのはあの夜以来だった。
しかし、ジョージは何事も無かったかのようにいつもの穏やかな笑顔で立っていた。
「王宮へ出向くとなれば、やはりこれくらいの衣装が必要だろう」
「王宮?では、新年祭に出席なさったのですね。いつもご出席でしたか?」
「例年は総監が出席なさっている。しかし、今年は国王に目通りしたくてね。
そのことで隊長に話があって寄せて貰ったんだ」
総監は海軍における名誉職で特に権限は持たない。
国内外の慶弔事に海軍代表として参加することが主な仕事と言える。
「僕に関係するようなことと思えないのですが」
「これから話す。新年祭前に一言告げておこうとも考えたのだが」
さりげなく辺りを窺ったジョージは、少し声のトーンを落として話し始めた。
「王宮では近年、優秀な近衛兵を探していてね。
国王は少数でいいから国家軍に属しない精鋭を所望されていた」
「ほう。確かに、陸海軍どちらかからとなると揉め事の火種になりかねませんからね」
「そう、国王は英明なお方だから余計な火種を抱え込む危険は冒されない。
宮廷の警備は陸軍が行っているが、王の護衛は王宮独自の兵が担っている。
しかし、求められるレベルが非常に高くなかなか適合者が見つからないのだそうだ」
そこでジョージは、微かに苦笑を浮かべた。
「私はあの日、身をもって君の身体能力の高さを痛感したわけだが」
「あれは・・・」
ギルバートは無意識の内に目を伏せた。
「手を抜くわけにいきませんでしたから。僕らはずっと鍛えられてきたのです。
何かを守るためではなく、誰かの命を間違いなく奪い去るために」
「やはり同じことを言うのだな。それが君たちの覚悟とはいえ、辛くないことはあるまい。
会ってきたのだよ、ロンシェンの郷長に」
「郷長に?しかし、貴方は新年祭に行かれたのでしょう?」
ギルバートの故郷ははるか山の奥だ。
ジョージが留守にしていた期間では、到底行って帰っては来られない。
「彼らに来てもらったのだ。新年祭で演武をしてもらいたくてね。
あの夜が明けてすぐ、アロンゾ中佐には君の故郷に向けて発ってもらった。
全てを伝えて私の親書を渡してもらうために」
「全く存じ上げませんでした。そうですか、郷長が王宮までいらしたのですね。
一度行きたいとおっしゃっていたのです。でも、穢れた我らが行く場所ではないと」
シャム王国の国王には、シャム族ではない元々この地に居た王族の血も流れている。
無論、長い年月の間にシャム族と血は混じり合っているが、
古き時代の血を受け継ぐ国王を慕う少数部族は各地にいる。
そういった意味では、国王の存在はシャム国を纏める要となっていると言えた。
「アロンゾ中佐が随分説得してくれたらしいが、どうやら王宮からも使者が行ったらしい。
ボンバルリーナ少尉は王宮の女官とつながりがつくということだったし、
ランパスキャット大尉は王宮警備もしている陸軍将の血縁だと言う話じゃないか。
詳しくは聞いていないが、その辺りの働きかけが功を奏したんだろう」
「全く、貴方にはかなわない。目を開けていなくても王宮すら動かすのだから」
微苦笑を浮かべて呟いたギルバートは、思い出したように顔を上げた。
「ところで、ロンシェンの演武はどうでした?
無骨な演武は王宮の新年祭に向かないのではないと思うのですが」
「見事な演武だった。あれほど無駄が無く勇壮な演武は初めて目にした。
国王も大変喜ばれてね、彼らを近衛兵として召し抱えるということになった」
「近衛兵として召し抱える?僕の故郷の者たちを、ですか?」
山の奥で細々と暮らし、名も知らぬ誰かの血に塗れて生きて来た。
海に生きた誇りなど遥か昔に失せてしまった部族に、
再び誇りを取り戻すことができる機会が突如として目の前に顕れたのだ。
あまりの唐突な展開に、ギルバートは暫し黙り込んだ。
「君たちの部族は武術に優れているし、しっかりと礼節を弁えている。
国王が直々に召し抱えたいとおっしゃったのだ、光栄なことではないか」
「それは確かに誉れでしょうけれど・・・郷長が承諾なさったのが不思議なのです。
彼は誰よりも、暗殺者として生きて来た我々の闇の部分を厭っていらしたはず。
今更誰かを守るために生き直すことへの躊躇いが無いはずはありません」
「そうだな」
ジョージは軽く頷いて、そして目の前に置かれていた紅茶のカップに口を付けた。
暗殺者としての過去はこの先隠し通せるものではない。
シャム国の前に立ちはだかった敗者として歴史に名を残すジンギスに纏わる者たちに
王宮という場所はあまりにそぐわないと、事情を知れば誰しもが考える筈だ。
それは、当事者であるロンシェンの者たちにとっても同じことが言えた。
だが。
「それが、どうしたというのだ?」
「は・・・?」
思いがけないジョージの言葉に、ギルバートは返す言葉を見つけられずに
開けた口を閉じることを忘れたまま正面に座る上官を見やった。
「ギルバート隊長、君は誰かの命を奪ったことがあるか?」
「ありますよ。軍に入った以上、命の奪い合いが起こるのは必定でしょう」
「そうか。私もそうだ。相手の数を減らすために、何艇もの船を沈めたこともある。
謀を持って多くの命を奪ってきたものだ。
だが、私を誰かが咎めるわけでもない。それどころか、私は褒め称えられた」
国の危機を救い敵国を追い詰めた海軍の名将として。
滅ぶか生きるかの中、命を奪う行為は栄誉にもなる。
「命を奪うことを望んだわけではない。これは仕事だ。そう言ってしまえばいい。
それで、私や隊長の行為も全て正しかったことになる。いや、間違いとは思わない。
この行為と君らの故郷の者たちのしていることの間にどれほどの差異があるのだ?」
「軍の者には自分の行為を正当化する理由があり、世間もそれを受け入れます。
暗殺者にはどんな理由があっても世間に認められることはない。知られてもいけない。
自己の行為は、自分自身への言い訳と世間の許容があって初めて正当化できるものです」
「そうかもしれんな。同じように命を奪う者であっても、世間の見る目は違う。
ただそれだけで、私たち軍の者は光の下に生き、君の故郷の者は闇に生きざるを得ない。
光の下にいる者たちこそが、闇に生きる者を作り出した当事者だというのに」
ふっと息を吐いて、ジョージは自嘲めいた笑みを僅かに口許に浮かべる。
「そうは言っても、結局のところ世界は光だけでは成り立たない。
だが、闇から抜けだそうと足掻く者を再び闇に押し込めてはいけないんだ」
「皆が貴方のような考えを持っているわけではありませんよ。
事実、僕らの先祖たちは望みもしない暗殺稼業を続けるしか生きる術がなかったんです」
「今までとは違うのだ、ギルバート隊長。
手を差し伸べたのが国王なのだからな。国王は何もかも知った上で召し抱えるのだ」
側近たちすら遠ざけた謁見の間で、国王は郷長に向かって言った。
王宮という場所が清く穢れのない神聖な場所とでも思うたか。
清く見せるために、酷く汚いことがどこかで行われているとそなた達は知っていよう。
それでも我ら王族は、そんな一面を無いかのように生きなければならない。
そなたらが望むならば光の中に出てくるがいい、私が許そう。
これまでの行いを悔いるならば、奪った命の数だけ罪を背負っていくがよい。
いつか己を許せる日が来るまで苦しみながら、しかし誇り高く生きてゆくのだ。
「ロンシェンの郷長は、王の近衛兵の証である剣を受け取られた。
随分悩まれたようだが、契約は相成ったことになる」
「そうですか。もう随分長い間故郷には戻っていませんが、そういうことであれば
僕もようやくジンギスの末裔ではなく、ギルバートという名の男として生きられます。
心から笑ったり女性に恋をしたり、そんなことを自分に許してやれそうです」
そう言ってギルバートは立ち上がり、ジョージの傍に跪いた。
左の掌に右の拳を押し当てたギルバートは、驚くジョージに向かって静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、総司令官。貴方に会えてよかった。
僕独りでは何一つ叶えられなかった想いを貴方が叶えて下さりました。
やはり貴方は、僕に嘘を吐くことはなかった」
「顔を上げてくれ、ギルバート隊長。礼を言わなければならないのは私の方だ。
君の命を掛けた覚悟が、私にこの国の進むべき道を教えてくれた。
出会えてよかったと思っている」
剣を受け取ったロンシェンの郷長が、今のギルバートと同じ仕草で言った言葉を
ジョージはふと思い出していた。
望み続けていたのです、誇りを持って生きられる日を。
彼は震える声でそう言った。
「隊長、私はヴィクター以外の者から久しく叱られたことなどなかったのだ。
だが、先日の新年祭で国王からお叱りの言葉をいただいた」
ギルバートを立たせながら、ジョージは何故か楽しそうに言う。
「ジンギスのように、シャム国と敵対した者は己の国を守ろうとした勇者であるのに、
それを貶めるような馬鹿な真似をまだ続けているとはどういうことか、とね」
「国王は少数部族やかつての王族たちに肩入れする傾向がありますからね」
「それはそうだが、おっしゃっていることは間違っていないだろう?
国王がそうおっしゃったとなれば、私は堂々と海軍の教育のあり方を変えられる。
あの場にいた陸軍将までとばっちりで叱られていたからな、向こうも変わるかもしれん」
国が成長するためにはよいことだ、と言ってジョージは愉快そうに笑う。
ジョージが見ている世界の広さに感心しながら、ギルバートは微笑んだ。
「ありゃ?あ、総司令官!?」
扉が軋む音と、重いものを置いたような鈍い音に続いて、慌てたような声が聞こえて
ジョージとギルバートは同時に振り向いた。
色彩はそうでもないが、派手な刺繍が施された衣装に身を包んだ男が目を丸くして立っている。
「ああ、カーバじゃないですか。ご家族は息災でしたか?」
「それはもう。いや、それはいいとして。と、とにかくお邪魔してすみません」
新年祭から戻ってきたカーバケッティは、大きな荷物を引きずって慌てて奥に消えていった。
その様子を不思議そうに見ていたジョージは、僅かに眉を寄せた。
「彼は歴史書誌官の家の者じゃないのか?あの家紋は新年祭の時に見かけたぞ」
「ええ、その通りです。彼の兄が王宮に勤めているそうですよ」
「ふうん。しかし、似たような服だったが今の彼の服装は少し違和感があるな。
何だろうな、一つ一つの要素が上手くかみ合っていないのか?」
首を傾げるジョージを見て、今度はギルバートが楽しげに笑い始めた。
「彼はいつもあんなですよ。どこかちぐはぐな感じの着こなしは既に名物ですね」
「ほう、そうか。面白い感性だ」
ジョージも笑う。
ひとしきり笑ってから、ギルバートはジョージに向き直った。
「不思議なものですね。総司令官の命を狙ったこの僕が、貴方とこうして話しているなど」
「そうだな。あれほど叩きのめされても、私は君を怨むことができなかった。
私はこの国の海とそこに生きる者を、君は部族の命を背負って生きて来た。
護るべきものの愛おしさとその重みは、背負う者にしかわからない」
ジョージはギルバートが背負うものの重みを理解するからこそ、命懸けの場に立った。
ギルバートはジョージが背負うものの重みが判るからこそ、尊敬の念すら抱いている。
「この重みを判り合えるのはヴィクターやメグじゃない。アドでもない。
ギルバート隊長、たぶん君だけだろう。だから私は、君にここにいてもらいたい」
「ありがとうございます。僕もここにいたいと思います。
そして、貴方の改革の行く末を見届けたいものです」
「学校で講師を勤めている君たちは改革の最前線に立つということを忘れていないか?
既に君たちは鬼講師集団と恐れられているみたいだが」
剣術などの講師をしているギルバートやランパスキャットなどが厳しいだけならまだしも、
教科担当のカッサンドラやカーバケッティもかなりのスパルタだと噂になっている。
ヴィクトリアやシラバブなどは、授業のレベルが恐ろしく高くて生徒が半泣きだという。
「軍生活は甘くないということを教えなければなりませんからね。
自分の命を守れない者が他の者の命を預かることはできません。
僕らはこの海で生きていくのですから」
「そうだな。私たちはこの海で生き、この海を守り、この海で生きる者を守っていこう」
戦で、嵐に荒れ狂う海で、命はいとも簡単に消えてゆく。
その中で愛おしい者たちを護るために、かつて彼らの祖先は命を掛けて争ってきた。
そういった時の流れの中で、正義と悪となった者たちがいた。
その血を継ぐ者たちが相見え、互いに手を差し伸べたその時、正義と悪は意味を失った。
彼らは生きてゆく。
愛おしいものを護ることができる重みと誇りを胸に。
この海で。
第参章 了