矜持
夜がうっすらと開け始めた頃、居住区の衛兵が扉を叩く音でメグは起こされた。
衛兵に言われるままに外に出ると、厳しい表情のヴィクターが佇んでいた。
「ヴィクター、どうしたの?それに、何これ。血の匂い?」
「悪い、中に入れてくれ」
低く重い声から何か込み入った事情があると察し、メグはヴィクターを部屋に上げた。
疲れ切ったように座り込んだヴィクターは、服の内側から何かを取り出しながら話し始めた。
「メグ、何も言わずに聞いてくれ。
ジョージが倒れた。すぐに復帰できる状態ではない。
ここにジョージからの伝言があるから業務が始まる前に見ておいてくれ」
何も言うなと言われていたメグは、呆然としながら紙を受け取った。
突然すぎて何を言われているか思考が追いついて来ない。
「今から経緯を話す。メグには要らん忠告だと思うが、一つだけ。
この件に関しては、ジョージの意思を尊重してやってほしい」
「話が見えないけど、ジョージがそれを望むなら」
メグが頷くと、ヴィクターはことの経緯を声を潜めながら淡々と説明した。
その話が終った頃には、メグは受け取った紙を強く握り締めて青ざめていた。
「そこに書いてある内容は俺もよく知らん。
ギルバートへの処置はそこに書いてあるそうだ。
お前なら軽率な判断はしないだろうが、よくよく考えてくれよ」
「・・・ええ、わかっているわ」
「そうか。なら、俺はもう行く。手伝えることがあれば言ってくれ。
あと、アドとプラトーはもう知っているから話を出してかまわん」
立ちあがって出入り口へと向かうヴィクターを、メグは思わず呼びとめた。
「ねえ、ヴィクター。貴方は、ギルバートを憎まないの?」
「憎むとかってもんじゃねえ。あの場で切って捨ててもいいと思った。
けどな、これはジョージ自身の問題であって俺は傍観者に過ぎない。
苛立ちはあるけど、何だろうな。何に苛立ってんのかわかんねえ」
振り返らないまま、ヴィクターはそれだけ言って足早に立ち去ってしまった。
座り込んでいたメグは、のろのろと立ちあがって窓に掛った薄布を払った。
朝の白い光が部屋に差し込んでくる。
まるで実感が無い。
ジョージは何も、メグには言ってくれなかった。
あれだけ毎日顔を会わせていたのに、気付くこともできなかった。
それがジョージの望みだったとしても、酷く堪える。
窓際に立ち、メグは筒状に巻かれた紙をするすると広げた。
そこには、やや角ばったジョージの字が行儀よく並んでいる。
日の光が届かない部屋は、薄暗くひんやりとしていた。
小さな明かり取りの窓が一列に並んでいる様は、まるで光の帯のようだ。
柔らかな毛氈が敷き詰められたさほど広くない部屋には、
歴代の海軍総司令官の肖像画が壁に並んで掛かっている。
「ジェームス、報告があるんだ」
どこにでもいそうな壮年の猫の肖像画の前で立ち止まり、アドミータスは呟くように話しかけた。
総司令官とは思えない優しい笑みの中に確かな知性を秘めて
ジェームスはただ静かにアドミータスを見つめている。
「兄貴はきっと貴方の願いを叶えてくれる。
貴方が恨みの淵へと追いやった者たちは兄貴が救い上げるはずだから」
何も返さないジェームスに、アドミータスは敬礼をした。
偉大なる祖先。
ジョージと面立ちが似ている。
ということは、アドミータスにも似ているということになるのだろう。
「お待たせ、プラトー。寄り道させてごめん」
「いや、どうせすぐには会えないんだろうし」
アドミータスの数メートル後ろに立っていたプラトーは、
滅多に踏み入れることの無い部屋をまだ物珍しげに見回している。
立場上はアドミータスの上官にあたるプラトーだが、
学生時代からほぼずっと一緒にいる腐れ縁でもあった。
「ジョージはまだ治療中なんだろう?なあ、ヴィクター」
「ああ。あんまりでかい声は出すな。聞かれても厄介だ」
入り口付近の壁に凭れかかっていたヴィクターは、
常よりもさらに目つきが悪く、プラトーは小さく肩をすくめた。
「ご立腹か?」
「腹は立ってねえ。けど、何か苛々すんだ」
鞘に納まった短剣を弄びながら、ヴィクターは吐き捨てるように言った。
あの後、エキゾチカとディミータが応急手当を施している最中に
意識を失ったジョージを医務局まで密かに運んだのはプラトーだった。
それなりに上背のあるジョージを、怪我に響かないように運ぶには
体格の良いプラトーが最善との判断でヴィクターが呼びに行ったのだ。
「あいつ、動けなくなってんのにギルバートの心配ばっかりしてやがった。
自分が殺されるかもしれねえってのに落ち着いてる馬鹿がいるか!」
聞かれてはマズイとわかっていても、興奮に近い苛立ちは抑えられないのか
ヴィクターは力任せに柔らかな敷物を踏みつけている。
「ヴィクターはギルバート隊長に嫉妬しているのか?」
「は!?」
勢いよく振り返った拍子に、ヴィクターは思わず大声を上げていた。
そうさせたアドミータスは表情を変えることもなく、
薄めの唇に指を当てて、静かにというような動作をした。
「俺はあのギルバートって奴に腹を立てることはあっても、嫉妬する理由はどこにもない」
「そうかな。気づいてないだけだと思うけど」
アドミータスの物言いは淡々としていて感情が読めない。
毒気を抜かれたヴィクターは、苦い表情でため息を吐いた。
「何でそう思うんだよ」
「ん?何でって」
少し困ったように首を傾げたアドミータスは、
暫くその辺に視線を彷徨わせて宙を見つめたまま言った。
「何か俺がヴィクターに感じてることと似てるかなあって。
要するに、ヴィクターは兄貴がギルバート隊長に向ける優しさが
羨ましいというか妬ましいというか、そういう感じかと思って」
「ああ、なるほどね」
頷いたのはプラトーだった。
「俺もヴィクターのことは羨ましかったかもしれないな。
ジョージは昔からみんなが一目置く存在だったからな、
あいつに信用されるとか重用されるってのは一つの名誉なわけで」
「そう。兄貴は誰に対しても平等に振舞ってくれるけど
傍に置くのは本当に能力があって信用に足る者だけだから」
アドミータスは微かな笑みを浮かべた。
明るさの無い笑みは、双子とは言えジョージには全く似ていない。
「兄貴の一番近くにいたのはいつだってヴィクターだった。
俺は双子の弟なのに、兄貴にとって俺は守るべき存在であって
背を預けて共に逆風に立ち向かう存在ではなかった」
「気づいてないのかヴィクター。
お前が第七の隊長に抜擢されたのだって、ジョージの意向だろう?
あいつ、お前が誰かに管理されるのが嫌だからって言ってたんだ」
責められているようないたたまれなさを感じて、
ヴィクターはふいと視線を逸らせた。
「あいつの信頼は知っている。だから俺はあいつを守ろうとした。
なのにあいつは・・・命を失くしていいと思っていたみたいで」
「違うだろ」
何を言ってるのか理解できないといったような調子で
アドミータスはヴィクターの言葉を遮った。
「詳しいことは知らない。兄貴は俺にはほとんど何も言わなかったから。
でも、兄貴は命を失うなんてこれっぽっちも思ってなかった。
ヴィクターが思うようにしろって言ったんだろう?」
「それは、まあそうだ・・・俺はあいつを殺させるつもりは毛頭なかったんだ」
――― 大丈夫。お前は死なない、絶対に。
「けど、絶対なんてありえないことくらいわかってただろうが」
「わかってても信じたかったんだ。
ヴィクターがいるから俺は大丈夫ってさ。兄貴はそう言ってた」
結局のところ、焚きつけたのは己だという現実を思い知らされ、
納得できなくてもこれ以上不貞腐れているわけにはいかなくたり、
ヴィクターは小さく舌打ちをして様々な不満を飲み込んだ。
「・・・ったく、何でお前らはそう淡白なんだろうな。
悔しくないのか?ジョージがあんなにボロボロにされてんだ」
「兄貴の選んだことだから、俺が悔しく思うことはない。
そもそも、力の差を考えても総司令官としては失格の判断だろう?
でも、兄貴は自分の手で苦しむ者を救いたかったんだから」
「これで良かったって言うのか」
はがしがしと耳の辺りを掻きながら、
お前ら兄弟はわからんとヴィクターは呆れたように呟いた。
「ジョージなんか、俺から見りゃあ異様なほどお前のこと大事にしてやがる。
お前はジョージのことをよくわかってんのに、今みたいにすげえ淡白だ」
「簡単なことだ」
表情を消して、アドミータスはヴィクターを見据えた。
「俺と兄貴では立場が違う。幼いころからずっと。
同じように育てられたのに、俺と兄貴は見た目以外は全部違った。
いつも兄貴が俺の手を引っ張ってくれて、俺は影みたいに付いていった」
アドミータスとジョージ。
見た目はそっくりだった。
黙っていれば今でも見分けはつかないほどだ。
しかし、ジョージは感情豊かで快活なのに対し、
アドミータスは常にぼんやりとして表情はあまり動かない。
「初めて兄貴が謀でたくさんの敵国艦隊を沈めた時のこと、覚えてるだろう?」
「ああ。俺は最前線にいたからな」
「大勝だったけど、兄貴は帰って来てずっと吐いてた。
それを見てて思った。兄貴はきっと、冷酷にはなりきれないなって。
その時に決めたんだ」
僅かにアドミータスの声が低くなった。
それだけで部屋の温度が下がった気がして、ヴィクターはぶるりと身を震わせた。
「俺は兄貴が切り離した残酷な部分を引き受けよう、そう決めたんだ。
断を下すのは兄貴だけど、手を下すのは俺でいい。
汚い仕事でも、陰のようでも、それでも俺は生きていける」
「・・・お前の決断をジョージは知らないだろう?」
「その方がいい。こんなこと知られたら兄貴は自分のことを責めるだろうし。
だからさ、ヴィクター。俺は兄貴に深く執着するわけにいかないんだ。
いつだってこの身を捧げられるように。それが俺の唯一の矜持だから」
静かなアドミータスの声に暗さは微塵もない。
覚悟した者の持つ揺るぎない意志が、冷たい音となって響くのみ。
ヴィクターはただ頷いた。
「わかってくれた?じゃあ、行こう」
「は?あ、ちょっと待てよ」
へらりとアドミータスが笑って部屋から出て行く。
その落差にヴィクターは唖然としていると、プラトーが小さく喉を鳴らして笑った。
「ああやっていつも笑っていてくれりゃあ俺も気が楽なんだけどな。
なあヴィクター、俺はアドと同じ処に立つつもりだ。
お前はジョージの傍に立っていてくれればいい」
「とてもジョージには聞かせられねえ台詞だな。
大丈夫だ、任せておけ。要はお前たちが汚れ仕事しなくていいような
そんな国になればいいってわけだ。ジョージならできんじゃねえの」
「お前はいつも根拠のないことをさらっと言うな。
さあ、行こう。まだジョージは目を覚まさないだろうけどな」
プラトーは少し身をかがめて扉を抜けて行った。
ジョージの見舞いに行くことになっていた。
医務局でもごく一部の医師だけがジョージの治療にあたっている。
表向きは過労で倒れ、養生していることになっている。
全て、事前にヴィクターがジョージから指示を受けていた。
「ジョージには早く復帰してもらわねえとな。まだ終わったわけじゃねえんだし。なあ?」
壁に掛って微笑んでいる親友の偉大な祖先に声を掛け、
ヴィクターはアドミータスとプラトーを追って部屋を出た。
「おい、待てよアド、プラトー!
俺だけじゃ医務局の場所わからねえんだって!」
高い太陽の下に、アドミータスとプラトーの低い笑い声が響く。
いつだって望んでいるのだ。
こうして笑い合う日常を手に入れたいと。
いつだって覚悟はできている。
そのためならば、己の身を捧げてもよいと。
「メグは連れてかなくていいのか?」
「あいつは仕事だ。このくそ忙しい時期にこれじゃあ執務室の奴らは瀕死だろうよ」
「メグが倒れちゃったら誰が兄貴に嫁いでくれるのさ」
立場が違う。役割も違う。
それでも彼らは仲間で、それぞれに矜持を持っている。
「聞こえてるのよ、馬鹿」
窓からかつての学友たちを見下ろして、メグは一つ溜め息を吐いた。
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